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第13話 嘘も方便
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そして会食当日。会場のホテル一階のロビーで兄夫婦と待ち合わせた幸恵は、顔を合わせるなり正敏から呆れかえった声をかけられた。
「おい、もう少しまともな顔は出来ないのか?」
「心配しなくても、上に行ったら愛想笑い位するわ」
「本当に頑固だな、お前。そんなに和臣と顔を合わせたく無いのかよ?」
「…………」
未だに無視し続けている人物の名前を出されて、幸恵は憮然として黙り込んだ。すると、それを取りなす様に、兄嫁である香織が会話に割って入る。
「あの……、ごめんなさいね、幸恵さん。何か無理やり引っ張り出しちゃったみたいで。正敏さんが相当無理を言ったのよね?」
(ほら、お前がいつまでもブスッとしてるから)
(分かってるわよ!)
如何にも申し訳無さそうに香織が言ってきた為、兄妹で目線での短い会話を交わしてから、幸恵は何でもない口調で言い出した。
「確かにちょっと腹は立ててはいるけど、そんなに嫌がってはいないわよ? 一応出てあげたって感じを醸し出していないと、負けた気になるもの。だから奢らせる気は満々なんだから」
「勝ち負けの問題じゃないだろう。全くどうしようも無い奴だな」
「ほっといてよ」
そんなやり取りを聞いて思わず香織はクスクスと笑い、それを契機に正敏は女二人を促してエレベーターへと向かった。
指定された店はホテルの上層階の日本料理店で、入口で名前を告げると恭しく従業員に案内され、三人は奥の個室へと進んだ。そして中居が声をかけながら襖を引き開けると、横一列に並んで待ち構えていた君島家の三人が、揃って軽く頭を下げる。
「やあ、いらっしゃい、正敏君、香織さん、幸恵さん。どうぞ、そちらに座って下さい」
窓際から横一列に和臣、君島、綾乃の順に座っており、荒川家は素早く目線で席を譲り合い、結局君島家と向かい合う形で窓際から香織、正敏、幸恵の順番で座った。そして幸恵が微妙に和臣から視線を逸らしている事に、その場の殆どの者は溜め息を吐きたい様な表情になったが、君島がまず正敏に対して軽く頭を下げた。
「今回は、こちらの都合でお呼び立てして申し訳ない」
「いえ、こちらとしてはもう済んだ事だったので、改めてお詫びされるのは却って恐縮なのですが」
「いや、部下の不始末を知った上では、やはり使用者の責任上、頭を下げなければ気が済みませんから」
そこで幸恵に向き直った君島は、神妙な顔付きで改めて頭を下げた。
「幸恵さん。昔、私の周囲で取り沙汰された内容については、自然発生的に大袈裟になっていたと思っていた為、変に否定して回ったりしない方が早く沈静化すると思って、放置していました」
「ええ、そうですね。私も下手に事を荒立てない方が良いと思います」
「まさか秘書達が仕組んで、事実を歪めて率先して流していたとは夢にも思わず……。幸恵さんに取って不名誉極まりないっ……」
俯いている為に君島がどんな表情をしているかはっきりとは分からないまでも、ギリリッと歯軋りの音まで聞こえて来た為、幸恵は慌てて相手を宥めた。
「あ、あのっ! 確かにこの前耳にして驚きましたが、直接私の周囲でそういう噂が蔓延した訳ではありませんし、お気になさらず。私も、もう全然気にしていませんから!」
「いや、しかし……」
「ねえ? 兄さんだって、大した事無いと思うわよね?」
焦って正敏に同意を求めると、真顔でとんでもない答えが返ってくる。
「まあな。お前だったら実際やりかねん内容だし」
「あのね……」
思わず毒吐きそうになった幸恵だったが、ここでにこやかに香織が会話に割り込んだ。
「君島さん、大丈夫ですよ。現にその噂って、幸恵さんのメリットになってますし」
「は? どんな事でですか?」
当惑して君島が問い返すと、香織は笑顔で幸恵に話しかけた。
「幸恵さんが噂について、電話で愚痴った時に言ってたわよね? そこで絡んで来たろくでもない和臣さんの先輩を『ぶっ飛ばされたい奴は表に出なさい』ってはったりかましたら、全員尻尾巻いて逃げ出しちゃったって」
「香織さん……、お願い。そこら辺は忘れて」
「…………」
思わず顔を覆って呻いた幸恵を、香織以外の全員が憐れむ様な表情で見やった。そこで正敏がやや強引に話を纏めにかかる。
「えっと……、とにかく、君島さんも頭を下げていらっしゃるんだし、お前もこれ以上、後を引かせる様な事はするなよ?」
「分かってます。そういう事ですので、君島さんも頭を上げて下さい」
「分かりました。それではささやかながらお詫びの印に一席設けましたので、酒と料理を味わって行って下さい」
「ありがとうございます」
そうして君島が軽く手を叩くと、待ち構えていた様に続々と酒や料理が運ばれてきて、それから比較的和やかに会話しつつ食べ進めた。
先付から始まって、前菜、椀物、焼物と進むにつれ、普段君島家とはあまり付き合いが無い為緊張気味だった香織もすっかり場に溶け込み、君島や綾乃と自然に会話をする様になっていた。しかし和臣は今日は珍しく口数が少なく、幸恵に対しては一言も声をかけてこない為、纏わり付かれるかと密かに警戒していた幸恵は、安堵すると同時に少し心配になってきた。
(何なの? 今日はいつものあいつと全然違うけど、具合でも悪いわけ?)
