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第8話 プライド
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帰宅するサラリーマンの流れに逆らい、改札口を出て指定された時間五分前に待ち合わせ場所に出向くと、既に和臣は人通りの邪魔にならない様に静かに一人佇んでいた。幸恵がそのまま真っ直ぐ和臣元に歩み寄ると、気配に気づいた和臣が嬉しそうに笑顔で出迎える。
「やあ、幸恵さん。お疲れ様。ここまで来て貰って悪かったね」
「別に良いわよ。最寄駅から乗り換えなしで来れたし。それに随分早くから来ていたんじゃないの?」
「俺の職場は、ここから一駅だけだからね。間違っても幸恵さんより遅く来る訳にいかないだろう。さあ、行こうか」
上機嫌な和臣に促され、幸恵は素直に並んで歩き出した。普段来る事も無い場所であり、幸恵が少し興味深そうに周囲の様子を眺めているのを横目で見ながら、和臣が幾つかの当たり障りのない話題を振っている間に、車が行き交っている幹線道路から何本か外れた通りに入り、落ち着いたビルやマンションが両脇に立ち並ぶ道を進んだ。するとビルの一階に入っている店の前で足を止める。
「ああ、着いたよ。ここに入るから」
「そう」
素直に頷いたものの、幸恵は内心ちょっと怯んだ。表に掛けられている暖簾が如何にも古臭く、窓の外側に巡らされている木製の格子や壁面も、あまり手入れがされていない様に見えたからだったのだが、和臣に続いて暖簾をくぐり、引き戸を開けて店内へと入ってすぐにそのイメージは覆された。店内は明るく、木目が美しいカウンターや染み一つ無い壁、その壁に沿って配置されているテーブルも傷一つ見えない、整えられた空間だったからである。それを認めた幸恵は、思わず素直な感想を述べた。
「へぇ? なかなか感じの良い店じゃない。外観ももうちょっと考えれば良いのに」
そんな感想を予め予想していたのか、和臣は苦笑気味答えた。
「店内は一年前位に改装したけど、店主のこだわりで外観は開店当時のままにしてあってね。だけど一見古びて見える所が良いんだよ。それなりに趣も有るだろ?」
「言われてみればそうかもね」
そんなやり取りをしていると、カウンターの内側から店主らしき五十がらみの男が声をかけてきた。
「やあ、お久しぶり。珍しいですね。女性を連れていらしたのは、初めてだと思いますが」
「どうも。……カウンターで良い?」
店主に愛想良く笑いかけてから、和臣は幸恵に向き直って尋ねた。それに幸恵が微妙な顔で答える。
「それは構わないけど……」
「テーブル席が空いてますよ? せっかくのデートじゃないんですか?」
まだ混みあう時間帯ではなく、四人掛けのテーブル席が二つ空いていた為、幸恵と同様に店主が戸惑いながらそちらを勧めてきたが、和臣は笑って言い返した。
「ああ、デートだから尚更カウンターの方が良いかな。俺としてはテーブル越しより、隣合って座った方が嬉しいので」
それを聞いた店主が笑いを堪える表情で、自分の手前の席を勧める。
「なるほど。それは失礼しました。それではこちらにどうぞ」
「ありがとう」
「……テーブル席に行くわ」
思わず憮然としてテーブル席に移動しかけた幸恵だったが、その腕を軽く掴んだ和臣が、小声で言い聞かせた。
「まあまあ、この店はもう少し後の時間帯になると結構混むんだ。四人掛けのテーブルを二人で占拠するのは気が引けてね。お客をお断りさせるのは悪いし、相席だって嫌だろう?」
「……何か嘘臭いわね」
そう言いながらも、ここで揉めるのは馬鹿らしいとばかりに、幸恵は大人しくカウンター席に座った。その横に座りながら「じゃあいつもの奴と、まずお任せで二人分」などとカウンターの向こうに声をかけてから、和臣が困った様に笑いかける。
「酷いな。俺ってどこまで信用が無いんだろう」
「どこもかしこも胡散臭いのよ。自覚が無いならこの際一から十まで、懇切丁寧に教えてあげるわ」
「本当に幸恵さんって容赦ないな。それが良いんだけど」
「勝手に笑ってなさい」
容赦なく切り捨てられても全く気にする素振りを見せず、和臣は満足そうに笑っていたが、それを見た幸恵は何となく癪に触った。そうこうしているうちに目の前に手早くおしぼりやお通しの小鉢、盃などが置かれ、冷酒用のデキャンターが和臣の前に置かれる。それを取り上げた和臣が、幸恵の盃に慎重に中身を注いで声をかけた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
