恋愛登山道一合目

篠原 皐月

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第18話 桜査警公社の闇

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「もっ、申し訳ございませんでした、お嬢様!! その節は、大変ご迷惑をおかけした上に、不快な思いをさせた事をお詫びいたしますので、何卒何卒ご容赦を!!」
「お嬢様って……」
 ソファーから飛び降りる勢いで床に座り、真っ青な顔で自分に向かって土下座した田辺を見て、真紀は正直面食らった。すると寺島が、笑いを堪える表情で、お伺いを立てる。

「さて、社長。この始末はどうしますか?」
「そうだな……」
 そして一瞬考え込む素振りを見せた藤宮だったが、すぐに淡々と意見を述べた。

「やはり社会通念上の観点からも、まず菅沼への謝罪と慰謝料の支払いが必須だな。気の毒に例の一件で、ホストに金をかすめ取られたと社内で散々笑い物になった挙げ句、『特防一のカモ女』とか『貢ぎ女のミツ子』とやらの不名誉な二つ名を付けられて、屈辱にまみれていたそうだし」
「お嬢様、本当に申し訳ございません!!」
「いえ……、なんかもうあまりのバカバカしさと、上層部の秘密主義に呆れて、もうどうでも良い気になってきましたし」
 床に頭をこすりつけた田辺を見て、真紀は本気でうんざりしてきたが、それを見た藤宮はわざとらしく曲解した。

「ほうぅ? 北郷議員サイドからの謝罪などどうでも良い。この際、議員もその周囲も丸ごと破滅してしまえば良いと、そういうわけだ。確かに菅沼がそういう心境に至っても、全くおかしくは無いな。むしろ自然だ」
「……いえ、そうは言っておりませんが」
 控え目に訂正しようとした真紀だったが、ここで藤宮が机の上に置いてあった書類の束を取り上げ、わざとらしく田辺にかざして見せた。

「お誂え向きに、ここにちょっとした資料がある。北郷議員が所属している厚労省関連の某委員会が、外部に委託している事業先を調査した結果報告書だが、これによると、そこと北郷議員と昵懇にしているのが明白だな」
「……なんですって?」
「ええと、それは……、ひょっとして利益誘導や受注に関わる、贈収賄の証拠と言う物では……」
 田辺が弾かれた様に頭を上げたが、その顔は青を通り越して白に近くなり、真紀は恐る恐る推察を述べた。それに藤宮が真顔で頷く。

「そうとも言うな。正直俺はどうでも良いが、当事者のお前が『慰謝料なんか必要ない。徹底的に北郷議員一味を叩き潰して欲しい』と主張するなら、これを然るべきところに出して」
「おっ、お嬢様! 後生です! お願いですから慰謝料を受け取って下さい!」
 藤宮の台詞の途中で、田辺が凄い勢いで真紀ににじり寄り、パンツスーツの足首を掴みながら必死の形相で懇願してきた。

「いや、別に本当にどうでも良いし、足を離して欲し」
「百万ですか? 二百万ですか!? 誠心誠意、お詫びしますので」
「ですから、それは私の中ではもうとっくに終わった事で、今更どうこうするつもりは」
 しかし田辺も藤宮も、当事者の真紀の言い分など完全に無視しながら、それぞれの主張を続ける。

「そうか。百万二百万のはした金で事が片付く安い女と見られるのは、噴飯もので屈辱以外の何物でもないか。やはり菅沼は後腐れが無いように、この際完全に終わりにしたいと」
「五百万お支払いします! これで勘弁して下さい、私の権限ですぐに動かせる金額はその程度ですので! お願いします、お嬢様!」
(そう言われてもね……。社長、悪乗りして金額を釣り上げないで下さいよ……。あ、そう言えば)
 心底うんざりしながらも、ここで重要な事を思い出した真紀は、足元の田辺を見下ろしながら条件を出した。

「お金はともかく、あの時一緒に盗られたブローチは返して欲しいんですけど。あれは祖母の形見ですから」
「は? ブローチ? 何の事ですか?」
 しかし田辺は、きょとんとした顔になって真紀を見上げる。その反応を見た真紀は、即座に両目を細めた。

「……この期に及んで、しらを切るつもりですか?」
「滅相もございません!! 本当に何の事だか、皆目見当が!!」
「それは恐らく、健介氏が秘匿しているのではないですか?」
「え?」
「健介さんが?」
 必死に弁解する田辺の台詞に重ねる様に、唐突に寺島が口を挟んできた為、二人は面食らった。そんな二人に、彼がしみじみとした口調で告げる。

