半世紀の契約

篠原 皐月

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第72話 禁じ手 

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 その日一日の激務を、滞りなく済ませて帰宅した昌典は、多少の疲労感はあっても、それ程機嫌は悪くなかった。しかし美子に出迎えられて遅い夕食を食べる為に食堂に入った途端、最近三日にあげず訪ねて来ては、夕飯を食べて行く男が彼を出迎えた為、忽ち機嫌を悪くした。

「お邪魔しています、社長」
 箸の動きを止めて白々しい笑顔を向けて来た秀明に、昌典は僅かに顔を引き攣らせながら応じる。

「……やあ、江原君。今日も元気そうで何よりだ」
「はい、すこぶる調子は良いです。最近美子が美味しい料理を、連日の様に作って食べさせてくれるもので」
「君が押しかけて来ているだけではないのかな?」
 自分の席に座りながら軽く皮肉をぶつけてみた昌典だったが、秀明が神妙な顔付きで首を振って見せた。

「社長……、私は『恥』と『遠慮』という言葉の意味を、十分に知っている人間のつもりです」
「『限度』と『節度』という言葉の意味を知っているかどうかは、甚だ疑わしいがな」
 徐々に険悪な空気を醸し出し始めた昌典の機嫌を直そうと、美子は彼の目の前に慌てて皿を並べながら、声をかけた。

「お父さん、今日は鰆の西京漬け焼きと、牛肉の柳川鍋風にしたのよ。好きでしょう?」
「それは嬉しいな」
 献立の内容を聞いて、思わず顔を綻ばせた昌典だったが、ここで秀明が笑顔で、言わなくても良い事を口にする。

「私もどちらも好物です。社長と好みが同じで、嬉しいですね」
「……そうか」
 忽ち仏頂面に戻って不機嫌そうに箸を手にした父親を見て、美子は目線で秀明を叱りつけた。

(もう! 余計な事は言わないで! 絶対お父さんをからかって、楽しんでるわよね?)
(悪い。社内では泰然としているこの人が、家ではあからさまに不機嫌だから、ついからかいたくなるんだ)
 美子と同様に目線で弁解した秀明は、笑いを堪えながらもそれ以上余計な事は言わず綺麗に食器を空にし、自分用の黒兎の箸置きに箸を戻した。

「ご馳走様でした」
「はい、お粗末様でした」
 秀明の食べ終わるタイミングを見計らって予め準備していたお茶を、美子は彼が挨拶するのとほぼ同時に彼の前に置き、手早く空の食器を纏め始める。すると湯飲み茶碗を取り上げた秀明はお茶を一口飲んでから、徐に言い出した。

「ところで、今夜は社長と美子に話があるのですが」
「構わん。言ってみろ」
 それを聞いた昌典は食べながらも鷹揚に頷き、美子も何事かと思いながら、後片付けは後回しにして秀明の隣の椅子に座った。そして秀明は二人に均等に顔を向けてから、静かに話し始める。

「私達の挙式と披露宴の開催の目処が付きましたので、そのご報告になります」
 その口上に、昌典が興味深そうに問い返す。

「ほう? 因みに場所は?」
「披露宴には、大栄センチュリーホテルの鳳凰の間を押さえました。新婦側招待客を百五十人、新郎側招待客を五十人と見積もっています。挙式は、ホテル内に併設されているチャペルで執り行うつもりです」
 それを聞いた昌典は、納得した様に頷いた。

「大栄センチュリーホテル……。確かにあそこなら、規模も格式も充分だな」
「だけどそんな一流ホテルの二百人は入れる宴会場なんて、一年先まで予約が一杯じゃないの? 日程は?」
 美子の懸念は尤もであり、昌典も秀明に訝しげな視線を向けたが、秀明は冷静に決定事項を美子に告げた。

「五月の連休明けになる、第二土曜日だ。大安だし午後の時間帯だし、文句の付けようは無いと思うが」
「は? 五月?」
「え? 今、三月下旬に入ったところなのよ? そうなると来年の話?」
 美子達は揃って当惑したが、秀明があっさりと聞き捨てならない事を口にする。

「いや、今年の五月だ」
「今年!?」
「もう当日まで二ヶ月を切っているから、今夜中にお前が呼びたい招待客のリストを作って、明日の午前中にホテルのブライダル担当者にファックスしてくれ。連絡先はここだ。俺の方は仕事中にリストを作って、職場から送信しておいたから」
 そう言いながら背広のポケットから取り出した名刺を、秀明が美子の方にテーブル上で滑らせた途端、食堂内に昌典の怒声が轟き、美子の悲鳴が上がった。

