半世紀の契約

篠原 皐月

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第66話 大人の駆け引き 

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「とにかく大体の状況は分ったから、夕飯にするか。小早川君は二階に行って、美恵達に話が終わった事を伝えてくれないか。江原君は客間に布団を敷いてあるから、取り敢えず休んで泊まっていきなさい。帰国したばかりで、ただでさえ疲れているだろうからな。美子、案内しなさい」
「……はい」
「分かりました。お世話になります」
 そして淳と昌典が立ち上がって廊下に消えてから、美子は控え目に隣に座る秀明に声をかけてみた。

「あの、立てますか?」
「……ああ」
(かなり機嫌が悪そう……。無理も無いとは思うけど)
 再び資料を封筒にしまい、秀明はゆっくりと立ち上がって歩き始めた。そしてすぐに奥の客間に辿り着く。

「どうぞ、こちらを使って下さい」
「分かった。……やっぱりああ見えて、淳の奴はマメだな」
 襖を開けるなり秀明がそんな事を呟いた為、美子が何の事かと思っていると、淳が持参したらしい秀明の大きなスーツケースを室内に認めて、その理由が分かった。そのまま何となく眺めていると、早速スーツケースを開けてパジャマや服を取り出していた秀明が、不審そうに振り返って声をかける。

「どうした? 行って良いぞ?」
「だけど……」
 自分でもどうしたいのか良く分からずにおろおろしている美子を見て、怪訝な顔になった秀明が何か言いかけた所で、美子の背後から美実が顔を出した。

「おい、美子」
「失礼します。江原さん、夕飯はこっちで食べるかしら? それとも皆と一緒に食堂で?」
 その問いかけに秀明は一瞬口を閉ざしてから、あっさりと断りを入れた。

「いや、あまり腹が減って無いから、食事は良い。ちょっと疲れたので、寝させて貰う。薬を飲む為の水だけ貰いたいが」
「了解。今持って来るわ。ほら、美子姉さん。なに、こんな所で突っ立ってんのよ。行くわよ?」
「え、ええ……」
 そして腕を取られて、半ば引き摺られる様に台所に向かった美子は、美実からの小声で追究された。

「江原さんが怪我してるって、お父さんにメールしたみたいだけど、一体何があったの? あの人の帰国予定より明らかに早いし、お父さんは元気なのに早退しているし、いきなり淳が怒りの形相で現れて居座っていたし」
 妹達が相当戸惑った事がその話だけで分かった為、美子は素直に謝った。

「ごめんなさいね。家の中の空気を悪くして」
「別に美子姉さんが謝る事でも無いでしょう?」
「……そうでもないのよね。理由は言えないんだけど」
 そこで口を閉ざした美子だったが、色々心得ている美実はそれ以上しつこく聞いたりはせず、「そう」と軽く頷いて話を終わらせた。それに感謝して台所に向かった美子は、水を入れたガラス製の水差しとグラスを手早く丸盆に乗せて、再び客間へと戻った。

「お待たせしました。どうぞ」
「ああ」
 そして丸盆を受け取った秀明が、病院で処方された化膿止めや炎症止めの薬を袋から出して飲むのを無言で眺めた美子は、ふと自分に向けられた彼の視線に気付いて、慌てて「失礼します」と頭を下げて客間から出た。そして廊下を歩きながら、溜め息を吐く。

(やっぱり私、まだきちんとお礼を言って無いわよね? 仕事の方もかなり無茶してくれたんだろうし、できれば今日のうちに、ちゃんとしておきたいわ)
 そしてどう話を進めるべきかと、夕食を食べながら密かに悩んだ美子は、食べ終えてから父親の書斎へと足を向けた。

「お父さん。少し良いかしら?」
「何だ?」
「一つお願いと言うか、相談があるんだけど」
 顔を見せるなりそんな事を言い出した娘に、昌典ははっきりと警戒する顔付きになった。

「相談? 取り敢えず言ってみろ。変な事では無いだろうな?」
 それを聞いた美子が、がっくりと肩を落とす。
「……今日一日で、お父さんの私に対する信用が、だいぶ下がった気がするわ」
「これで上がる方がおかしいぞ。それで、どうした?」
 それから美子の話を聞いた昌典は、かなり面白く無さそうな表情になったが、更に幾つかの事を美子に言われて、不満そうにしながらも彼女の話を了承した。

 この数日の強行軍で、意識していなくても身体はかなり疲労していたのか、秀明は布団に横になるとすぐに深い眠りに落ちた。そして何時間かして、微かな痛みと共に覚醒する。

「……っ」
(どれ位、寝ていたんだ?)
 見慣れない、常夜灯のみの室内に一瞬戸惑った秀明だったが、すぐに藤宮邸で休ませて貰った事を思い出し、外して枕元に置いてあった腕時計で時間を確認して、一人苦笑した。