そう声をかけた和臣はそのまま自分の盃にも注いでしまった為、一応和臣分は注ぐつもりでいた幸恵は多少ばつが悪い思いをした。
(うっ……、ちゃっちゃと手酌しないでよ。手を出す暇も言い出す暇も無かったでしょうが)
何となく気の利かない女だと思われそうで密かに幸恵は落ち込んだが、そんな事は全く気にしない風情で、和臣がガラス製の杯を持ち上げながら笑顔で告げた。
「それじゃあ、幸恵さんの昇進を祝って、乾杯」
「……乾杯」
(全く、調子狂うわね)
幸恵が持ち上げた杯と軽く打ち合わせてから、和臣は口に含んだ酒を如何にも美味しそうに味わい始めた。それに釣られる様に幸恵も無言で飲み始め、小鉢に箸を付ける。
「お酒もそうだけど、想像したより美味しい……、この茄子とオクラの辛子浸し」
「それは良かった」
「このみょうが胡瓜も色々入ってるし、凝ってるわね」
「うん、椎茸やくらげも入ってる。味付けも醤油や砂糖の他に、唐辛子とかごま油とか入れてるみたいだしね。さあ、肝心の鳥も美味しいからどんどん食べて。好きな物を頼んで良いからね」
幸恵が正直に酒と小鉢の中身を誉めると、和臣はまるで自分が誉められた様に嬉しそうにお品書きを広げながら幸恵に勧めた。
その時タイミング良く最初に和臣が頼んでいた串焼きの盛り合わせが二人の目の前に置かれ、幸恵は早速手を伸ばして食べ始める。
「うん、美味しい! これなら幾らでも入りそう」
まずももを一本食べ終わって満足そうに感想を述べ、再び手を伸ばして皮を食べ始めた幸恵に、和臣は嬉しそうに笑い返した。
「それは良かった。働くのに体は基本だからね。幸恵さんはダイエットとかする人じゃないと思ってたし」
「当然でしょう? 空きっ腹で仕事が出来るわけ無いじゃない」
幸恵にしてみれば当然の事として言い返したのだが、和臣は笑いを堪える表情になった。それに気付いた幸恵は、三本目に取りかかるのを中断し、軽く相手を睨み付ける。
「何? 私の顔に何か付いてるの?」
「いや、そうじゃなくて。本当に幸せそうに食べてくれるから、嬉しくて」
「……馬鹿じゃないの?」
(本当に調子狂うわね、こいつ)
自分も食べつつ顔を横に向けてにこにこと笑っているつかみどころの無い和臣に、幸恵は密かに溜め息を吐いた。そして如才無く食べ切る前に追加注文を済ませてから、さり気なく別な話題を切り出す。
「幸恵さん、この前の出張先で、どんな仕事をしてきたの?」
杯片手にそんな事を尋ねられ、正直幸恵は戸惑った。
「どんなって……、説明しても分からないと思うわよ? ……言っておくけど、これは嫌味じゃ無いから」
不自然に付け足された様な台詞の理由を、和臣は何となく悟ってしまった。
「それは……、以前に尋ねられたから滔々と説明してあげたら、『全然分からないのに嫌味だ』とか言った、失礼な人が居たとか?」
その推測は見事に的中していたらしく、幸恵の表情が忽ち苦いものに変わる。
「……そう言う物言いが、既に嫌味よね」
「悪かった。ごめん、謝るよ。でも純粋に興味があるから、良かったら聞かせて欲しいな」
(全く、何なのよ……)
神妙に下手に出てきた和臣に、幸恵は不機嫌さを抑え込んで話す事にした。
「えっと、まず第一の目的は、印刷機用のインクの開発。勿論現時点で販売している物でも支障は無いんだけど、大手の卸からもっと発色性に優れて退色し難い物をって要求が出て。ポスター等のカラー印刷用だから、際限なく追究される項目ではあるんだけど」
「確かにそうだね」
「他にも色々あって。ボールペン用のインクの色調や粘度や浸透比率の調整をしてデータを取ったり、ノート用の上質紙の明度の確認とか。あと本社からの支持だけでは無くて、今回研究所内の職員と意見交換して、新規に鋏の開発をする事にしたし」
「鋏? あの紙を切る鋏って、そんなに開発する所ってあるのかい?」
思わずカウンターに杯を置きながら、不思議そうに口を挟んできた和臣に、幸恵はしてやったりといった感じで機嫌良く答えた。
「それが素人考えだって言うの。確かに小学生が使う様な鋏なら専ら紙を切るのに使うでしょうけど、自分自身が日常生活で、どんな物を切る時に鋏を使うか考えて見なさいよ」
「……咄嗟に思いつかないな。意外に使って無いかも」
少し考え込んだ和臣だったが、めぼしい考えが出なかったらしく首を捻った。そこにすかさず幸恵が突っ込みを入れる。
「精々封筒を開封する時位じゃない? 紙を切るのって。あんただったら折り込みチラシのクーポンを切り取ったり、箱に付いてる応募券を切ったりしなさそうだもの」
「今のは何か……、偏見に満ちた発言じゃなかった?」
ちょっと憮然とした顔付きになった和臣だったが、それを見て益々機嫌を良くしながら幸恵が解説を続けた。