「仕事中に何をやっているんだ!? この馬鹿者が!!」
「そんな事、いきなり言わないで! 第一、いつ決まったの!?」
「俺も今日の日中、担当者から連絡がきて即決した」
 二人の動揺っぷりとは裏腹に、秀明が変わらず冷静に話を続け、昌典が疑わしげに問いを重ねる。

「どうして都合良く、そんなに直近の日程を組めたんだ?」
「『毒を喰らわば皿まで』と申しますので、妖怪に助力をお願いしました」
 そこでさらっと秀明が口にした内容を聞いた昌典と美子の顔から、一瞬にして血の気が引いた。

「……おい」
「まさか加積さんに?」
 途端に小声になって確認を入れた二人に向かって、秀明が神妙に説明を続ける。

「『未来の舅に、ささやかな嫌がらせめいた条件を出された』と涙ながらに訴えましたら、『俺達を新郎側の招待客として参加させてくれるなら、文句の付けようが無い会場を三ヶ月以内の日程で押さえてやろう』と請け負って下さいました」
「あの加積夫妻を、披露宴に招待するだと?」
「『涙ながらに』って、絶対嘘よね?」
 昌典が頭を抱え、美子はあまりの白々しさに呆れ顔になる。そんな二人に対して、秀明は変わらず淡々と話を続けた。

「突然ホテルの担当者から『キャンセルされた日が有りますが』と連絡を貰った時には驚きました。加積氏経由で、私が会場を探しているのを耳にしたそうで」
「ちょっと待て。まさか加積氏が、無理やり他の婚礼客にキャンセルさせて、そこにお前の話をねじ込んだわけではないだろうな? そういう話はどこからどう漏れるか分からんし、下手をすれば藤宮家の名前に傷が付きかねんぞ?」
 慌てて懸念を口にした昌典だったが、秀明は言下にそれを否定した。

「担当者に尋ねましたら、最初は笑ってごまかしていたんですが、口外しないという条件で、事情を教えてくれました」
「どういう事情だ?」
「何でもその日、披露宴をする筈だったカップルの双方が浮気をしていて、その証拠がつい最近、それぞれの相手の自宅と職場と実家に送付されて、婚約解消に至ったとか。当然式場はキャンセル。大安吉日に穴を空けたくない担当者が頭を抱えていた所に、大株主の加積氏から話があったそうです」
 どう考えても融通が利くホテルへのごり押しと、桜査警公社の信用調査部門を動かしての暴挙だとしか思えなかった二人は、揃って肩を落とした。

「そのホテル、加積氏の息がかかっていたか……」
「この短期間での調査能力、本当に凄いわね……」
「そういうわけで、宜しいでしょうか?」
 わざとらしく尋ねてきた秀明に、昌典が色々諦めた表情で素っ気なく応じる。

「反対できるわけ無いだろう。勝手にしろ」
「はい。勝手にさせて貰います」
 そして憮然として食事を再開した昌典から美子に視線を移した秀明は、あっさりと週末の予定を告げた。

「そういう訳だから、美子。明日中にリストを送信して、今度の土曜日の十時に、ホテルの担当者と顔合わせを兼ねた打ち合わせをするから」
「ちょっと! そんな事、食べてる時は一言も言わなかったじゃない!」
「一応、社長の了承を得てからと思ったからな」
 その台詞に、昌典はピクッと反応して秀明に視線を向けたが、口に出しては何も言わなかった。

(全くもう! 律儀と言えば律儀なんでしょうけど)
 一応、昌典を立ててくれるつもりなのは分かったものの、それ位気を遣ってくれるなら、からかうのは止めて欲しいと美子が真剣に考えていると、秀明が話題を変えてきた。 

「それから、近々桜査警公社にも行くからな」
「どうして?」
「あの夫婦から、あの会社に関する諸々の権利を、正式に譲渡される為の手続きにだ。それに今回の事で骨を折って貰ったし、やはり直に顔を合わせて、礼を述べようかと思う」
 正直に言えば、勝手に借りを作ったのはあなたでしょうと言いたかったものの、自分の結婚披露宴の事でもあり、美子は傍目には素直に頷いた。

「分かったわ」
「ところで江原君」
「はい、なんでしょうか?」
 いつの間にか食事を中断し、手に提げて帰宅した書類鞄の中から大判の封筒を取り出していた昌典は、顔を向けた秀明に向かって、それを差し出しながら要請した。

「急がないから中の書類に記載した上で、必要書類を添えて私に返却してくれ」
「今ここで、中を拝見しても宜しいですか?」
「構わない」
「失礼します」
 不思議そうな顔になりつつも、取り敢えず受け取って中身を確認した秀明は、まじまじとそれを見下ろしてから、判断に困る様な顔つきで昌典に視線を戻した。
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