子兎とシープドッグ

篠原 皐月

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本編

第12話 お局様の指導

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 懇親会当日、業務終了後に綾乃が職場にほど近いビルの五階に入っているパブレストランに移動すると、かなり盛況なのが分かって多少怖気づいた。加えて自分の姿を認めた殆どの者が、胡乱げな視線を向けてきたのを見て正直帰りたくなったものの、すかさず香奈が「お疲れ様」と言いながら歩み寄って来てくれたので、笑顔で挨拶を返す。
 少し遅れてお局社員として幅を利かせている公子が悠然と現れた為、取り敢えず店内の気まずい空気は押し隠され、その様子を祐司は少し離れた所から眺めていたが、予め弘樹から「トラブルの元になりかねないから、お前は黙って引っ込んでいろ」と釘を刺されていた為、心配しながらも同僚と話をしながら、そ知らぬふりを決め込んでいた。

 そして職場ごと、または仲の良い者同士でテーブルに着き、全員にグラスが回った所で、旗振り役の弘樹が乾杯の音頭を取った。
「それでは今夜は、普段の交流の少なさを払拭するように、大いに飲んで語り合いましょう。乾杯!」
「乾杯!」
 最初はそのままの位置で皆飲んで食べ始めたが、十五分もすると自分の取り皿とグラス片手に、次々と場所を移動し始めた。店を貸切にしている為、周囲の客の目を気にする事無く、目当ての人物のテーブル席を狙う者、飲み放題の為カウンターに陣取ってあれこれ作って貰って痛飲している者、そんな風に大抵は精力的に動き回っていたが、その片隅でひっそりしているテーブルがあった。

「君島さん、頑張っているわね」
 ビールが入ったグラス片手に公子が小さく笑うと、綾乃が顔を上げて聞き返した。
「え? 『頑張っている』って何がですか?」
「皆に遠巻きにされても、ちゃんと最後まで残っている気なんでしょう?」
「勿論です」
 はっきりと断言した綾乃に、公子が笑みを深くすると、同じテーブルで黙々と料理を食べていた香奈が、横から会話に割り込んできた。

「笹木さんもご苦労様です。ところで秋月先輩が君島さんの参加を渋っていたみたいですが、どうやって納得させたんですか?」
 その心底不思議そうな問いかけに、公子はビールを一口飲んでから淡々と答えた。

「私が出ると言っただけよ」
「はい? ちょっと意味が分かりませんが」
「今回の参加者条件は『男女とも独身社員』でしょう? 私、子供がいるけど独身だから、参加したいと言えば文句は言えないわよね。それで私が参加できるのに、君島さんが参加できないのは不自然でしょう?」
「うわぁ、そうきましたか……。笹木さんだけにできる、力技でしたね」
 香奈が引き攣った笑顔で棒読み調子での感想を述べると、綾乃は公子に驚いた視線を向けた。

「え? 笹木さんが独身なのはお伺いしてましたけど、未亡人だったんですか?」
「違う違う。いわゆる事実婚って形なの」
 笑って香奈が否定すると、公子が女子社員達が固まっている会場の一角を指さしながら、意地悪く付け加える。

「でもあそこら辺の連中は、普段『事実婚なんて言って、要は愛人でしょ?』とか『独身で子持ちって言われてもね』とか陰口叩いてるから、『いつもあなた達が独身って言ってるのよ? 私が参加する事に何か文句あるの?』って言った上で、『これで総務部独身女性で、参加申請を受け付けられていないのは君島さんだけね。特定人物の排除なんて、パワハラに関する社内規定に抵触するけど、そこの所をどう思う?』と聞いたら、あっさり認めてくれたわ」
「……お手数おかけしてます」
 恐縮しきりの綾乃に向かって公子は苦笑いしてから、香奈に顔を向けた。

「どうって事無いわよ。それより宮前さん。頼んでおいた仕込みはどう?」
 その問いかけに、香奈が得意気な笑顔で胸を叩く。
「お任せ下さい。食いつくネタはバッチリ確保しておきました!」
「ありがとう。じゃあ頃合いを見て移動するわよ?」
「はい、それまでしっかり食べておきましょう!」
「そうね。ここのお料理、結構美味しいし」
「どうせ酒と男や女狙いで、皆大して食べないでしょうからね。余らせる位ならお店からパック容器を貰って、詰めて帰りたいなぁ」
「私さっき貰ったわよ? 手提げ袋付きで」
「本当ですか? 流石笹木さん、いつの間に……。私も貰ってこようっと!」
 何やら自分には良く分からない会話を交わす先輩二人を、綾乃は首を傾げながら眺めていたが、それから二十分程してチャンスがやって来た。女子社員のグループが散って、あるテーブルに幸恵と清実の二人だけになったのを確認して、公子が香奈を促す。