「アンケートを取ってみても、紙以外の物を切る用途が意外に多いのよ。ビニールのパッケージや、ダンボールを小さくしたりとか、梱包する時のビニール紐とか。食材をザクザク切る鋏は既に出てるから、それを抜きにしてもね」
それを聞いて、和臣は納得した様に頷いた。
「なるほどね。それで何でも切れる様に、もっと切れ味を良くするとか?」
「簡単に言えばそんな所よ。切断面の傾斜をどれ位にするかとか、それに併せて耐久性と重さをクリアできる合金の配合比率をどうするかとか。でも先端が尖り過ぎていると危ないし、支店と力点のバランスや持ち手の圧迫感をどう軽減……」
そこで幸恵の声が急に途切れた為、和臣は真顔になって彼女の顔を覗き込んだ。
「どうかした? 急に黙り込んで」
「ごめんなさい。わけの分からない事を延々聞かされても、本当につまらないでしょ?」
和臣から視線を逸らしつつ(またやっちゃったわ……)と軽く自己嫌悪に陥った幸恵だったが、和臣は一瞬黙り込んでから、穏やかに笑って言い聞かせた。
「つまらなくは無いよ? 幸恵さんがいつもどれだけ真面目に仕事をしてるかが分かって嬉しいし」
「何言ってんのよ……」
僅かに照れくさくなりながら、それを誤魔化す為にそっぽを向いた幸恵だったが、続く問いかけに和臣の方に向き直った。
「ついでに、聞かせて貰っても良い?」
「何?」
「どうして星光文具に入ったの? 好きな商品があったからとか?」
その質問に、幸恵は真顔で答えた。
「星光文具に限らず、文具メーカーに入りたかったの」
「どうして?」
「世の中には色々な物が溢れてるけど、中には全然使わないで一生を終える物だってあるでしょう?」
「例えば?」
咄嗟に該当する物が思い浮かばなかった和臣が問い返すと、幸恵が淡々と例をあげる。
「視力が良い人はサングラスを使わなければメガネ一般はかけないし、免許を持たない人は無免許運転をしなければ車は必要ないし、男性は変態じゃなければ生理用品なんて使わないでしょ?」
「…………確かにそうだね。それで?」
微妙過ぎるたとえ話にも和臣が律儀に頷くと、幸恵は結論を告げた。
「でも文具、特に筆記用具は誰だって使うじゃない。全然触らないで一生を終える人なんていない筈よ? 今はどんな書類でもすぐプリントアウトできるけど、最後に署名だけは自筆って場合が多いし」
「なるほど。幸恵さんは使い易くて役立つ物を作って、世の中の皆に喜んで貰いたいんだね?」
微笑みながら和臣がそんな推察を述べたが、何故か幸恵は不機嫌そうに視線を逸らした。
「……違うわよ」
「そうなの?」
「そうよ! 私、画期的なコンセプトの新商品を発明して特許を取って、会社から給料上積みで特許使用料を貰って、業界内で名前を売りたいの! それだけなんだから!」
僅かに自分の方に身を乗り出し、ムキになって反論してきた幸恵に、和臣は噴き出しそうになるのを堪えるのに苦労する羽目になった。
「そうなんだ。まあ、功名心旺盛なのは、組織内で生き残る為には結構な事じゃないか」
(新商品を開発したいって言うのは本音だとしても、名前を売るとかは微塵も考えていないくせに。素直じゃないな)
しかし笑いを堪えていた和臣の横で、急に暗い声で呟いたと思ったら、カウンター上の皿や小鉢を押しやってスペースを空けた幸恵が、そこに突っ伏して呻く。
「……でも、一生無理かも」
「何が?」
急に酔いが回ったかと心配した和臣だったが、幸恵はボソボソと、しかしはっきりとした口調で話を進めた。
「だって入社以来、基礎研究のデータを取るのが大半で、画期的なアイデアを全然出せないんだもの……。以前『消せるボールペン』とか『貼る修正テープ』とか出た時は、それぞれの『消せない』『広がる』って言う欠点を改善した商品だったから凄く感心して……」
「ああ、確かに画期的な商品だったよね」
思わず相槌を打った和臣にチラリと視線を向けてから、幸恵はまたカウンター上で組んだ腕に額を乗せて呟いた。
「最近だって『針の要らないホッチキス』出たでしょ?」
「ああ、職場内でも使ってる。機密保持の必要上、不要になった書類はすぐシュレッダーにかける事になってるから。その時に針が付いたまま入れると刃を壊す可能性があるから外してたけど、それが結構面倒臭かったな。だからその煩わしさから解放されて助かったよ」
「確かに私も面倒臭いなって思ってたけど、『じゃあ針を無くせば良いんじゃない』という発想にはならなかったわ。何かそこに自分の限界を見ちゃった気がして……」
「限界って……、幸恵さん」
「画期的な新商品、開発したかったなぁ……」
そこで何となく涙声になってきた幸恵の声を聞いた和臣は、笑いを含んだ声で問いを発した。
