アビシニアンと狡猾狐

篠原 皐月

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第30話 和解と決裂 

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 回診の時間を避ける為、ゆっくりと君島邸を出た幸恵達は、昼前に市内中心部の総合病院に到着した。そして送ってくれた運転手に礼を言い、聞いていた場所に迷わず足を進めた一行だったが、目指す個室に到着した途端、綾乃がノックもそこそこに勢い良く引き戸を開ける。

「お母さん、お見舞いに来たの! 大丈夫だった?」
 元気過ぎる綾乃の第一声に、幸恵は(身内の見舞いでも、もう少し遠慮しましょうよ)と、あまり派手ではない花束を抱えながら思わず溜め息を吐いたが、彼女と同様に思った人物が早速苦言を呈した。

「綾乃。ここは個室だけど、病院の中なのは変わりないから、あまり騒がないように。それに他の方のお見舞いでも、そんな調子だったらいけませんよ?」
「う、はい。気を付けます。田所さんも、お世話様です」
 どうやら母娘は以前からこの様な様子だったらしく、ベッド際に座っていた総白髪の女性は、頭を下げた綾乃に笑いを堪える表情で応じる。

「いえ、完全看護の病棟ですし、奥様の暇潰しのお相手と、お客あしらい位ですから。奥様のお怪我には本当に驚きましたが、予想外にお嬢さん達の顔が見られたのは嬉しいです」
 顔の皺を深くしたその女性が、綾乃の背後に居た幸恵達に会釈しながらそう述べると、夢乃がちょっと拗ねた様に口を挟んできた。

「あら、それじゃあ私は、綾乃や和臣の顔を見るためのダシだったのね。知らなかったわ」
「この通り暇を持て余されて、皮肉や嫌味の言い放題なんですよ。少しは年寄りを労って欲しいものですね」
 そして女二人がころころと笑いのに釣られて、幸恵達も思わず笑ってしまい、当初の緊張感はかなり和らいだ。

(本当に良かったわ。思ったより元気そうで。見た目ちょっと痛々しいけど)
 ベッドの頭部側を起こし、足の方も若干山型に角度を付けて楽な姿勢で起き上がっている状態で顔色も良かったが、首に巻かれたコルセットが結構重症度を感じさせた。その視線を感じたのか、夢乃が安心させるように言い出す。

「ごめんなさいね、大げさな格好で。これでも予後は良いって、お医者様にも褒められたのよ? そろそろこのコルセットを外して様子を見ても良いでしょうって言われたし、理学療法でマッサージや電気療法を進めて、痛みとかもあまり出なくなったし」
「そうなんだ。ごめんね? もうちょっと早く来れれば良かったんだけど」
「綾乃が来ても、何にもなりませんよ。生きるか死ぬかの瀬戸際じゃないんだし、しっかりお仕事をしてなさい」
「うぅ……、それはそうかもしれないけど……」
 あっさり言い切った夢乃に、綾乃が微妙に落ち込む。他の者は(確かにそうかもしれないけど)と綾乃に同情していると、和臣が思い出した様に幸恵の腕を軽く引きつつ、一歩前に出た。

「ごめん、紹介が遅くなったけど、荒川幸恵さん。そしてそちらが高木祐司さん。今回見舞いに来てくれる事になって、一緒にこっちに来たんだ。親父か兄貴から話は聞いているかと思うけど」
 改まった口調での紹介を受けて、夢乃は真顔で居住まいを正してから、不自由な体勢で幸恵に向かって頭を下げた。

「幸恵さん、お久しぶりです。以前は失礼しました。今回は私事で、遠路はるばるお越し頂いて恐縮です」
 さすがに怪我人に頭を下げさせるわけにはいかず、幸恵は慌てて相手を宥める。

「とんでもありません。あの、楽にして下さい。こちらこそ、幾ら分別の無い子供時代の事だったとはいえ、反省してます。その節は申し訳ありませんでした」
 そう言って幸恵が躊躇う事無く勢い良く頭を下げると、夢乃は困った表情で彼女を見やる。

「いえ、幸恵さんの仰る通りです。親不孝娘が後からのこのこ顔を出したりしたら、母が怒るに決まっています。会わせる顔がありません」
 そう言って神妙な顔で俯いた夢乃を見て、幸恵は若干考えてから徐に言い出した。

「……確かに、あの厳格なお祖母ちゃんの事ですから、化けて出て来るかもしれませんね」
「そうでしょう?」
 夢乃がちょっと悲しそうに幸恵に微笑んだのを見て、和臣は幸恵の腕を軽く引きつつ耳元で囁いた。

「おい、幸恵」
「ちょっと黙っててよ」
 そして和臣の手を振り払った幸恵は、真顔で夢乃に申し出る。
「だったら尚更、のこのこ会いに来て下さい。そうしたら夢乃叔母さんをお説教しに出て来ますから、久しぶりにお祖母ちゃんの顔が見られます」
「え?」
 予想もしていなかった事を言われた様に、夢乃の表情が呆気に取られた物になった。和臣も咄嗟に言葉が出なかったが、今度は綾乃が幸恵の腕を軽く引きつつ、小声で尋ねてくる。

