アビシニアンと狡猾狐

篠原 皐月

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第36話 和臣の錯乱

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「やあ、初めまして、篤志君。荒川健です。伯父の名前位は知っているだろう? この番号は以前君島さんから聞いていたんだが、これまでかける必要が無かったものでね。君にもわざわざ不快な思いはさせたくなかったし」
「父さん!?」
「篤志さんに、かけているんですか!?」
 それを聞いた女二人は、予想外の展開に仰天したが、健は淡々と話を続けた。

「おっと、早速切るなよ。短気だな。奥さんの行方を知りたくないのか? ……ほほう? なかなか正直じゃないか。結構結構」
 悦に入っている口ぶりの健を見て、香織が半ば呆れた様に隣の正敏に囁いた。

「……お義父さん、完全に面白がってるわね」
「ああいう人だから。諦めてくれ」
「それで挨拶はここまでにして、本題に入るが……」
 そこで健が、どこからどう聞いても悪役っぽい口調で言い出した。

「貴様の嫁は、我が家で預かっている。返して欲しくばここまで嫁を迎えに来て、嫁に土下座するんだな。さもなければ嫁は返さん。お腹の子供ごと養子縁組して、広島には返さんからそのつもりでいろ、以上だ」
 そして苦笑いしながら通話ボタンを押した健は、信子に子機を渡しながら感想を求めた。

「どうだ、信子。こんな感じで良かったか?」
「ええ、ばっちりよ。これで篤志君にも本気度が伝わったんじゃない?」
 そうしてにこにこと上機嫌に語る夫婦を、他の者達は唖然として見やったが、ここで幸恵が真っ先に我に返った。

「ちょっと! あの兄貴相手に、なに喧嘩売ってんのよ!?」
「別に喧嘩は売ってないぞ? ちゃんと泉さんは家で預かっているから、心配するなと伝えただけだ」
「今の言い方の、どこがよっ!!」
 勢いに任せて健を叱り付けた幸恵だったが、ここで信子が意味不明な事を言い出す。

「あ、そうそう。泉さんの方が一段落したから、今度は幸恵の方よね」
「ああ、そうだ。すっかり忘れていたな」
 そして(何事?)と眉を寄せた幸恵の前で健が立ち上がり、隣の部屋に続く襖を両側に開きながら、その向こうに声をかけた。

「……じゃあ綾乃ちゃん、祐司君、いい加減それを解いてやってくれ。あ、一応、口と手は最後でな」
 そんな健の向こう側に見えた光景に、幸恵は本気で驚愕の叫びを上げた。

「え? …………ちょっと、あんた達、そこで何やってるわけ!?」
「……っ、……むぅ、……ぅ、……ふっ、……ぅ」
「え、ええと……、こ、こんにちは……」
「……色々あってな」
 そこには猿ぐつわを噛まされた挙句、薄手の毛布で全身をグルグル巻きにされ、ご丁寧にその上から胸から足首にかけての四か所を紐で縛り上げられた和臣が、芋虫よろしくのた打ち回っていた。更にそれに付き添っていたらしい綾乃が、引き攣った顔で挨拶をしてくる横で、何故か額に大きなガーゼを貼っている祐司が、憮然とした表情で和臣の身体を縛り上げている紐を解きにかかる。
 幸恵だけでは無く泉もその光景を見て言葉を無くしていると、正敏が疲れた様な表情で説明を始めた。

「幸恵……、お前、君島さんの家を飛び出した後、和臣の電話やメールに応答しないで、スマホの電源を落としていただろ?」
「……それが何よ?」
 些か後ろめたさを覚えながら幸恵が応じると、正敏は深い溜め息を吐いてから話を続けた。

「お前が出て行ったあと、篤志さんと和臣がブチ切れて大乱闘になったんだと。屋敷の人間は、その剣幕に恐れおののいて止められなくて、最後は祐司君が割り込んで何とか止めたとか」
 それを聞いて、幸恵は思わず黙々と作業をしている祐司に目を向けた。

「……それで、あの怪我?」
「おう、綾乃ちゃんの話では、見えない所にも相当ダメージ受けてるらしいぞ? 元カノが今の恋人と揉めたとばっちりを受けるなんて、気の毒過ぎる。後で謝っておけ」
「……そうするわ」
(ごめん、祐司。こんな事で面倒かけて)
 心の底から申し訳なく思った幸恵だったが、正敏は淡々と話を続けた。

「それから和臣の奴、昨日のうちに東京に戻って来たんだが、合鍵を使ってお前の部屋で待ってても、一向に帰って来ないし。相変わらず連絡はつかないしで」
「え? ちょっと待って」
 さすがに事の重大さに気が付いて冷や汗を流した幸恵に、正敏が更に追い打ちをかける。

「夜になっても音沙汰がないんで、誘拐か事故かと、あいつパニック起こして、綾乃ちゃん達は勿論、会社の上司さんにも立ち寄る場所の心当たりがないかどうか、聞きまくったらしい」
「まさか遠藤係長とかにも!? 何やってんのよあいつ!!」
 思わず声を荒げて、未だ芋虫状態の和臣に目をやった幸恵だったが、そんな彼女を正敏が盛大に叱りつけた。