「幸恵さんって若く見えるけど、実は還暦近いとか?」
「……喧嘩売ってんの? あんた?」
むくっと上半身を起こして睨み付けてきた幸恵に臆する事無く、和臣が飄々と続ける。
「だって『開発したかった』なんて過去形で話すから、まるで定年退職間近の、夢や希望何か微塵も無くなったおばあさんみたいだなって思って」
「一々人の揚げ足取るんじゃないわよ! どこまで性格悪いわけ!?」
「違うって言うなら、もっと他の言い方があるんじゃない?」
どう見ても和臣が面白がっているとしか思えなかった幸恵は、盛大に噛み付いて宣言した。
「ええ、そうでしょうとも! いつかは必ず世間をあっと言わせる様な、画期的な新商品を開発して大々的に売り出してやるわよ! どう? これで満足!?」
「良くできました。やっぱり幸恵さんは、これ位元気が無いとね」
「勝手に言ってなさいよ、もう」
軽く手を叩いて拍手した和臣から視線を手元に落とし、幸恵は杯の中身を煽った。するとすかさず和臣が手を伸ばして酒を注いでくれ、幸恵は向かっ腹を立てながら黙ってそれを受ける。
(本当に腹が立つわね、こいつ。いつかギャフンと言わせてやるから)
そこまで考えた幸恵は、何となく気になった事をそのまま口に出した。
「……そう言えば、そっちはどうなのよ」
「どうって、何が?」
「仕事。でも銀行なんてお金を右から左に流して、利ざや稼いで成り立ってるんだから楽よね。経営が危なくなったら国から税金が投入されて助けて貰えるし。あんただって楽に仕事して高給貰ってるんでしょ?」
「……そう思ってて良いよ」
半分以上嫌味で言った台詞だったが、サラッと切り返してくると思った予想とは裏腹に、和臣は小さく苦笑しただけで幸恵から目を逸らしてカウンターの向こうを眺めた。そしてその場に微妙に気まずい沈黙が漂う。
「何よ。その引っ掛かる言い方」
わざと突っかかる様な物言いをしてみたが、和臣は若干力無く笑って見せただけだった。
「せっかく幸恵さんが美味しく食べているのに、不愉快な思いをさせたく無いしね」
(何よそれ)
わけが分からないまま何となく黙り込んだ幸恵は無難な話題を探そうとしたが、そこで入店してきた客に店員がかけた声が店内に響き渡った。
「いらっしゃいませ!」
幸恵が何となく和臣の顔色を窺っていると、幸恵の頭越しに新たな客を眺めた和臣が僅かに顔を顰めた。それを認めた幸恵が何気なく入口の方に顔を向けると、四十代から五十代に見える男性四人組の中の一人が、自分達の方を凝視しているのに気付き、その非友好的な視線に思わず眉を寄せる。
その男達は店員の誘導で幸恵達の後ろを通って奥のテーブル席に落ち着いたが、幸恵はそれを確認してから前を向いて素知らぬふりで酒を飲んでいた和臣に、控え目に尋ねてみた。
「……知っている人なの?」
「仕事上でちょっと。わざわざ挨拶する程度では無いから、気にしないで」
「ふぅん?」
何となく納得しかねる物を感じながらも、幸恵は再び料理を味わう事に専念し始めたが、それは長くは続かなかった。
「ねぇ、何かさっきの人達、こっちを見てるんだけど? どういう知り合い?」
何気なく和臣の頭越しに視線を向けた途端、何か小声で囁き合いながら自分達を睨んでいる事実に気が付いて指摘した幸恵に、和臣は疲れた様に溜め息を吐いてから、事情を説明し始めた。
「あの四人のうちの一人が、俺が担当していた顧客の一人。正確に言うと五年前にうちの銀行から融資を受けて、担当者の異動で一年前に俺が引き継いだんだけど」
「それが?」
「端的に言えば、初代の信用と伝統を無視して迂闊な販路拡大、新商品開発に走った二代目の先見の無さで、貸し出し実績を作りたかった前任者の、甘い返済見積もり計画と緩い審査で出した金が、戻ってこなくなった」
実家がスーパーを経営し、借り入れや返済云々に関しては重々承知していた幸恵は、和臣の話の意味がすぐに分かった。
「あの人の会社が、不渡りを出したの?」
思わず声を潜めて確認を入れた幸恵に、和臣は肯定の言葉を返した。
「ああ。夏の終わりにね。……だが俺だったら、そもそもあんな返済計画とも言えない甘過ぎる与太話、握り潰して翻意を促して融資はしない」
「……そう」
常には聞かれない、苛立たしげな声音と乱暴な口調に、和臣が相当気分を害しているのが分かって、幸恵は口を噤んだ。しかしそれで萎縮させてしまったと感じた和臣は、瞬時にいつもの笑顔に戻って幸恵のご機嫌を取り始める。
「だけど幸恵さんには、全然関係ないから気にしないで。今度はつくねを頼もうか? 軟骨入りの奴が美味しいんだ」
「……残念だけど、注文してもゆっくり味わっていられないかもしれないわよ? こっちに来るわ」