そんな事を考えていると、話が盛り上がっていた正敏夫婦と君島の間で、ふとした事がきっかけで話題が変わった。
「本当に眺めも素敵ですし、お料理も美味しいです」
「そう言って頂けると、準備した甲斐が有りますね」
「自分ではなかなかこういう場所には来ないもので、ありがとうございます。これから益々夫婦で出歩くのが難しくなりそうですし、良い機会でした」
「ああ、そうそう、忘れる所でした。実はそちらにお渡ししようと、持参した物がありまして」
「何ですか?」
怪訝な顔をした夫婦の前で君島は持参した鞄を開け、中から小さな白い紙袋を取り出し、香織に向かって差し出した。
「今日のお話をした時、正敏君から香織さんが妊娠された事をお聞きしまして。事務所の者に頼んで水天宮の安産祈願の御守りを貰って来て貰ったんです。宜しかったらお受け取り下さい」
(え? 水天宮の御守りって……)
軽く目を見張った幸恵の前で、香織が嬉しそうに顔を綻ばせて君島に礼を述べた。
「わざわざご丁寧に、ありがとうございます」
「遠慮無く頂きます」
(しまった……、やっぱり先に渡しておくべきだったわ。出しにくくなっちゃった……)
自分が持参した物を思い出し、幸恵は密かに歯噛みしたが、君島の話は更に続いた。
「それから……、安産祈願に因んで思い出したんですが、香織さんに加えて、信子さんと幸恵さんに受け取って貰いたい物が有るのですが」
「何でしょうか?」
「これです」
そう言って君島が並んでいた器を寄せて座卓の上にスペースを作り、そこに並べた布張りの三つの箱を開けて見せた途端、正敏は難しい顔になった。
「これは……、俺は宝飾品に関しては、あまり詳しく有りませんが、この帯留めとかかなり高価な物なんじゃありませんか? 綺麗な深い青ですし。サファイアですよね?」
正敏の目の前には、サファイアの帯留め、ムーンストーンの石を連ねたネックレス、アメジストの周りに細工が施されたネックレスが並んでいたが、それを再度見てから君島が穏やかに話を続けた。
「実は私の母の遺品の一部です。亡くなる前に大部分は嫁である夢乃に譲り渡したんですが、幾つかは『後で荒川家の方に譲渡してくれ』と言付かりまして。ですが夢乃が『身内ならともかく、赤の他人が使った物を渡すなんて失礼ですし持て余されます』反論されて、行き場を失ってしまい込んでいまして」
「失礼とか以前に、こちらが受け取る理由がありませんから」
困惑しきった表情で正敏がそう告げると、君島は苦笑いした。
「正敏君ならそう言うとは思っていたが……。お三方の誕生月を確認したら信子さんが9月、香織さんが6月、幸恵さんが2月で、ちょうど相当する誕生石のアクセサリーが有ったもので。それに6月のムーンストーンは母性を高める効果があるパワーストーンとして有名で、出産を無事に済ませる為にプレゼントする事もある様です。この時期に香織さんに贈るのに相応しいかと思いましたので、この機会に受け取って頂けないかと」
「はぁ……」
(どうする?)