「そろそろ良い頃合いじゃない?」
「そうですね。一足先に行きます」
「宜しく」
 そして香奈はグラス片手にゆっくりと二人のテーブルに歩み寄り、笑顔で清実に声をかけた。

「秋月先輩、ちょっと宜しいですか?」
「何?」
 怪訝な顔をした清実は勿論、話に割り込まれた幸恵も気分を害したように見上げてきたが、香奈はにっこり笑って話を続ける。

「ちょっとお耳に入れておきたい事が有るんですが」
「だから何?」
「失礼します」
 一応断りを入れてから香奈が清実の耳元に口を寄せて何やら囁くと、清実は弾かれたように立ち上がり、香奈の肩をガシッと掴んで嬉々として叫んだ。

「ちょっと! それ、詳しく聞かせてっ!!」
「構いませんよ? 少し人気の無い所でお話ししましょうか」
「そうね。じゃあ幸恵、悪いけどちょっと抜けるわね!」
「ええ」
 そして二人が連れ立って会場の隅の方に歩いていくのを、呆気に取られて見送っていた幸恵の耳に、穏やかな声が届いた。

「ここ、良いかしら?」
 愛想笑いを浮かべた公子の一歩後ろに、綾乃が立っているのを認めた幸恵は、不機嫌そうな表情を隠しもせずに立ち上がった。
「……どうぞ。空きますので」
「あら、わざわざ移って来たんだから、あなたに話が有るって思わないの? そんな無粋な事をしていると、KY女と陰口を叩かれるわよ?」
 薄笑いを浮かべた公子にそんな事を言われた幸恵は、舌打ちしながら椅子に座りなおした。そして二人も向かい側の席に腰を下ろしてから、刺々しい口調で尋ねる。

「話ってなんですか? 総務部の笹木さん、でしたか? あなたと私の関わり合いなんて、職場では皆無ですよね?」
「あのっ! 笹木さんは私に付いて来て下さっただけなので。私が幸恵さんと、お話ししたかったものですから」
「それなら私には、話なんてする気はないわ。それじゃあね」
 今度こそ立ち去るつもりで腰を浮かせかけた幸恵に、ここで公子がのんびりとした口調で声をかけた。

「ちょっと待ってくれる? 実は私も、あなたにちょっと話があるのよ」
「何ですか? 手短にお願いします」
 幸恵が本格的に苛つきながらも座り直し、そんな話は聞いていなかった綾乃が驚いて見守る中、公子が淡々と幸恵に言い聞かせた。

「あなたがさっき言ったけど……、確かに普通だったら関わり合いになる筈が無いんだけどね、一応先輩として忠告してあげようかと思って。あなた、親や先生から『自分がされて嫌な事は、他人にしてはいけません』とか教わらなかった?」
「はぁ? 何を言ってるんです?」
「あなたでしょう? 総務部(うち)の秋月にこの子の身元を吹き込んで、尾びれ背びれを付けて社内で吹聴させたのは。あなたが個人的にこの子を無視しているだけだったら、個人的な問題だから傍観していたんだけど、職場内で軋轢を生じさせる言動を意図的にするのなら話は別だから、一言意見させて貰おうと思ったのよ」
 これまでの職場のあれこれが、幸恵が裏で糸を引いていた為などとは予想だにしていなかった綾乃は、大きく目を見開いて固まったが、公子に指摘された事で何やら切れたらしい幸恵が、ゴンッと持っていたグラスをテーブルに叩き付けるように置きながら、腹立たし気に叫んだ。

「はっ!! だったらどうだって言うんですか? この子が君島代議士の娘でうちの会社にコネ入社したって事は、れっきとした事実でしょうが!?」
 響き渡ったその声に、店内が瞬時に静まり返り、参加者の視線が幸恵と綾乃に集中した。そんな中、苛々しながら二人の様子を窺っていた裕司が、血相を変えてすっ飛んで来る。