「え?」
溜め息混じりに幸恵に指摘されて和臣が反対側に顔を向けると、ここに来るまでに既に飲んでいたらしい赤ら顔の男が、据わった目で和臣の至近距離まで近付いた所だった。
「やあ、幸恵さん。お疲れ様。ここまで来て貰って悪かったね」
「別に良いわよ。最寄駅から乗り換えなしで来れたし。それに随分早くから来ていたんじゃないの?」
「俺の職場は、ここから一駅だけだからね。間違っても幸恵さんより遅く来る訳にいかないだろう。さあ、行こうか」
上機嫌な和臣に促され、幸恵は素直に並んで歩き出した。普段来る事も無い場所であり、幸恵が少し興味深そうに周囲の様子を眺めているのを横目で見ながら、和臣が幾つかの当たり障りのない話題を振っている間に、車が行き交っている幹線道路から何本か外れた通りに入り、落ち着いたビルやマンションが両脇に立ち並ぶ道を進んだ。するとビルの一階に入っている店の前で足を止める。
「ああ、着いたよ。ここに入るから」
「そう」
素直に頷いたものの、幸恵は内心ちょっと怯んだ。表に掛けられている暖簾が如何にも古臭く、窓の外側に巡らされている木製の格子や壁面も、あまり手入れがされていない様に見えたからだったのだが、和臣に続いて暖簾をくぐり、引き戸を開けて店内へと入ってすぐにそのイメージは覆された。店内は明るく、木目が美しいカウンターや染み一つ無い壁、その壁に沿って配置されているテーブルも傷一つ見えない、整えられた空間だったからである。それを認めた幸恵は、思わず素直な感想を述べた。
「へぇ? なかなか感じの良い店じゃない。外観ももうちょっと考えれば良いのに」
そんな感想を予め予想していたのか、和臣は苦笑気味答えた。
「店内は一年前位に改装したけど、店主のこだわりで外観は開店当時のままにしてあってね。だけど一見古びて見える所が良いんだよ。それなりに趣も有るだろ?」
「言われてみればそうかもね」
そんなやり取りをしていると、カウンターの内側から店主らしき五十がらみの男が声をかけてきた。
「やあ、お久しぶり。珍しいですね。女性を連れていらしたのは、初めてだと思いますが」
「どうも。……カウンターで良い?」
店主に愛想良く笑いかけてから、和臣は幸恵に向き直って尋ねた。それに幸恵が微妙な顔で答える。
「それは構わないけど……」
「テーブル席が空いてますよ? せっかくのデートじゃないんですか?」
まだ混みあう時間帯ではなく、四人掛けのテーブル席が二つ空いていた為、幸恵と同様に店主が戸惑いながらそちらを勧めてきたが、和臣は笑って言い返した。
「ああ、デートだから尚更カウンターの方が良いかな。俺としてはテーブル越しより、隣合って座った方が嬉しいので」
それを聞いた店主が笑いを堪える表情で、自分の手前の席を勧める。
「なるほど。それは失礼しました。それではこちらにどうぞ」
「ありがとう」
「……テーブル席に行くわ」
思わず憮然としてテーブル席に移動しかけた幸恵だったが、その腕を軽く掴んだ和臣が、小声で言い聞かせた。
「まあまあ、この店はもう少し後の時間帯になると結構混むんだ。四人掛けのテーブルを二人で占拠するのは気が引けてね。お客をお断りさせるのは悪いし、相席だって嫌だろう?」
「……何か嘘臭いわね」
そう言いながらも、ここで揉めるのは馬鹿らしいとばかりに、幸恵は大人しくカウンター席に座った。その横に座りながら「じゃあいつもの奴と、まずお任せで二人分」などとカウンターの向こうに声をかけてから、和臣が困った様に笑いかける。
「酷いな。俺ってどこまで信用が無いんだろう」
「どこもかしこも胡散臭いのよ。自覚が無いならこの際一から十まで、懇切丁寧に教えてあげるわ」
「本当に幸恵さんって容赦ないな。それが良いんだけど」
「勝手に笑ってなさい」
容赦なく切り捨てられても全く気にする素振りを見せず、和臣は満足そうに笑っていたが、それを見た幸恵は何となく癪に触った。そうこうしているうちに目の前に手早くおしぼりやお通しの小鉢、盃などが置かれ、冷酒用のデキャンターが和臣の前に置かれる。それを取り上げた和臣が、幸恵の盃に慎重に中身を注いで声をかけた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
そう声をかけた和臣はそのまま自分の盃にも注いでしまった為、一応和臣分は注ぐつもりでいた幸恵は多少ばつが悪い思いをした。
(うっ……、ちゃっちゃと手酌しないでよ。手を出す暇も言い出す暇も無かったでしょうが)
何となく気の利かない女だと思われそうで密かに幸恵は落ち込んだが、そんな事は全く気にしない風情で、和臣がガラス製の杯を持ち上げながら笑顔で告げた。