「荒川のお祖母ちゃんって、そんなに厳しかったんですか?」
 それに、幸恵は苦笑しながら小声で応じた。
「ええ、他人に厳しいけど、それ以上に自分や身内に厳しいタイプだったわ」
「そうなんですか。お母さんと似てるかも」
「それはやっぱり、母娘だし?」
「ですよね。一回会ってみたかったな」
 綾乃がしみじみとそんな感想を述べた所で、考え事をする様に少しの間瞼を閉じていた夢乃は、その瞼をゆっくり開けてから、穏やかな笑みを幸恵に向けた。

「ありがとう幸恵さん」
「いえ。体調が良くなったら、折を見て実家の方にもいらして下さい。両親も歓迎しますから」
「そうね……。考えてみます」
 複雑な表情になりながらも、静かにそう頷いてくれた事で、幸恵は取り敢えず満足する事にした。

(さすがに、すぐ出向くってわけにはいかないか。私以上に、葛藤がありそうだしね。でも『取り敢えず考えてみる』と言って貰っただけで御の字か)
 自分では抵抗があるかと思っていた「叔母さん」と言う言葉も、すんなり言えた事で安堵していると、そんな幸恵に無言で感謝の眼差しを送っていた和臣に、夢乃が思い出した様に声をかける。

「ところで……、幸恵さん達は、今、家にお泊りになっているのよね? 和臣」
「ああ、そうだけど。それがどうかした?」
「万事、問題なくお世話差し上げているのかしら? 篤志と泉さんだけだから、ちょっと不安になったものだから」
 その台詞に四人は一瞬表情を強張らせたが、代表して和臣がいつもの表情と口調で、その懸念を否定した。

「ああ。特に問題はないよ。幸恵、何も不自由はないよな?」
「ええ、不自由な事なんてありません」
「俺も、立派な所に泊めて頂いて、却って恐縮しています」
(差し障りは有り過ぎるけど)
 特に幸恵と祐司は言いたい言葉を飲み込んで笑顔で応じたが、夢乃はそんな心の中は読み切れなかったらしく、如何にも安心した様な表情になった。

「良かったわ。篤志は未だに当時の事をあれこれ言っているものだから、幸恵さん達が来てくれる事になったと聞いて心配だったの。三十代半ばの息子を信じてやれないなんて、母親失格ね」
 そう言って苦笑いした夢乃に、祐司がすかさず応じる。

「親からしたら、幾つになっても子供は子供って事ですよ。俺も三十ですが、両親は未だに色々口煩いですよ? 特に母親が」
「あら、そうなの? 高木さんは十分、しっかりなさっている様に見えるけど」
「それとこれとは別問題だと言っていました」
「何か俺も、似た様な事を言われた覚えがあるな」
「そうですよね?」
 男二人で母親の過保護と過干渉について盛り上がっている間に、幸恵と綾乃は田所が揃えてくれた椅子に座って、見舞いの品を差し出した。次いで四人で東京での暮らしぶりなどを話して場が盛り上がり、夢乃を笑わせて楽しくひと時を過ごしたが、昼食の時間になった為、広島滞在中にまた見舞いに来る旨を約束して、四人は病院を出たのだった。

 その後四人で昼食を取り、簡単な市内観光を済ませて夕刻に君島邸戻ると、そこでは予想もしていなかった事件が勃発していた。
「お帰りなさいませ、あの、和臣さん、綾乃さん。若奥様から何か連絡はありませんでしたか!?」
 幸恵にも見覚えのある片倉と呼ばれていた年配の女性が、玄関先で一行を出迎えつつ、おろおろしながらそんな事を尋ねて来た為、四人は揃って怪訝な顔になった。

「義姉さんから? 別に何も。綾乃、何か聞いてるか?」
「ううん? 泉さんがどうかしたの?」
「それが、その……」
 片倉が面目なさそうに幸恵と祐司の方にチラチラと視線を向けつつ、割烹着の裾を握り締めながら口ごもっていると、パタパタと廊下をかけてくる軽い足音が聞こえて来たと思ったら、角を曲がって走って来た美郷が、泣き叫びながら四人に向かって訴えた。

「かずおみおじさん! あやのおばさん! あかあさんがいなくなちゃったの!! どこにもいないの!!」
「え?」
「何、それ?」
「いなくなったって……」
「どう言う事だ!? 説明しろ!!」
 血相を変えて和臣が目の前の片倉に詰め寄ったが、彼女が答える前に、美郷の泣き声での訴えが続いた。