「おい、何を揉めてるんだ! こんな所で騒ぎを起こすな!」
 しかしそれで怒りが増幅されたらしく、幸恵が勢い良く立ち上がって祐司に怒鳴り返した。

「五月蠅いわね! ナイト気取りで人の話に割り込んで来ないでよ! 権力者にすり寄ろうと小娘に尻尾振ってるなんて、傍から見たらいい笑いものでしかないわよ!!」
「あの……」
「はあ? この前と言い今と言い、誰が尻尾振ったって言うんだ!? この騒ぎは元はと言えば、お前が考え無しに彼女の身元を言いふらしたせいだろうが!」
「ちょっ……」
「それは事実じゃない! 周りに言って、何が悪いってのよ!」
「その……」
「言って良い事と悪い事が、あるって言ってるんだろうが!」
「だから……」
「こんな見栄えのしない、性悪な子が良いだなんて、目も根性も腐ってるあんたに、そんな事言われる筋合いは無いわっ!!」
「どこが性悪だ! お前の方が、はるかに性格が悪いだろうが!!」
「何ですって!?」
「二人とも、お願いですから止めて下さいっ!」
「ってえ!」
「きゃあっ!」
 盛大に口論を始めた祐司と幸恵の前に立って、綾乃はおろおろとしていたが、何を思ったか渾身の力で勢い良く二人を突き飛ばした。そして綾乃は不意を衝かれて床に転がった二人の前にしゃがみ込み、涙目になりながら両手で幸恵と祐司の腕を掴んで訴える。

「私のせいで、喧嘩は止めて下さい。お二人には仲良くして欲しいんです!」
「どうしてそんな事、あんたに指図されなきゃいけないのよ! というか、人を突き飛ばしておいて、その言い草は何!?」
「いや、これは……。喧嘩するつもりは無いんだが、幸恵の奴が誤解も甚だしい事を口にしているから、それを正さないと駄目だろう」
 憤慨した幸恵の叫びと困惑した祐司の弁解が済んだところで、さり気なく公子が彼女達の会話に割り込んだ。

「そうよね? 君島さんが高木さんを口説いたとかって言うのは、明らかに間違いよね? だって高木さんが君島さんを口説いたけど、君島さんったら、高木さんより荒川さんの方と仲良くなりたいからって、あっさりキッパリ門前払いで、高木さんをお断りしたって聞いてるし。モテ男が可哀相に、元カノに負けるだなんて、ダメージ大きいわよねぇ……」
 しみじみとした口調で呟かれたそれは、静まり返っていた店内の隅々にまで、容赦なく届いた。そして益々微妙な視線が突き刺さってくるのを、遅ればせながら感じ始めた綾乃が、恐る恐る口を開く。

「……え? あ、あの笹木さん。お断りって言うか、何と言うか……」
「だって、『今はお付き合いとかは考えられません』とか何とか、本人に面と向かって言ったんでしょう?」
「そっ、それは確かに、そう言われてみれば、そう、ですが……」
 どう言えば良いのか分からず冷や汗を流し始めた綾乃だったが、ここで我に返った祐司が、公子に向かって盛大に抗議の声を上げた。

「笹木さん! 何て事を言うんですか!? 確かに保留にはされましたけど、お断りされたわけじゃありませんよ! 一体何を根拠に、そんな事を言うんですか!?」
 その訴えに、公子は店の一角を指さしながら、事もなげに告げる。
「ニュースソースは、あそこで腹を抱えて笑ってるけど?」
「……っ! ……はっ、腹がいてぇ……、くっ……、おっ、お断りっ……、っは、ははっ……」
 それを受けて、綾乃や幸恵も含めたその場全員が、指先の方向に視線を向けると、そこには腹を抱え込むようにしてテーブルに突っ伏し、何やら切れ切れに笑いこけている弘樹を発見した。

「弘樹!! お前って奴はぁぁぁっ!!」
 反射的に祐司が怒声を張り上げたが、公子はそれを無視しながら幸恵を見下ろして話を続けた。

「それから一応教えてあげるけど、この子は君島代議士のコネで入社したりはしていないわよ? 第一、この子がコネ入社なら、あなたも同類じゃない」
「何ですって!? 幾ら先輩だからって、人を誹謗中傷するにも程がありますよ?」
 淡々と告げられた内容に幸恵は怒りを露わにしたが、公子は全く怯まなかった。

「あら、先に根拠の無い言い掛かりを付けたのは、あなたでしょう? それに私は根拠の無い事は口にしないわ」
「はぁ? じゃあその根拠とやらを、聞かせて頂きましょうか!!」
「あのっ! 笹木さん! 幸恵さんも止めて下さい!」
「最初は傍観していたけど、そうも言っていられなくなったものね。私の根拠はこれよ」
 今にも殴りかかりそうな幸恵の手を引っ張りながら、綾乃は宥めようとしたが、その前で公子は悠然と自分のハンドバッグから一枚の写真を取り出し、幸恵に向かって翳して見せた。そして気になった綾乃も反射的に身を乗り出して、公子の手元にある物を確認してみる。