(俺らしくも無い。六時間近く爆睡していたか。薬の効果が切れてきたか?)
 はっきりとした痛みまでは感じないまでも、僅かに疼くような不快さはある胸部を布団の下で軽く押さえながら、秀明は溜め息を吐いた。

「本格的に痛くなって眠れなくなる前に、早めに飲んでおくか」
 そう決めた秀明は早速起き上がり、寝る前に持って来て貰ったコップと水に手を伸ばした。するとここで廊下に面した襖が、慎重に少しだけ開けられる。
 静かな音でもそれに気が付かない秀明ではなく、反射的に目を向けると、廊下から様子を窺っている美子と目が合う。一方の美子は秀明が布団の上に座り込んでいたのを見て、ちょっと驚いた顔付きになった。

「あ……、起きてたのね」
「どうした?」
「ちょっと様子を見に来たんだけど……、何か食べる? 全然食べていないから、おなかが空いて寝られなくなっていたら困ると思って」
 その申し出について秀明は少しだけ真顔で考え、軽く頷いて言葉を返した。

「そうだな……。何か軽く貰えれば」
「お茶漬けと煮物位で良い?」
「頼む」
「分かったわ。ちょっと待っていて」
 どうやら予め用意はしてあったらしく、秀明が薬を飲み終えてからそれほど時間を要さずに、美子はお盆を持って戻って来た。それをガツガツと食べる様な真似はしなかったものの、かなりのスピードで平らげてから、秀明が礼を述べる。

「自分で思っていた以上に、腹が空いていたみたいだな。人心地がついて助かった」
「それは良かったわ。お粗末様でした」
 その言葉に美子は苦笑いで返したが、すぐにお盆を持って引き上げると思った彼女が、受け取ったお盆を傍らに置いて何やら居心地悪そうに座ったままなのを見て、訝しんだ秀明が声をかけた。

「……何だ?」
 その問いかけに、美子はまだ少し迷う素振りを見せてから、ゆっくりと口を開く。

「その……、仕事の事だけど。加積さんのお宅で言っていたけど、本当に南米での仕事は、全部終わらせる事ができたの?」
「全て問題無いし、誰にも文句は言わせない。同行者もいるから、俺の仕事ぶりに関してはきちんと報告してくれる」
「それなら良いんだけど……」
(そう言えば、松田をブラジリアで放り出してきたな。だが子供じゃないし、勝手にチケットを取って帰って来るだろう)
 散々きりきり舞いさせた挙げ句、向こうで無情に切り捨ててきた同行者の存在を、ここで漸く秀明は思い出したが、すぐに再び意識の外に押し出した。そこで美子が、今更な事を言い出す。

「どうしてあんな事をしたの?」
 その問いに、秀明は若干面白く無さそうな顔付きにはなったものの、いつもの口調で答えた。
「他人のモノに手を出そうとした根性が気に入らないし、経験上ああいうろくでもない輩は、早い段階できちんとぶちかましておかないと、益々対応が面倒になる」
「だから、手を出されたりしてはいないから」
 呆れ気味に美子が口を挟むと、今度は秀明は気分を害していると、はっきりと分かる風情で答えた。

「……一緒に仲良く、コスプレする仲にはなっていただろうが。しかも俺よりも、あいつの肩を持ちやがって」
(ひょっとして、電話をかけてきた時に、加積さんの事を紳士云々と言った事で拗ねているとか? 全く……、手に負えないわね)
 軽く眉根を寄せた美子だったが、思った事は声には出さずに話を続けた。

「ところで、あなたの話の中で大前提になっている事柄についてお尋ねしたいんですが、『誰』が『誰のモノ』なんでしょうか?」
「お前が俺のモノに決まっている」
「……そう」
 あまりにも清々しい断言っぷりに、美子は反論するのも馬鹿らしくなってしまった。

(『結婚してくれ』と桜さんに土下座した加積さんが、もの凄く可愛く思えてきたわね。何よ、この自己完結っぷり。確かに求婚されているけど、まだきちんと返事はしていないわよ?)
 半ば呆れたものの、確かに目の前の男が自分を情熱的に口説く様な真似をするとは思えなかった為、この際美子は細かい事には目を瞑る事にした。

(色々言葉が足りない所があるとは思うけど、でも取り敢えず心配してくれた事は確かなんだから、きちんと筋は通しましょうか)
 そこで居住まいを正した美子は、秀明に向かって謝罪しながら深々と頭を下げた。