「心ならずも、誤解させたまま別れる事になった彼女を、その後も密かに忍ぶ為に。……いじらしいですよね」
 声だけ聞けばしんみりする台詞も、寺島の表情が完全にその場の空気を裏切っており、真紀は溜め息を吐いてから、軽く彼を睨み付けた。

「寺島さん……、絶対馬鹿にしてますよね?」
「そう見えますか?」
「その薄ら笑い。そうとしか思えません」
 そう断定された寺島は、笑みを深めながらファイルの中から一枚の拡大写真を取り出し、田辺に差し出した。

「因みに、彼女が盗られたブローチの画像はこれです。頑張って家捜しして、健介氏から取り上げて来て下さい」
「それでは公社が請求する警護報酬と調査費用の全額支払いと、菅沼への慰謝料の支払いとブローチ返却で、北郷議員と貴様に対する制裁はチャラにしてやるが、事を大きくした馬鹿息子二人への制裁がまだだな。どうするつもりだ?」
「ど、どうすると言われましても……」
 サクサクと話を進めた藤宮に、田辺が動揺しながら口ごもると、藤宮は冷え切った視線を未だに床に転がっている克己に向けた。

「特にその三男。このまま飼っておいても、無駄飯食いの上、ろくでもない事しかしないぞ。母親共々、無一文で放り出す位の事はするんだろうな?」
「それはさすがに……、奥様に責任はありませんし……」
「こんな無能な息子を生んだ上、後継者にしろとごり押ししていたんだろう? 有害この上無いだろうが。貴様は馬鹿か」
「…………」
 藤宮に鼻で笑われた田辺は、反論もできずに憮然として黙り込んだ。すると続けて藤宮が、とんでもない事を言い出す。

「お前が思い付かないなら、上手く事を収める方法を教えてやる。その女房と次男が、不貞を働いていた事にすれば良い」
「は、はいぃ? 奥様と健介さんがですか!?」
(うえぇ!? 社長、あんた何を言い出すの!?)
 田辺はもとより、真紀を初めとした公社の面々も目を見開いて絶句したが、藤宮は事も無げに話を続けた。

「そうすれば議員は息子に妻を寝取られたと、周囲から同情して貰えるだろう。それに、さすがにその息子を後継者にはできずに勘当する事にしたものの、やはり親子の情を断ちがたく、五千万ほど生前贈与して身の立つ様にしてやれば、さすが議員は情が篤く懐が深いと、支持者や周囲からは拍手喝采間違い無しだ」
「いえ、あの……、ちょっと待って下さい」
「その分、妻を憎悪して無一文で叩き出しても、当然だと納得する者はいても大っぴらに非難する者はいないだろう。議員には全く非が無いわけだし、すぐに再婚相手も決まるだろうな。これで万事、めでたしめでたしだ。今なら大サービスで、妻と次男の密会現場やヤバい写真の合成位、うちの開発解析部門でタダで請け負ってやるが?」
「いえっ……、そっ、それはっ……」
 既に血の気のない顔中から脂汗を流し、今にも倒れそうになっている田辺を見ながら、公社の幹部達が囁き合った。

「社長、なんつうゲスい提案を……」
「幾らなんでも、普通、そこまでのシナリオは書きませんよ」
「俺達もまだまだと言う事だな」
「これ位じゃないと、ここの社長は務まらないんですね……。うちのブラックぶりが、今回のこれで良く分かりました」
「今更だぞ、菅沼」
 そんな事を言っているうちに、藤宮はあっさりと最後通牒を田辺に突きつけた。

「さて、それでは振り込みは所定の口座に五日以内に済ませる事にして、菅沼へのブローチ返却と慰謝料五百万の現金支払いは、五時間以内に済ませて貰おうか。一秒でも遅れたら、これが表沙汰になると思え」
「あっ、いえっ! しかし、それはっ!」
 もはやまともに喋れない程狼狽している田辺を半ば無視して、藤宮が寺島に尋ねる。

「寺島、何時までになる?」
「十四時三十二分十八秒がタイムリミットになります」
「だそうだ。健介氏が、素直にちょろまかしたブローチを出せば良いがな。手間取ったら大変だ。こことの往復の移動時間を考えると、あとどれだけ時間があるか」
「少々お待ち下さい! すぐに揃えて持って参りますので!!」
 そして蒼白な顔付きで立ち上がった田辺は、脇目も振らずに廊下に向かって駆け出して行った。当然克己の存在は無視されて、その場に取り残される。