「それじゃあ、幸恵さんの昇進を祝って、乾杯」
「……乾杯」
(全く、調子狂うわね)
幸恵が持ち上げた杯と軽く打ち合わせてから、和臣は口に含んだ酒を如何にも美味しそうに味わい始めた。それに釣られる様に幸恵も無言で飲み始め、小鉢に箸を付ける。
「お酒もそうだけど、想像したより美味しい……、この茄子とオクラの辛子浸し」
「それは良かった」
「このみょうが胡瓜も色々入ってるし、凝ってるわね」
「うん、椎茸やくらげも入ってる。味付けも醤油や砂糖の他に、唐辛子とかごま油とか入れてるみたいだしね。さあ、肝心の鳥も美味しいからどんどん食べて。好きな物を頼んで良いからね」
幸恵が正直に酒と小鉢の中身を誉めると、和臣はまるで自分が誉められた様に嬉しそうにお品書きを広げながら幸恵に勧めた。
その時タイミング良く最初に和臣が頼んでいた串焼きの盛り合わせが二人の目の前に置かれ、幸恵は早速手を伸ばして食べ始める。
「うん、美味しい! これなら幾らでも入りそう」
まずももを一本食べ終わって満足そうに感想を述べ、再び手を伸ばして皮を食べ始めた幸恵に、和臣は嬉しそうに笑い返した。
「それは良かった。働くのに体は基本だからね。幸恵さんはダイエットとかする人じゃないと思ってたし」
「当然でしょう? 空きっ腹で仕事が出来るわけ無いじゃない」
幸恵にしてみれば当然の事として言い返したのだが、和臣は笑いを堪える表情になった。それに気付いた幸恵は、三本目に取りかかるのを中断し、軽く相手を睨み付ける。
「何? 私の顔に何か付いてるの?」
「いや、そうじゃなくて。本当に幸せそうに食べてくれるから、嬉しくて」
「……馬鹿じゃないの?」
(本当に調子狂うわね、こいつ)
自分も食べつつ顔を横に向けてにこにこと笑っているつかみどころの無い和臣に、幸恵は密かに溜め息を吐いた。そして如才無く食べ切る前に追加注文を済ませてから、さり気なく別な話題を切り出す。
「幸恵さん、この前の出張先で、どんな仕事をしてきたの?」
杯片手にそんな事を尋ねられ、正直幸恵は戸惑った。
「どんなって……、説明しても分からないと思うわよ? ……言っておくけど、これは嫌味じゃ無いから」
不自然に付け足された様な台詞の理由を、和臣は何となく悟ってしまった。
「それは……、以前に尋ねられたから滔々と説明してあげたら、『全然分からないのに嫌味だ』とか言った、失礼な人が居たとか?」
その推測は見事に的中していたらしく、幸恵の表情が忽ち苦いものに変わる。
「……そう言う物言いが、既に嫌味よね」
「悪かった。ごめん、謝るよ。でも純粋に興味があるから、良かったら聞かせて欲しいな」
(全く、何なのよ……)
神妙に下手に出てきた和臣に、幸恵は不機嫌さを抑え込んで話す事にした。
「えっと、まず第一の目的は、印刷機用のインクの開発。勿論現時点で販売している物でも支障は無いんだけど、大手の卸からもっと発色性に優れて退色し難い物をって要求が出て。ポスター等のカラー印刷用だから、際限なく追究される項目ではあるんだけど」
「確かにそうだね」
「他にも色々あって。ボールペン用のインクの色調や粘度や浸透比率の調整をしてデータを取ったり、ノート用の上質紙の明度の確認とか。あと本社からの支持だけでは無くて、今回研究所内の職員と意見交換して、新規に鋏の開発をする事にしたし」
「鋏? あの紙を切る鋏って、そんなに開発する所ってあるのかい?」
思わずカウンターに杯を置きながら、不思議そうに口を挟んできた和臣に、幸恵はしてやったりといった感じで機嫌良く答えた。
「それが素人考えだって言うの。確かに小学生が使う様な鋏なら専ら紙を切るのに使うでしょうけど、自分自身が日常生活で、どんな物を切る時に鋏を使うか考えて見なさいよ」
「……咄嗟に思いつかないな。意外に使って無いかも」
少し考え込んだ和臣だったが、めぼしい考えが出なかったらしく首を捻った。そこにすかさず幸恵が突っ込みを入れる。
「精々封筒を開封する時位じゃない? 紙を切るのって。あんただったら折り込みチラシのクーポンを切り取ったり、箱に付いてる応募券を切ったりしなさそうだもの」
「今のは何か……、偏見に満ちた発言じゃなかった?」
ちょっと憮然とした顔付きになった和臣だったが、それを見て益々機嫌を良くしながら幸恵が解説を続けた。
「アンケートを取ってみても、紙以外の物を切る用途が意外に多いのよ。ビニールのパッケージや、ダンボールを小さくしたりとか、梱包する時のビニール紐とか。食材をザクザク切る鋏は既に出てるから、それを抜きにしてもね」
それを聞いて、和臣は納得した様に頷いた。
「なるほどね。それで何でも切れる様に、もっと切れ味を良くするとか?」
