半世紀の契約

篠原 皐月

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番外編 藤宮美子最強伝説~天啓に打たれる時

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 砂場での騒動から、三週間ほど経過したある日。最近、同じバス仲間の美和が自慢げに口にした『みわね、もうおつかいできるんだ~』の一言に触発された美子は、珍しく母親にねだってお使いをさせて貰い、近くのスーパーで買い物を済ませて通りに出て来た。

(りんごふたつ、おさいふ……。よし、だいじょうぶ)
 たすき掛けのポシェットの中の小さな財布と、手にしている小さな白いビニール袋の中を覗き込んで確認した美子は、意気揚々と自宅に向かって歩き出した。

(よしえはすりすりりんご、だいすきだもんね。かえったらつくって、たべさせてあげようっと)
 一歳間近で離乳食も始まっている妹が、未だに賽の目切りより、すりおろした林檎を好んでいるのを知っていた美子は、自分がそれをスプーンで食べさせてあげる場面を想像して、「やっぱりよしえがいちばんかわいいよね」などと姉馬鹿な事を呟きつつ上機嫌で歩いていると、いきなり進行方向に男が立ちふさがった。

「おい、止まれ。そこのガキ!」
 目の前に立たれては止まる事しかできず、美子は不思議そうにTシャツとジーンズ姿の男を見上げた。

「……だれ?」
「俺の顔が分からねぇのか!?」
 顔付きを険しくして、苛立たしげに叱りつけてきた相手の顔をじっくり眺めた美子は、漸く該当する人物に思い至った。

「う~んと、……あ! めがまっかになったへんたいさんだ。ごきげんよう」
 そう言ってぺこりと頭を下げた美子を、男が叱りつける。

「ごきげんよう、じゃねぇぇぇっ!! これを見ろっ!!」
 男は叫びながら、腰にさしていたナイフを取り出し、その鞘を歩道に投げ捨てて切っ先を美子に向けた。それを見た周りの通行人の何人かが、小さな悲鳴を上げて後ずさるが、美子は見慣れない形状のそれが何にどう使う物か判別できず、本気で首を傾げる。

「……なに?」
「はぁ? 見た事ねぇのかよ!? サバイバルナイフだ、サバイバルナイフ!! ぶっさり刺さるしざっくり切れるし、とっても痛くて怖いんだぞ!? どうだ!! 今度こそ泣き喚け!!」
 ムキになって男が解説した為、美子にも漸くその危険性が分かった。そして彼女なりに精一杯、考えを巡らせる。

(ええと……、あぶないときは『あんぜんをかくほ』して、さっさと『にげる』。……うん、ちゃんとおぼえてる。このまえすごくおこられたから、がんばらないと。でもどうしよう?)
 そこで次の行動に迷った美子だったが、手を動かした拍子にガサリと小さな音を立てたビニール袋を見て、名案を思い付いた。

「あ、これがあった!」
 そして迷わずに歩道にビニール袋を置いた美子は、林檎を一つ取り出し、それを両手で持って、勢い良く男が手にしているサバイバルナイフに向かって突き出す。

「えいっ!」
「はあ?」
 その林檎は見事中央を貫かれてナイフに突き刺さり、男が度肝を抜かれている間に、美子はすかさず手を離して再び残った林檎を取り上げ、同じ事を繰り返した。

「とりゃ!」
「おい!」
 再び林檎がナイフに刺さり、団子状に刺さった林檎で完全に刃先が隠れたサバイバルナイフを持ったまま、男は呆然とそれを見下ろした。
(よし、あんぜんかくほ。つぎはにげる)
 そして次のステップに移った美子は、男に背を向けてとっとこ駆け出した。しかし少し行った所で、自分の想像と違う事態に、思わず足を止める。

(あれ? おいかけてこない?)
 怒声も足音もしない為に背後を振り返ってみると、何故かその男は足元に林檎が刺さったナイフを放り出し、歩道にがっくりと両手両膝を付いて蹲っていた。周りの通行人が何事かと緊張しながら遠巻きに眺める中、美子は首を傾げてからパタパタと駆け戻って男の前にしゃがみ込み、顔を覗き込む様にして声をかけてみる。