「何ですか? その写真」
「え? それ? ひょっとして……」
 幸恵は怪訝な顔になったが、綾乃は心当たりがあった為それを凝視した。すると公子が微笑みながら、綾乃に声をかける。

「ええ、君島さんのお母さんが大学時代の写真よ。荒川さんはこの頃のお母さんにそっくりでしょう?」
「そうですね、私よりよほど母娘おやこみたいです。私は父方の祖母系統の顔立ちみたいで」
「何を惚けてるのよ。あんたが持って来たんでしょう!?」
「いえ、私は別に」
 幸恵に噛み付かれて慌てて綾乃が否定すると、公子が写真を軽く揺らしながら意味有り気に言い出した。

「これは社長のアルバムの中に貼ってある物を、頼んで借りて来たのよ。本当にそっくりよねえ? 社長の初恋の人、旧姓、荒川夢乃さんの姪ごさんの、荒川幸恵さん?」
「……何が言いたいんですか?」
 相変わらず周囲が静まり返っている中、幸恵が両目を眇めて公子を睨みつけたが、相手はびくともせずに話を続けた。

「あら、だって本当の事でしょう? あなたと君島さんが従姉妹同士って事は。君島さんの親子関係が明らかになっているのに、どうしてそっちの関係が広がっていないのか、少し不思議だったのよ」
「あの人は、叔母でもなんでも無いわ! 死にかけている実の母親を見捨てるような女なのよ!?」
 思わずかっとなって幸恵が怒鳴りつけたが、公子の落ち着き払った態度は、微塵も揺るがなかった。

「そんな家庭の事情なんて、他人の私が知るわけないでしょう。第三者の私が知っているのは、社長の初恋の人が、あなたに酷似したあなたの父方の叔母の君島夢乃さんで、社長と恋敵の君島代議士とは犬猿の仲で、二人の間では今でも交流が無いって事実だけよ。どこか間違っているかしら? それなら指摘して頂戴。だけど間違った事で無ければ、何を公言しても良いんでしょう? あなたがさっきまで主張していた事よ」
「…………っ!」
 思わず幸恵がぎりっと歯軋りをして黙り込んだが、それとほぼ同時に会場内のあちこちでざわめきが生じた。

「え? 何? それじゃあ、あの子が君島代議士のコネで入社したって違うんじゃない?」
「そうよね。社長とその代議士が犬猿の仲って言ってたし」
「でも母親のコネなんじゃないの? 社長の初恋の人の娘なんでしょう?」
「だけどそれを言ったら、荒川さんってどうなのよ?」
「そうだよね……。ここからだとどんな写真なのか良く見えないけど、その女性と随分似てるみたいだし」
「今、叔母ってちゃんと言ったよな? じゃあやっぱりあの子とは、従姉妹同士だって事だろ?」
「それなのに、それをわざと隠してたって事はさぁ……。何か疾しい事でもあるんじゃない?」
「やだ、ひょっとして自分はその初恋の人の姪って事でうちに入れて貰ったのに、それを棚上げしてあの子の事を言いふらしてたとか?」
「荒川の奴、結構性格キツイと思ってたが、根性まで曲がっていたらしいな」
「うっわ、最低」
 そんな囁き声が伝わってきて、幸恵は怒りに震えながら公子に向かって絶叫した。

「ごちゃごちゃ五月蠅いわよ! 一体、何様のつもり!? 大体あんたこそ社長の愛人のくせに、他人の事情に口を挟んで、偉そうな事言ってるんじゃないわよ!?」
「幸恵さん、何て事を言うんですか! 止めて下さい!」
「五月蠅いわね! あんたもいい加減に、その手を離しなさい!!」
 その叫びを耳にした会場中の人間は、殆どが真っ青になって固まったが、何故か公子は面白そうな笑顔になって言い返した。

「あらあら、それこそ誹謗中傷の類だと思うんだけど。何を根拠にそんな事を言うのかしら?」
「事実婚だなんて言って、未婚の母で社内に居座ってるのが、何よりの証拠でしょう? 皆言ってるわよ。それにその写真! どうして社長のアルバムから持って来るなんて事ができるのよ!? 社長の愛人だって証拠じゃない!」
「幸恵さん、笹木さんは関係ありませんし、愛人呼ばわりなんて駄目ですよ!」
「あんたは引っ込んでなさい!」
 焦って幸恵を止めようとした綾乃だったが、激高した幸恵が素直に従う筈もなく、掴まれている手を乱暴に振り払おうとした。すると緊迫しきったその場に不似合いな、押し殺した笑い声が響く。
 