君島の話を聞いて、判断に迷った正敏は自分の両脇に座る妻と妹に問いかける視線を向けたが、黙って話を聞いていた綾乃も、密かに首を捻った。
(おかしいなぁ……。確かにお祖母ちゃんが亡くなった時、形見分けにお母さんと私にってアクセサリーを貰ったけど、荒川の伯母さんや幸恵さん用に取り分けた物があったなんて話、初めて聞いたんだけど?)
そして物言いたげな視線を父と兄に向けたが、その男二人からは迫力満点の笑顔と、得体の知れない不気味な笑顔が返ってきた。その言わんとする所は、
(余計な事は言うなよ?)
(分かっているよな?)
という意味以外の何物でも無く、綾乃は瞬時に真っ青になった。
(何か、絶対裏がある。しかもお父さんとちぃ兄ちゃんが組んでるなんて、ろくでもない気がする……。この話の間は黙っていよう)
そして娘から向かい側に視線を戻した君島は、幸恵に話の矛先を向けた。
「幸恵さんは外でお勤めされているので、普段遣いでもおかしく無いものの方が良いかと思いましたから、良さそうな物を一緒に持参してみましたが、どうでしょうか?」
「……ええ、素敵ですね」
(確かに帯留めよりは安いでしょうけど……、濃い紫色で綺麗な石だし、縁取りされてる蔦や葉の部分やチェーンはプラチナよね?)
そして更に君島は、正敏に向かって勧める。
「これから信子さんも初孫のお宮参りとかで和装をする機会も有るでしょうし、その折りにでも使って頂ければ、亡くなった母も喜ぶと思います。箪笥の肥やしにするよりは、供養のつもりで使って頂けませんでしょうか?」
それを聞いた幸恵は、思わず密かに考え込んだ。
(この人の亡くなった母親って、例の、私が居ない時に家に来て、土下座して詫びて行った直後に亡くなったっていうおばあさんの事よね。そこまでしたのは私が大騒ぎして、叔母さんが実家に顔を出さなくなった事が原因だし……、責任の一端は私にもあるか。きっとささやかなお詫びのつもりで残したのよね)
そこまで考えて顔も知らない相手に対して申し訳ない気分になった幸恵は、受け取る事を決意した。それを見て取った様に、正敏が君島に頭を下げる。
「分かりました。そういう事でしたら、親には俺から説明する事にして、ありがたく頂いていきます。香織、幸恵、良いな?」
「はい。素敵な物をありがとうございます。大切に使わせて頂きます」
「私も大仰な物なら普段身に付ける機会も有りませんが、こういうペンダントならブラウスの下に付けても目立ちませんし。素敵なデザインですので、普段使いにさせて頂きます」
二人が揃って頭を下げると、君島はほっとした様に相好を崩した。
「そう言って頂けると嬉しいです。大事に保管してきた甲斐がありました。実は他にも幾つか有るのですが」
「いや、君島さん、これ以上は。これ以上勝手に貰ったら親父達に本気で怒られますから」
「そうですな。欲張らずにここら辺で良しとしましょう」
そんな風に話が纏まり、皆で食事を再開した。
絶妙なタイミングで供される料理の数々を味わいつつ、それなりに会話も進んで室内には和やかな雰囲気が漂っていたが、幸恵は何とか笑顔を保ちながらも気分が落ち込んでいくのを止められなかった。座卓の対角線上からその顔を盗み見て、和臣は時折心配そうな顔をしていたが、直接和臣がそれに言及する前に、正敏の身体越しに香織が幸恵に声をかけた。
「幸恵さん、どうかした? なんだか元気が無いみたいだけど」
「何だ幸恵。具合でも悪いのか?」
周囲も驚いた表情になり、代表して正敏が声をかけると、幸恵は慌てて首を振った。
「ううん、何でもないわ。ちょっとお手洗いに行って来ます」
そうして幸恵はバッグ片手に席を抜け出したが、それを黙って見送ってから和臣が腰を浮かせる。
「……すみません、俺もちょっと」
「ああ、和臣、お前は立つな。香織、ちょっと頼むわ」
「構わないわよ? じゃあちょっと行って来ます」
有無を言わせぬ口調で和臣を押し止めた正敏が、傍らの妻を振り返って頼むと、香織は笑顔で立ち上がった。その背中を見送ってから、正敏が和臣に向かって苦笑いする。
「悪いな。だけど女性用トイレの前で待ち構えるのって間抜けだし、幸恵は親や俺には言いたい放題でも、血が繋がって無い分香織には遠慮する所があるせいか、妙に素直だからな。大人しく待っててくれ」
「分かりました」
取り敢えずそれで納得した和臣は座り直し、正敏相手に飲み直す事にした。
「おい、もう少しまともな顔は出来ないのか?」
「心配しなくても、上に行ったら愛想笑い位するわ」
「本当に頑固だな、お前。そんなに和臣と顔を合わせたく無いのかよ?」
「…………」
未だに無視し続けている人物の名前を出されて、幸恵は憮然として黙り込んだ。すると、それを取りなす様に、兄嫁である香織が会話に割って入る。
「あの……、ごめんなさいね、幸恵さん。何か無理やり引っ張り出しちゃったみたいで。正敏さんが相当無理を言ったのよね?」
(ほら、お前がいつまでもブスッとしてるから)
(分かってるわよ!)