「あ、おい、田辺! 俺を置いて行くな!! ここから出せ!!」
 そう叫びながら克己は必死に袋の中でもがいたが、藤宮は如何にもつまらなさそうに手を振って、追い払う真似をした。

「茂野。その目障りな奴は、取り敢えず必要が無いらしい。また奴が来るまで、好きに遊んでいて構わない」
「そうですか! それなら遠慮なく!」
「おっ、おい! 冗談だろ!? これ以上……、ちょっと待て! 離せぇぇっ!」
 そして満面の笑顔になった茂野によって、克己は元通り猿ぐつわを噛まされ、台車に引きずり上げられてどこかへと運ばれて行った。
 そして再び静寂が戻った室内で、藤宮がおかしそうに真紀に声をかける。

「……と言うわけだ。感想は?」
 それに真紀は僅かに顔を顰めながら、質問で返した。

「因みにお伺いしますが、上層部は以前からこの事実を掴んでいたわけですよね?」
「ああ。幾ら本人が、事を荒立てたくはないと言っても、社員にちょっかいを出した馬鹿を放置するつもりはなかったから、私が指示を出して信用調査部門に調べさせた。だが君は一連の記憶を払拭するべく、日々邁進していると杉本部長から聞いていたのでね。神経を逆撫でする様な真似は、したくは無いと判断してお蔵入りにしていたんだが。何か言いたい事があるかな?」
「いえ……、もう本当にどうでも良い事ですので」
 藤宮の代わりに、実務を取り仕切っている金田が説明を加えてきたが、真紀は特に文句を口にしたりはしなかった。それを受けて、藤宮が真紀に告げる。

「そうか。それではご苦労だった。戻って構わない」
「はい、失礼します」
 そして彼女がおとなしく引き下がってから、真紀の直属の上司でもある杉本が、些か納得しかねる顔つきで問いを発した。

「ところで社長。奴がブローチと慰謝料をこちらに渡したら、本当にその証拠は北郷サイドに渡すおつもりですか?」
「そのつもりだが。何か問題でも?」
 あっさり肯定した藤宮に、杉元ははっきりと不満顔になったが、ここで何やら考え込みながら小野塚が口を開いた。

「確か……、以前別件の調査をしていた時、北郷議員の関与が明らかになった事例がありましたね。先程の証拠の文書より、そちらの方が公になったら拙いかと思いますが」
「それは、これの事ですか?」
 そこですかさず寺島がファイルから抜き出して差し出してきた書類を見て、過去にそれを見た記憶があった小野塚は、本気で呆れた。

「……これが今、ここですかさず出てくると言う事は、さっきのネタをあっさり渡して北郷サイドを安心させておいて、ほとぼりが冷めた頃にこちらを公にするつもりですか?」
「こちらで暴露しても、一円にもならないな」
「と仰いますと?」
 小野塚が問いを重ねると、藤宮は薄笑いを浮かべながら今後の方針を口にした。

「そうだな……。議員の夫人と息子の不倫スキャンダルが一段落して、再婚相手と華々しく披露宴を挙げた直後に、どこからかリークされるとか。追及を受けた北郷議員が失職や辞職すれば、議席が一つ空く。そこを虎視眈々と狙っている筋に持ち込めば、十分金になるだろう?」
「与党内の敵対派閥や、野党の対立候補陣営とかですか?」
 思わず杉本が口を挟むと、藤宮は平然と頷いた。

「そういう所だったら、ちょっと値が張っても買うだろうな。北郷はこれまで何度も上に担ぐ相手を変えてしぶとく政界を渡り歩き、狐面の蝙蝠と陰口を叩かれていている、大して人望が無い奴だ。忌々しく思っている人間は、幾らでもいるだろう」
「確かにそうですね。絞り取れるだけ搾り取るおつもりですか」
 思わず杉本が同意しながら呆れていると、藤宮がさらりと妻の事を口にする。

「美子もテレビの画面に奴の顔が映った途端、不愉快そうにチャンネルを変えていたからな」
 それを聞いた面々は思わず無言で互いの顔を見合わせ、金田がその場全員を代表して、笑いを堪える表情で問いかけた。

「……結局、社長の《会長至上主義》が最大の理由ですか?」
「何か文句があるのか?」
「いえ、夫婦仲が宜しくて、大変結構かと存じます」
 そこで苦笑いしながら全員が社長室から出て行き、一人残された室内で、早速藤宮は溜まっていた書類の決済に取りかかった。
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