「おじ……、おにいさん。だいじょうぶ?」
 その問いかけに、低い押し殺した声が返って来る。
「今……、おじさんって言いかけただろ?」
「はい、ごめんなさい。おにいさん、ぐあいわるいの?」
「悪いに、決まってんだろっ……、なんで、怖がってくれねぇんだよ……。ふっ、うぇぇぇっ……」
 一応素直に謝った美子が、再度体調を尋ねてみると、男は文句を言った後に俯いたまま咽び泣き始めた。それを見た美子の困惑が深まる。

(あれ? よしこがなかせちゃった?)
 困ってしまった美子は、なるべく優しく声をかけてみた。

「おにいさん、よしこがなかなかったから、かなしいの? ないてあげる?」
「ガ……、ガキに、憐れまれる、なんてっ……、俺はどこまで、取るに足らない、腐った人間なんだっ……」
「くさった?」
 キョトンとしてオウム返しに口にした美子に、男は勢い良く顔を上げてまくし立てた。

「ああ、そうだよっ!! 頭悪いのに親の面子で無理矢理大学に入れられて、留年しまくりで結局退学処分になる様な中途半端な奴、当然雇ってくれる酔狂な所も無し、家では穀潰し呼ばわりされてて、憂さ晴らしに裸を見せて驚かせようとすれば悉くガキに反撃される、どうしようもない奴なんだよっ!!」
 そして再び咽び泣き始めた男を眺めた美子は、精一杯自分なりに考えてみた。

(なんか、むずかしいことばいっぱいで、よくわからない。でも、とりあえず……)
 そこで美子は、ピシッと右手を上げながら声をかけた。

「おにいさん、しつもんです」
「なんだよ?」
「おまわりさんがいってたけど、おとこのひとがはだかをみせてきゃあきゃあいわれたいのは、ふつうはおとなのおんなのひとだよね? どうしてよしこたちにみせたの?」
 大人達の話を聞いて、何となく疑問に思っていた事を思い出した美子が尋ねてみると、男は左右に視線を泳がせてからぼそりと呟く。

「……普通の女に見せたら、恥ずかしいだろ」
「…………?」
 益々意味が分からなくなった美子は、困った顔で小首を傾げたが、それを見た男は再び喚いた。

「分かってるさ! そんな目で見るなよ! どうせ俺は意気地なしの、腐れ野郎なんだよっ!!」
「からだはくさってても、こころはくさってないみたいだから、だいじょうぶよ?」
「はあ?」
 いきなり何を言い出すんだという顔で、男は目の前の美子を眺めたが、彼女はとんとんと掌で男の頭を軽く叩いてから真顔で言い出した。

「あのね、ちーずとかよーぐるととかなっとうとか、くさらないとできないのよ?」
「あの……、それは腐るんじゃなくて、厳密に言えば発酵なんじゃ……」
「そうともいうよね。あたまはくさってなくてよかったね」
「……何か微妙過ぎるフォローだな」
 にこにこしながらいきなり脈絡の無さそうな事を言われた男が、何とも言えない表情になったが、美子は自信満々で話を続けた。

「それにおにくはね、うしさんをころしてすぐたべるんじゃなくて、くさらせてたべたほうがおいしいんだよ? よしこのおうち、たべものやさんだからしってるもん!」
 そう言って「えっへん!」と胸を張った彼女に、男は一応反論してみた。

「いや……、だからそれは腐ると言うよりは、熟成と言った方が適当だと……」
「だからね、おにいさんはちょっとくさってるかもしれないけど、もうすこしくさってもだいじょうぶだよ? あたまとこころがくさったらこまるけど、からだはくさったらとってもおいしくなるから!」
 自分の台詞を半ば無視して、満面の笑顔で美子が断言したところで、男は押し黙った。そして一分程が経過してから、未だににこにこしている美子に、男が静かに問いかける。 