如何にも申し訳無さそうに香織が言ってきた為、兄妹で目線での短い会話を交わしてから、幸恵は何でもない口調で言い出した。
「確かにちょっと腹は立ててはいるけど、そんなに嫌がってはいないわよ? 一応出てあげたって感じを醸し出していないと、負けた気になるもの。だから奢らせる気は満々なんだから」
「勝ち負けの問題じゃないだろう。全くどうしようも無い奴だな」
「ほっといてよ」
そんなやり取りを聞いて思わず香織はクスクスと笑い、それを契機に正敏は女二人を促してエレベーターへと向かった。
指定された店はホテルの上層階の日本料理店で、入口で名前を告げると恭しく従業員に案内され、三人は奥の個室へと進んだ。そして中居が声をかけながら襖を引き開けると、横一列に並んで待ち構えていた君島家の三人が、揃って軽く頭を下げる。
「やあ、いらっしゃい、正敏君、香織さん、幸恵さん。どうぞ、そちらに座って下さい」
窓際から横一列に和臣、君島、綾乃の順に座っており、荒川家は素早く目線で席を譲り合い、結局君島家と向かい合う形で窓際から香織、正敏、幸恵の順番で座った。そして幸恵が微妙に和臣から視線を逸らしている事に、その場の殆どの者は溜め息を吐きたい様な表情になったが、君島がまず正敏に対して軽く頭を下げた。
「今回は、こちらの都合でお呼び立てして申し訳ない」
「いえ、こちらとしてはもう済んだ事だったので、改めてお詫びされるのは却って恐縮なのですが」
「いや、部下の不始末を知った上では、やはり使用者の責任上、頭を下げなければ気が済みませんから」
そこで幸恵に向き直った君島は、神妙な顔付きで改めて頭を下げた。
「幸恵さん。昔、私の周囲で取り沙汰された内容については、自然発生的に大袈裟になっていたと思っていた為、変に否定して回ったりしない方が早く沈静化すると思って、放置していました」
「ええ、そうですね。私も下手に事を荒立てない方が良いと思います」
「まさか秘書達が仕組んで、事実を歪めて率先して流していたとは夢にも思わず……。幸恵さんに取って不名誉極まりないっ……」
俯いている為に君島がどんな表情をしているかはっきりとは分からないまでも、ギリリッと歯軋りの音まで聞こえて来た為、幸恵は慌てて相手を宥めた。
「あ、あのっ! 確かにこの前耳にして驚きましたが、直接私の周囲でそういう噂が蔓延した訳ではありませんし、お気になさらず。私も、もう全然気にしていませんから!」
「いや、しかし……」
「ねえ? 兄さんだって、大した事無いと思うわよね?」
焦って正敏に同意を求めると、真顔でとんでもない答えが返ってくる。
「まあな。お前だったら実際やりかねん内容だし」
「あのね……」
思わず毒吐きそうになった幸恵だったが、ここでにこやかに香織が会話に割り込んだ。
「君島さん、大丈夫ですよ。現にその噂って、幸恵さんのメリットになってますし」
「は? どんな事でですか?」
当惑して君島が問い返すと、香織は笑顔で幸恵に話しかけた。
「幸恵さんが噂について、電話で愚痴った時に言ってたわよね? そこで絡んで来たろくでもない和臣さんの先輩を『ぶっ飛ばされたい奴は表に出なさい』ってはったりかましたら、全員尻尾巻いて逃げ出しちゃったって」
「香織さん……、お願い。そこら辺は忘れて」
「…………」
思わず顔を覆って呻いた幸恵を、香織以外の全員が憐れむ様な表情で見やった。そこで正敏がやや強引に話を纏めにかかる。
「えっと……、とにかく、君島さんも頭を下げていらっしゃるんだし、お前もこれ以上、後を引かせる様な事はするなよ?」
「分かってます。そういう事ですので、君島さんも頭を上げて下さい」
「分かりました。それではささやかながらお詫びの印に一席設けましたので、酒と料理を味わって行って下さい」
「ありがとうございます」
そうして君島が軽く手を叩くと、待ち構えていた様に続々と酒や料理が運ばれてきて、それから比較的和やかに会話しつつ食べ進めた。
先付から始まって、前菜、椀物、焼物と進むにつれ、普段君島家とはあまり付き合いが無い為緊張気味だった香織もすっかり場に溶け込み、君島や綾乃と自然に会話をする様になっていた。しかし和臣は今日は珍しく口数が少なく、幸恵に対しては一言も声をかけてこない為、纏わり付かれるかと密かに警戒していた幸恵は、安堵すると同時に少し心配になってきた。
(何なの? 今日はいつものあいつと全然違うけど、具合でも悪いわけ?)