「……っ、くっ、こ、ここまで墓穴掘りだなんてね」
 見ると公子が口元を押さえて笑いを堪えているのが分かって、綾乃は訳が分からなくなったが、幸恵は盛大に噛みついた。
「何がおかしいのよ!」
「ちょっと待っててくれる?」
 そして何を思ったか、公子はバッグから携帯電話を取り出し、どこかに電話をかけ始めた。

「もしもし? 私。…………そうだけど、迎えに来てくれる? ……ええ、空気が悪くてね。ああ、それから……、ちょっと気が変わったから、二十分以内に来てくれたら入籍してあげるわ。それじゃあ、事故らない程度に頑張ってね」
 そして公子は通話を終えてバッグに携帯をしまい込みながら、苦笑いして綾乃を見やった。

「社長が以前、君島代議士夫妻の事を『虎と豹』と評していたけど、それは正しかったみたいね。娘は見た目小動物系でも、噛み付く歯は持っていたみたいだし」
「はい?」
「離す気無いでしょう? その手」
「え、ええっと……」
 綾乃が首を傾げたが、公子が未だに幸恵と祐司の手を掴んでいる綾乃の手を指し示すと、綾乃は幾分気まずそうに俯いた。そして直前のやり取りを呆然と見ていた裕司が、公子に向かって疑わしげな視線を向ける。

「あなたは一体、何者なんですか? 社長の愛人じゃないって言うなら、どうしてそんな内情まで知ってるんですか?」
 その問いかけは、参加者の殆どが疑問に思ったものだったが、公子は苦笑いして、回答をある人物に委ねた。

「弘樹君、いつまでも笑ってないで。私が言っても信憑性に欠けるから、説明宜しくね」
「はいはい。ご指名を受けちゃったし、せっかく公子さんがその気になってくれたみたいなのに、ここで機嫌を損ねて気が変わったりしたら、親父に怒鳴られるだけじゃすまないしね」
 そんな軽口を叩きながら、弘樹が椅子からゆっくりと立ち上がり、まっすぐ綾乃達の方に歩み寄った。そして未だ床に座ったままの幸恵の前に立ち、疲れた様に彼女を見下ろしながら、溜め息を零す。

「さっきお前、公子さんが親父の愛人とか何とか言ってたけどさ、あれ誤解だから。思っててもそんな事を口に出すなよ。下手を踏むにも程がある。フォローのしようが無いじゃないか」
「あんたにフォローして貰う必要なんか無いわ! 一体何だって言うのよ!?」
 その叫びを無視して床の三人の横を通り過ぎ、弘樹は座っている公子の椅子の後ろに回り込んで、その両肩に手を置いてから三人に向かって、衝撃の事実を告げた。

「公子さんは俺のじいさん、つまり前社長と事実婚している、義理のばあさん。そして社長である親父の義理の母親で、俺の十八歳年下の叔母さんの母親。だからじいさんと親父経由で、色々聞いてるんだよね」
「…………は?」
 ピキッと周囲の空気が凍る中、綾乃が一言間抜けな声を上げたが、その顔がおかしくて堪らなかったように失笑しながら、弘樹は公子の顔を覗き込むようにしながら同意を求めた。

「ね? 公子おばあちゃん?」
 そんな冷やかす様な口調に、公子は肩に置かれた弘樹の片方の手をペシッと叩きながら、苦笑いで応じる。

「おねえさんと呼ぶまでは、お小遣いはお預けね」
「そんな殺生な。可愛い孫に愛の手を~」
「……は? え? えぇぇぇぇっ!?」
 そこで一瞬遅れて綾乃の驚愕の叫びが響き渡り、目を限界一杯まで見開いたが、それでも幸恵と祐司の手をしっかり握って離さないのを見た公子が、感心しながら口にする。

「凄いわね、そこまで驚いても離さないなんて」
「そうですね。肉食獣って言うよりは、寧ろスッポンかな?」
「そうね。あれは噛みついたら離さないって言うし」
「あ、そうだ公子さん、今度親父たちと一緒に、スッポン鍋を食べに行かない? 良い店を見つけたんだ。勿論、良子ちゃんが美味しく食べられる物もあるから」
「そう? じゃあ行きましょうか」
 そんな一見ほのぼのとした家族の会話を聞きながら、周囲の者達は未だ衝撃が冷めやらぬまま固まっていた。
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