「簡単に言えばそんな所よ。切断面の傾斜をどれ位にするかとか、それに併せて耐久性と重さをクリアできる合金の配合比率をどうするかとか。でも先端が尖り過ぎていると危ないし、支店と力点のバランスや持ち手の圧迫感をどう軽減……」
そこで幸恵の声が急に途切れた為、和臣は真顔になって彼女の顔を覗き込んだ。
「どうかした? 急に黙り込んで」
「ごめんなさい。わけの分からない事を延々聞かされても、本当につまらないでしょ?」
和臣から視線を逸らしつつ(またやっちゃったわ……)と軽く自己嫌悪に陥った幸恵だったが、和臣は一瞬黙り込んでから、穏やかに笑って言い聞かせた。
「つまらなくは無いよ? 幸恵さんがいつもどれだけ真面目に仕事をしてるかが分かって嬉しいし」
「何言ってんのよ……」
僅かに照れくさくなりながら、それを誤魔化す為にそっぽを向いた幸恵だったが、続く問いかけに和臣の方に向き直った。
「ついでに、聞かせて貰っても良い?」
「何?」
「どうして星光文具に入ったの? 好きな商品があったからとか?」
その質問に、幸恵は真顔で答えた。
「星光文具に限らず、文具メーカーに入りたかったの」
「どうして?」
「世の中には色々な物が溢れてるけど、中には全然使わないで一生を終える物だってあるでしょう?」
「例えば?」
咄嗟に該当する物が思い浮かばなかった和臣が問い返すと、幸恵が淡々と例をあげる。
「視力が良い人はサングラスを使わなければメガネ一般はかけないし、免許を持たない人は無免許運転をしなければ車は必要ないし、男性は変態じゃなければ生理用品なんて使わないでしょ?」
「…………確かにそうだね。それで?」
微妙過ぎるたとえ話にも和臣が律儀に頷くと、幸恵は結論を告げた。
「でも文具、特に筆記用具は誰だって使うじゃない。全然触らないで一生を終える人なんていない筈よ? 今はどんな書類でもすぐプリントアウトできるけど、最後に署名だけは自筆って場合が多いし」
「なるほど。幸恵さんは使い易くて役立つ物を作って、世の中の皆に喜んで貰いたいんだね?」
微笑みながら和臣がそんな推察を述べたが、何故か幸恵は不機嫌そうに視線を逸らした。
「……違うわよ」
「そうなの?」
「そうよ! 私、画期的なコンセプトの新商品を発明して特許を取って、会社から給料上積みで特許使用料を貰って、業界内で名前を売りたいの! それだけなんだから!」
僅かに自分の方に身を乗り出し、ムキになって反論してきた幸恵に、和臣は噴き出しそうになるのを堪えるのに苦労する羽目になった。
「そうなんだ。まあ、功名心旺盛なのは、組織内で生き残る為には結構な事じゃないか」
(新商品を開発したいって言うのは本音だとしても、名前を売るとかは微塵も考えていないくせに。素直じゃないな)
しかし笑いを堪えていた和臣の横で、急に暗い声で呟いたと思ったら、カウンター上の皿や小鉢を押しやってスペースを空けた幸恵が、そこに突っ伏して呻く。
「……でも、一生無理かも」
「何が?」
急に酔いが回ったかと心配した和臣だったが、幸恵はボソボソと、しかしはっきりとした口調で話を進めた。
「だって入社以来、基礎研究のデータを取るのが大半で、画期的なアイデアを全然出せないんだもの……。以前『消せるボールペン』とか『貼る修正テープ』とか出た時は、それぞれの『消せない』『広がる』って言う欠点を改善した商品だったから凄く感心して……」
「ああ、確かに画期的な商品だったよね」
思わず相槌を打った和臣にチラリと視線を向けてから、幸恵はまたカウンター上で組んだ腕に額を乗せて呟いた。
「最近だって『針の要らないホッチキス』出たでしょ?」
「ああ、職場内でも使ってる。機密保持の必要上、不要になった書類はすぐシュレッダーにかける事になってるから。その時に針が付いたまま入れると刃を壊す可能性があるから外してたけど、それが結構面倒臭かったな。だからその煩わしさから解放されて助かったよ」
「確かに私も面倒臭いなって思ってたけど、『じゃあ針を無くせば良いんじゃない』という発想にはならなかったわ。何かそこに自分の限界を見ちゃった気がして……」
「限界って……、幸恵さん」
「画期的な新商品、開発したかったなぁ……」
そこで何となく涙声になってきた幸恵の声を聞いた和臣は、笑いを含んだ声で問いを発した。
「幸恵さんって若く見えるけど、実は還暦近いとか?」
「……喧嘩売ってんの? あんた?」
むくっと上半身を起こして睨み付けてきた幸恵に臆する事無く、和臣が飄々と続ける。
「だって『開発したかった』なんて過去形で話すから、まるで定年退職間近の、夢や希望何か微塵も無くなったおばあさんみたいだなって思って」