「……俺は、これからでも美味しくなれるのか?」
「うん。おにいさんのあたまのうえに、おいしいおにくがみえるもん。よしこ、すてーきは、みでぃあむがいいなぁ」
 美子は男の頭上を見上げつつ、最近家に贈られた牛肉を焼いて食べた時、祖父母が切り分けてくれた肉の事を思い出しながら、うっとりとした表情でかなり的外れな独り言を漏らした。すると黙ってそれを聞いていた男が、顔を上げて美子の顔を見据えながら声を絞り出す。

「…………よしこちゃんって言ったな」
「うん、とうのみやよしこ」
「俺は今、天啓に打たれた」
「てんけい?」
「俺は親兄弟から見たら、役立たずの腐れ人間を極めてみせる」
「きわめて? なにをみせるの?」
 全く意味が分からずに首を捻りっぱなしの美子に、男が苦笑いする。

「何が何でも、美味い人間になってやるって事だ」
「そうなんだ。がんばってね?」
 そして美子が良く分からないまま激励すると、男はすっかり憑き物が落ちた様な表情になって、勢い良く立ち上がった。

「おう! じゃあいつか、俺が本当に味のある人間になったら、よしこちゃんに会いに来るから! それまで待っててくれ! それじゃあな!」
「うん、さようなら」
 そしてナイフを放り出したまま勢い良く駆け出した男を、手を振って見送りながら、美子は呟いた。

「……おいしいおにくになってね」
 そして男の姿が完全に見えなくなってから、美子はビニール袋を持ち上げようと手を伸ばしたが、ここで自分の失敗に気が付いた。

「さてと、かえろうっと」
 その視線の袋の中には当然林檎は入っておらず、横に転がる串刺し林檎が目に入る。
「あ、どうしよう……。これを持ってかえっておかあさんがみたら、おこられるよね?」
 取り敢えず小さな手でナイフから林檎を抜き取ってみたが、突き抜けた穴は隠しようが無く、美子は難しい顔で考え込んだ。しかしすぐに解決策を思いつく。

「よし、しょうこいんめつ」
 そして歩道に座り込んだ美子は、穴の開いた林檎の一つにかぶりついた。そして一人でもぐもぐと食べ続けていると、男がナイフを取り出した時点で慌てて逃げた通行人の一人が、警察官を連れてその場に戻って来た。しかしその場に既に男がいない上、放置してあるサバイバルナイフの横で黙々と林檎を食べている美子の姿を認めて面食らう。

「あの……、ええと、よしこちゃん?」
 その声に顔を上げた美子は、顔見知りの交番の警官コンビに、愛想良く挨拶を返した。

「あ、おまわりさん、こんにちは」
「その……、ここに、そのナイフを持った男が居たんだよね?」
「おにいさんはかえって、おいしいおにくになってます。だからしょうこいんめつちゅうなの。おまわりさんもたべて?」
 微妙に意味が通じない上、真顔でまだ手つかずの穴の開いた林檎を付き出された警官達は、揃って顔を引き攣らせた。

「……ごめん。俺達、証拠隠滅には荷担できないんだ」
「かたん?」
「手伝うって事だよ」
「じゃあだめなのね。ひとりでにこは、やっぱりむりかな……。おこられちゃう」
 食べかけの林檎を手にしたまま、しゅんと項垂れた美子に、警官達は顔を見合わせてから、できるだけ優しく言い聞かせる。

「あまり怒らない様に、お巡りさんの方からお父さんとお母さんにお願いしてあげるから、一緒にお家に帰ろうか」
「ゆっくり美子ちゃんの話も聞かせて貰いたいしね」
「ほんとう? おまわりさん、ありがとう」
 表情を明るくして立ち上がった美子は、早速年配の警官に手を引かれて、自宅に向かって歩き出した。

「……絶対、激怒されるとは思うけどね」
 その背後で白い木綿の手袋を填めた若い警官が、ビニール袋の中にサバイバルナイフとその鞘を入れながら小声で呟いた言葉は、当然美子の耳には届いていなかった。
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