そんな事を考えていると、話が盛り上がっていた正敏夫婦と君島の間で、ふとした事がきっかけで話題が変わった。
「本当に眺めも素敵ですし、お料理も美味しいです」
「そう言って頂けると、準備した甲斐が有りますね」
「自分ではなかなかこういう場所には来ないもので、ありがとうございます。これから益々夫婦で出歩くのが難しくなりそうですし、良い機会でした」
「ああ、そうそう、忘れる所でした。実はそちらにお渡ししようと、持参した物がありまして」
「何ですか?」
怪訝な顔をした夫婦の前で君島は持参した鞄を開け、中から小さな白い紙袋を取り出し、香織に向かって差し出した。
「今日のお話をした時、正敏君から香織さんが妊娠された事をお聞きしまして。事務所の者に頼んで水天宮の安産祈願の御守りを貰って来て貰ったんです。宜しかったらお受け取り下さい」
(え? 水天宮の御守りって……)
軽く目を見張った幸恵の前で、香織が嬉しそうに顔を綻ばせて君島に礼を述べた。
「わざわざご丁寧に、ありがとうございます」
「遠慮無く頂きます」
(しまった……、やっぱり先に渡しておくべきだったわ。出しにくくなっちゃった……)
自分が持参した物を思い出し、幸恵は密かに歯噛みしたが、君島の話は更に続いた。
「それから……、安産祈願に因んで思い出したんですが、香織さんに加えて、信子さんと幸恵さんに受け取って貰いたい物が有るのですが」
「何でしょうか?」
「これです」
そう言って君島が並んでいた器を寄せて座卓の上にスペースを作り、そこに並べた布張りの三つの箱を開けて見せた途端、正敏は難しい顔になった。
「これは……、俺は宝飾品に関しては、あまり詳しく有りませんが、この帯留めとかかなり高価な物なんじゃありませんか? 綺麗な深い青ですし。サファイアですよね?」
正敏の目の前には、サファイアの帯留め、ムーンストーンの石を連ねたネックレス、アメジストの周りに細工が施されたネックレスが並んでいたが、それを再度見てから君島が穏やかに話を続けた。
「実は私の母の遺品の一部です。亡くなる前に大部分は嫁である夢乃に譲り渡したんですが、幾つかは『後で荒川家の方に譲渡してくれ』と言付かりまして。ですが夢乃が『身内ならともかく、赤の他人が使った物を渡すなんて失礼ですし持て余されます』反論されて、行き場を失ってしまい込んでいまして」
「失礼とか以前に、こちらが受け取る理由がありませんから」
困惑しきった表情で正敏がそう告げると、君島は苦笑いした。
「正敏君ならそう言うとは思っていたが……。お三方の誕生月を確認したら信子さんが9月、香織さんが6月、幸恵さんが2月で、ちょうど相当する誕生石のアクセサリーが有ったもので。それに6月のムーンストーンは母性を高める効果があるパワーストーンとして有名で、出産を無事に済ませる為にプレゼントする事もある様です。この時期に香織さんに贈るのに相応しいかと思いましたので、この機会に受け取って頂けないかと」
「はぁ……」
(どうする?)