「阿呆! ちゃんと連絡を入れるか、メールのチェック位しておけ! 挙句深夜になって『捜索願を出しに行く』と言い出して、その場に居合わせた綾乃ちゃんと祐司君を引き連れて警察に出向いたが、『身内でもない、自称婚約者の申請なんて受け付けられません』と言われて切れて、当直の警官相手に乱闘になりかけて、祐司君が力づくで引き剥がして、また負傷したそうだ」
(ホントにごめん、祐司)
 もう申し訳なさの極致の話を聞かされて、幸恵は本気で項垂れると、正敏が呆れた口調で続けた。

「俺達にあまり心配をかけたくないって、お前が行方不明になっている事は、こっちに連絡してこなかったんだがな。今日になって流石にそうも言ってられないと、電話をかけてきたんだ。それでお前から昨日、泊めて欲しい友達を連れてここに来るって連絡があった事を話したら、都心からすっ飛んできてな。お前の顔を見た途端噛み付きそうだったんで、一通り話を聞くまで、大人しくして貰ったってわけだ」
「それであの芋虫……」
「ああ。それでまた祐司君に、痛い思いをさせちまったがな」
「…………」
 もう何も言わずに幸恵が黙り込んでいると、隣の部屋で綾乃と祐司が緊迫した声を上げた。

「きゃあっ!! お願い、ちぃ兄ちゃん、落ち着いて!」
「君島さん、冷静に!」
 思わず幸恵が目を向けると、その視線の先で拘束を解かれた和臣が、自分の手で乱暴に猿ぐつわを外し、勢い良く立ち上がった所だった。そして迷わず幸恵の元に駆け寄り、片膝を付いて据わった目で凝視してくる。

「幸恵……」
「はい……」
「義姉さんの面倒を見てくれた事は、礼を言う」
「……お構いなく」
 和臣が醸し出す威圧感に、幸恵はこの場から逃げたり逆らったりする気など起きず、素直に応じた。しかし冷静に話をできたのもここまでで、次の瞬間和臣がスラックスのポケットから何かを引っ張り出し、折り畳まれていたそれを開きながら幸恵に命令する。

「結婚するぞ。この婚姻届に今すぐサインしろ」
「……はい? 何で?」
 目を丸くして思わず本音をダダ漏れさせた幸恵に、和臣は充血した両眼を見開いて掴みかかった。

「幸恵! この俺のどこが不満だ!? はっきり言ってみろ!!」
「ちょっと待って、和臣! 何錯乱してるわけ!?」
 自分の両肩を掴んで激しく揺さぶってくる和臣に、幸恵は狼狽したが、流石に周りも傍観できずに止めに入った。

「おい和臣! 気持ちは分かるが、もう少し冷静に話し合おう、なっ!?」
「そうですよ、君島さん! こいつは強く言えば言う程反発する、天邪鬼体質なんですから!」
「……本当の事だけど、何かムカつくわね」
 正敏と祐司が和臣の腕を取り、背後から押さえ込んで宥めようとしたが、和臣はそれを振り払おうとしながら、益々激昂して叫んだ。

「ふざけんな!! 大体どうしてお前の交友関係を、俺よりも元カレと上司が把握してんだよ!!」
「仕方ないじゃない! 親しくしてるのは、どうしても同じ職場の人間になるんだし!」
「それに、どうして『捜索願を出したいなら、自称婚約者じゃなくて夫になってから来て下さい』なんて、鼻であしらわなけりゃいけないんだ!」
「ちょっとそれ、絶対被害妄想入ってると思うし!」
「もう駄目だ。やっぱりお前は、ちょっと目を離すと何をやらかすか分かったもんじゃない。仕事を辞めろ。そして俺の部屋から一歩も出るな!!」
「何、その失礼な断定! 加えて横暴で俺様かつ監禁発言!? 取り澄ましたいつものあんたは、一体どこに行ったのよ!?」
 ぎゃいぎゃいと言い合う二人に呆れ果てたのか、未だに和臣を確保しながら、正敏と祐司が心底嫌そうに言い出す。

「おい、幸恵。もういい加減結婚してやれ」
「綾乃、この際サイン代筆してやって」
「ちょっと! 何よ二人とも! しかも代筆って何!?」
 投げやりにそんな事を言った二人に、幸恵が怒気を露わにすると、ここで如何にも申し訳無さそうな声が割って入る。

「ごめんなさい、幸恵さん。ここは一つ諦めてくれないかしら? ここまで理性を飛ばした和臣君って初めてだし、納得してくれないと本気で幸恵さんを監禁しそう……」
「泉さん……、あのですね」
 激しく脱力しつつ、泉の居る方に向き直って言い返そうとした幸恵だったが、申し訳無さそうな泉の横で、綾乃が自分に向かって合掌しているのを認めて、盛大に顔を引き攣らせた。

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