「それで、その……。今回は私の浅慮のせいで、色々ご迷惑おかけしてすみませんでした。それから、わざわざ迎えに来てくれて、ありがとうございました」
 急に神妙に礼を述べてきた美子に、秀明は一瞬驚いた様な顔付きになってから、真面目くさって頷く。

「分かっていれば良い。これからは良く知らない人間に、ホイホイ付いて行くなよ?」
「……分かりました」
 秀明の物言いに、さすがに(小さな子供じゃ無いわよっ!)とキレそうになった美子だったが、グッと言葉と怒りを飲み込んだ。そして気持ちを落ち着けて、本題に入る。

「それで、今回ご迷惑をおかけしたお詫びを兼ねて、何かお礼をしようかと考えたんだけど……」
「別に構わないがな。俺自身がムカついて、勝手に動いただけだし。さすがにあんな面倒な会社まで押し付けられたのは、想定外だったが」
(本当に、危険度と迷惑の度合いが桁違いよね。これからどうなるのかしら?)
 その事実を突き付けられて美子は少し落ち込んだものの、すぐに気合いを入れ直して話を元に戻した。

「それでさっき少し、父と相談をしてきたの」
「何を?」
「ほら、この前マンションに行った時に言ってたでしょう? 父に『婚前交渉は禁止』だと言われたって」
「ああ、あれの事か。それがどうした?」
 ここでその話を持ち出す意味が全く分からず、秀明は怪訝な顔で問い返したが、美子はすこぶる冷静に話を続けた。

「今回色々迷惑かけたから、結婚前でも今夜だけは大目に見てくれるそうよ」
「何?」
「要するに……、据え膳?」
「はあ?」
 自分自身を指差しながら、淡々とそんな事を言ってのけた美子を見て、秀明は彼には珍しく完全に面食らった表情になり、間抜けな声を上げた。そして十秒程室内が静まり返ったが、何とか気を取り直した秀明が、唸る様に確認を入れてくる。

「……おい」
「何?」
「ちゃんと意味を、分かって言っているんだろうな?」
「そのつもりだけど……」
「どうした?」
 ここで急に美子が困った様に口を閉ざした為、秀明が顔を顰めた。すると彼女は秀明と、その周囲にあった薬の袋などをしげしげと眺めてから、小さく溜め息を吐く。

「やっぱり無理かしらね。お医者様も折れてはいないけど、最低限一週間は安静にって言ってたし。それじゃあまた改めて、別の機会にと言う事で」
「ふざけるな。肋骨の一本や二本にちょっとひびが入ってる位で、やれなくなる様なヤワな鍛え方はしてないぞ」
 言うだけ言って腰を上げかけた美子の左腕を、秀明は素早く手を伸ばして捕まえた。そして彼が言い切った内容に、美子は半ば呆れながら言い返す。

「やせ我慢は、体に良くないと思うんだけど」
「冗談じゃない。通常だったら有り得ない、親父公認の機会なんだ。ちょっとやそっとの怪我で、みすみす逃せるか」
「確かに私も、今回の方が都合が良いけどね」
「……どういう意味だ?」
 意味不明な呟きに、秀明が不思議そうに問いかけると、美子は急に不敵に笑いながら告げた。

「だって、気に入らない事をされた時は、胸に渾身の蹴りか拳を入れれば良いって、対処法が分かっているわけだし。ちょっと叩かれただけでも悶絶しそうなのに、万が一当たりどころが悪くて肋骨が折れて、肺に刺さったりしたら痛そうよね?」
 笑顔でそんな物騒な事を言われてしまった秀明の顔から、若干血の気が引いた。

「……俺を殺す気か?」
 その声に、僅かな恐怖を感じ取った美子は、思わず噴き出しそうになったのを、何とか堪えた。
「そうならない様に、良く考えて行動してねって言ってるの。私も好き好んで、殺人未遂の容疑者として捕まりたくないわ」
「分かった。善処する」
 美子の主張を聞いて苦笑いした秀明は、ここですかさず行動に出た。

「じゃあ早速」
「ちょっと!?」
 そう言いながら秀明は美子の腕を力任せに引っ張り、彼女を布団の上に引き倒した。そして慣れた動きで彼女の身体を跨いで上から顔を見下ろしつつ、両手首を掴んで押さえ込む。

「行動に移るのが早いわね」
「即断即決が俺の主義だからな」
 素で感心してしまった美子に、秀明は宣言通り早速噛みつく様な少々乱暴なキスをしてきた。それを黙って受けた美子は、心の中で(全くもう……、がっついてるんじゃないわよ。この肉食系黒兎)などと悪態を吐いてから、静かに目を閉じた。
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