君島の話を聞いて、判断に迷った正敏は自分の両脇に座る妻と妹に問いかける視線を向けたが、黙って話を聞いていた綾乃も、密かに首を捻った。
(おかしいなぁ……。確かにお祖母ちゃんが亡くなった時、形見分けにお母さんと私にってアクセサリーを貰ったけど、荒川の伯母さんや幸恵さん用に取り分けた物があったなんて話、初めて聞いたんだけど?)
そして物言いたげな視線を父と兄に向けたが、その男二人からは迫力満点の笑顔と、得体の知れない不気味な笑顔が返ってきた。その言わんとする所は、
(余計な事は言うなよ?)
(分かっているよな?)
という意味以外の何物でも無く、綾乃は瞬時に真っ青になった。
(何か、絶対裏がある。しかもお父さんとちぃ兄ちゃんが組んでるなんて、ろくでもない気がする……。この話の間は黙っていよう)
そして娘から向かい側に視線を戻した君島は、幸恵に話の矛先を向けた。
「幸恵さんは外でお勤めされているので、普段遣いでもおかしく無いものの方が良いかと思いましたから、良さそうな物を一緒に持参してみましたが、どうでしょうか?」
「……ええ、素敵ですね」
(確かに帯留めよりは安いでしょうけど……、濃い紫色で綺麗な石だし、縁取りされてる蔦や葉の部分やチェーンはプラチナよね?)
そして更に君島は、正敏に向かって勧める。
「これから信子さんも初孫のお宮参りとかで和装をする機会も有るでしょうし、その折りにでも使って頂ければ、亡くなった母も喜ぶと思います。箪笥の肥やしにするよりは、供養のつもりで使って頂けませんでしょうか?」
それを聞いた幸恵は、思わず密かに考え込んだ。
(この人の亡くなった母親って、例の、私が居ない時に家に来て、土下座して詫びて行った直後に亡くなったっていうおばあさんの事よね。そこまでしたのは私が大騒ぎして、叔母さんが実家に顔を出さなくなった事が原因だし……、責任の一端は私にもあるか。きっとささやかなお詫びのつもりで残したのよね)
そこまで考えて顔も知らない相手に対して申し訳ない気分になった幸恵は、受け取る事を決意した。それを見て取った様に、正敏が君島に頭を下げる。
「分かりました。そういう事でしたら、親には俺から説明する事にして、ありがたく頂いていきます。香織、幸恵、良いな?」
「はい。素敵な物をありがとうございます。大切に使わせて頂きます」
「私も大仰な物なら普段身に付ける機会も有りませんが、こういうペンダントならブラウスの下に付けても目立ちませんし。素敵なデザインですので、普段使いにさせて頂きます」
二人が揃って頭を下げると、君島はほっとした様に相好を崩した。
「そう言って頂けると嬉しいです。大事に保管してきた甲斐がありました。実は他にも幾つか有るのですが」
「いや、君島さん、これ以上は。これ以上勝手に貰ったら親父達に本気で怒られますから」
「そうですな。欲張らずにここら辺で良しとしましょう」
そんな風に話が纏まり、皆で食事を再開した。
絶妙なタイミングで供される料理の数々を味わいつつ、それなりに会話も進んで室内には和やかな雰囲気が漂っていたが、幸恵は何とか笑顔を保ちながらも気分が落ち込んでいくのを止められなかった。座卓の対角線上からその顔を盗み見て、和臣は時折心配そうな顔をしていたが、直接和臣がそれに言及する前に、正敏の身体越しに香織が幸恵に声をかけた。
「幸恵さん、どうかした? なんだか元気が無いみたいだけど」
「何だ幸恵。具合でも悪いのか?」
周囲も驚いた表情になり、代表して正敏が声をかけると、幸恵は慌てて首を振った。
「ううん、何でもないわ。ちょっとお手洗いに行って来ます」
そうして幸恵はバッグ片手に席を抜け出したが、それを黙って見送ってから和臣が腰を浮かせる。
「……すみません、俺もちょっと」
「ああ、和臣、お前は立つな。香織、ちょっと頼むわ」
「構わないわよ? じゃあちょっと行って来ます」
有無を言わせぬ口調で和臣を押し止めた正敏が、傍らの妻を振り返って頼むと、香織は笑顔で立ち上がった。その背中を見送ってから、正敏が和臣に向かって苦笑いする。
「悪いな。だけど女性用トイレの前で待ち構えるのって間抜けだし、幸恵は親や俺には言いたい放題でも、血が繋がって無い分香織には遠慮する所があるせいか、妙に素直だからな。大人しく待っててくれ」
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