「一々人の揚げ足取るんじゃないわよ! どこまで性格悪いわけ!?」
「違うって言うなら、もっと他の言い方があるんじゃない?」
どう見ても和臣が面白がっているとしか思えなかった幸恵は、盛大に噛み付いて宣言した。
「ええ、そうでしょうとも! いつかは必ず世間をあっと言わせる様な、画期的な新商品を開発して大々的に売り出してやるわよ! どう? これで満足!?」
「良くできました。やっぱり幸恵さんは、これ位元気が無いとね」
「勝手に言ってなさいよ、もう」
軽く手を叩いて拍手した和臣から視線を手元に落とし、幸恵は杯の中身を煽った。するとすかさず和臣が手を伸ばして酒を注いでくれ、幸恵は向かっ腹を立てながら黙ってそれを受ける。
(本当に腹が立つわね、こいつ。いつかギャフンと言わせてやるから)
そこまで考えた幸恵は、何となく気になった事をそのまま口に出した。
「……そう言えば、そっちはどうなのよ」
「どうって、何が?」
「仕事。でも銀行なんてお金を右から左に流して、利ざや稼いで成り立ってるんだから楽よね。経営が危なくなったら国から税金が投入されて助けて貰えるし。あんただって楽に仕事して高給貰ってるんでしょ?」
「……そう思ってて良いよ」
半分以上嫌味で言った台詞だったが、サラッと切り返してくると思った予想とは裏腹に、和臣は小さく苦笑しただけで幸恵から目を逸らしてカウンターの向こうを眺めた。そしてその場に微妙に気まずい沈黙が漂う。
「何よ。その引っ掛かる言い方」
わざと突っかかる様な物言いをしてみたが、和臣は若干力無く笑って見せただけだった。
「せっかく幸恵さんが美味しく食べているのに、不愉快な思いをさせたく無いしね」
(何よそれ)
わけが分からないまま何となく黙り込んだ幸恵は無難な話題を探そうとしたが、そこで入店してきた客に店員がかけた声が店内に響き渡った。
「いらっしゃいませ!」
幸恵が何となく和臣の顔色を窺っていると、幸恵の頭越しに新たな客を眺めた和臣が僅かに顔を顰めた。それを認めた幸恵が何気なく入口の方に顔を向けると、四十代から五十代に見える男性四人組の中の一人が、自分達の方を凝視しているのに気付き、その非友好的な視線に思わず眉を寄せる。
その男達は店員の誘導で幸恵達の後ろを通って奥のテーブル席に落ち着いたが、幸恵はそれを確認してから前を向いて素知らぬふりで酒を飲んでいた和臣に、控え目に尋ねてみた。
「……知っている人なの?」
「仕事上でちょっと。わざわざ挨拶する程度では無いから、気にしないで」
「ふぅん?」
何となく納得しかねる物を感じながらも、幸恵は再び料理を味わう事に専念し始めたが、それは長くは続かなかった。
「ねぇ、何かさっきの人達、こっちを見てるんだけど? どういう知り合い?」
何気なく和臣の頭越しに視線を向けた途端、何か小声で囁き合いながら自分達を睨んでいる事実に気が付いて指摘した幸恵に、和臣は疲れた様に溜め息を吐いてから、事情を説明し始めた。
「あの四人のうちの一人が、俺が担当していた顧客の一人。正確に言うと五年前にうちの銀行から融資を受けて、担当者の異動で一年前に俺が引き継いだんだけど」
「それが?」
「端的に言えば、初代の信用と伝統を無視して迂闊な販路拡大、新商品開発に走った二代目の先見の無さで、貸し出し実績を作りたかった前任者の、甘い返済見積もり計画と緩い審査で出した金が、戻ってこなくなった」
実家がスーパーを経営し、借り入れや返済云々に関しては重々承知していた幸恵は、和臣の話の意味がすぐに分かった。
「あの人の会社が、不渡りを出したの?」
思わず声を潜めて確認を入れた幸恵に、和臣は肯定の言葉を返した。
「ああ。夏の終わりにね。……だが俺だったら、そもそもあんな返済計画とも言えない甘過ぎる与太話、握り潰して翻意を促して融資はしない」
「……そう」
常には聞かれない、苛立たしげな声音と乱暴な口調に、和臣が相当気分を害しているのが分かって、幸恵は口を噤んだ。しかしそれで萎縮させてしまったと感じた和臣は、瞬時にいつもの笑顔に戻って幸恵のご機嫌を取り始める。
「だけど幸恵さんには、全然関係ないから気にしないで。今度はつくねを頼もうか? 軟骨入りの奴が美味しいんだ」
「……残念だけど、注文してもゆっくり味わっていられないかもしれないわよ? こっちに来るわ」
「え?」
溜め息混じりに幸恵に指摘されて和臣が反対側に顔を向けると、ここに来るまでに既に飲んでいたらしい赤ら顔の男が、据わった目で和臣の至近距離まで近付いた所だった。
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