「わたしとおかあさん、ろうかをあるいてたら、おとうさんがみんなにいってたの。おとうさん、ゆきえさんとゆうじさんにいじわるしてたの? そういってたよ?」
 涙目で問いかけられて、(娘に立ち聞きされるって、間抜けすぎる)と思いつつ、どうやらしっかり嫌がらせの指示をしている所を聞かれてしまったらしいと分かった幸恵は、下手に嘘は吐かない事にした。それでも一応、穏当な表現にしてみる。

「いじわるって言うか……、子供には分かりにくいかもしれないけど、大人の、ちょっと辛口の歓迎って事かしらね?」
「ああ、うん。ちょっと一般的じゃなかったかもしれないけどね。門前払いってわけじゃなかったし」
 祐司も自分で言いながら、(無理があるよな……)とは思ったが、やはり美郷は誤魔化されずに、顔付きを険しくしながら話を続けた。

「それでおかあさんが、とってもおこったの。『このいえにおまねきするいじょう、しつれいのないようにするのがれいぎです』って。そうしたらお父さんが『おまえになにがわかる。くちをはさむな』って」
「それで、その……、売り言葉に買い言葉で、言い合いがエスカレートしまして。最終的には『見損ないました! 傍目には面倒見が良い振りをして、裏でそんな仁徳の無い振る舞いをするから、親の七光りで議席を掴んだって言われるんです!』と若奥様が仰ったら、それに若旦那様が『お前は黙って俺の言われた通りの事をしていれば良いんだ! 何一つ満足にできないお前に、賢しげに説教される覚えはない!』と言い返しまして。若奥様は泣きながら、自室に籠られてしまったんですが。それが昼過ぎの事で、つい先程お部屋に様子を見に伺いましたら、もぬけの空でして」
「りょこうようの、バッグとかくつもないの」
 補足説明を入れてきた片倉に続いて、美郷が再度訴えてきた内容を聞いて、一同は流石に顔色を変えた。そしてすぐに和臣が意識を切り替えて、幾つかの質問を繰り出す。

「兄貴は?」
「若奥様と喧嘩された後、事務所の方に行かれています。今、若奥様の行方が分からなくなった事を、電話でお伝えしましたが」
 そこで和臣は小さく舌打ちしたが、悪口雑言の類は吐かずにテキパキと話を続けた。

「親父には? お袋には知らせて無いだろうな? 変な心配はかけたくない」
「旦那様にも連絡済です。田所さんに、奥様にはお知らせせずに、若奥様がお顔を見せられたら、すぐに連絡を入れる旨をお願いしました」
「そうか。取り敢えずお義姉さんが立ち寄りそうな場所を調べて、確認を入れる。あと……、そうだな、美郷ちゃん。幼稚園で仲が良いママ友を教えてくれる? 電話番号とか分かれば助かるけど」
「うん、わかった。いま、もってきます」
「頼むよ。俺は会議室の方に居るから」
 姪を刺激しない様に、和臣がなるべく優しく言いきかせると、美郷はこくりと頷いて元来た廊下を駆け出して行った。それを見送ってから、和臣が幾分険しい顔で綾乃に向き直る。

「俺は取り敢えず、ここにいる私設秘書の人達と今後の対策を話してくるから。幸恵と高木さんの相手も頼む」
「う、うん。分かった。じゃあ、二人はこっちに来てくれますか?」
「ええ」
「構わないけど」
 そうして足音荒く奥に進んでいった和臣と別れて、三人は別方向に進んだが、幸恵は周囲の様子を窺いつつ、小声で綾乃に尋ねた。

「ねえ、何だか大事になってるけど、お兄さん達が夫婦喧嘩をする時っていつもこんな感じなの?」
「いえ、私が記憶にある限り、お兄ちゃん達は結婚以来、喧嘩らしきものをした事はないです。基本的にお義姉さんは、お兄ちゃんに逆らったりした事ないし。お兄ちゃんも泉さんに、無茶な事とか言いつけたりしないですし。だから後援会の人達に『篤志さんは嫁を甘やかして』って陰口叩かれてる位で……。すみません。今のは聞かなかった事にして下さい」
「……おしどり夫婦で、結構な事じゃない。うちの両親なんて、しょっちゅう派手な喧嘩してたわよ? 今もそうだけど」
 少し意外に思いながら、幸恵は控え目に褒め言葉を発した。しかしここで祐司が、不思議そうに口を挟んでくる。

「でも、夫婦喧嘩が珍しかったにしても、変に大袈裟に騒ぎ立てない方が良くないかな? こういう時って大抵は実家に身を寄せるものだし、そこにまず確認を入れたら?」
「それが……、泉さんは小さい頃お父さんが亡くなって、お母さんも二年前に病死しているんです。実家と言える物は当然無いですし、親戚も皆無ですから」
「それってちょっと……、拙くない?」
「泉さん、妊娠中だよな? 安定期だとは言ってたけど」
「取り敢えず、今の時点で捜索願は出さないとは思いますけど……」
 綾乃の説明で事の重大さが分かった幸恵と祐司は、顔色を変えて綾乃を見やり、そんな綾乃も不安そうに二人を見返した。
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