半世紀の契約

篠原 皐月

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第49話 腹の探り合い

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 人が行き来してざわめいているエントランスの、奥に位置するメインロビー。エントランスからの喧騒や視線を自然に遮れる様に何段か低く設計されている、その老舗ホテルのロビーを待ち合わせ場所に指定された美子は、和装で出向いた為、慎重に絨毯敷きの階段を下りた。
 吹き抜けの天井から吊るされている、やや照度を落とした照明の暖色系の光が、黒光りする漆塗りのテーブルに淡く映り込んでいる落ち着いた空間をぐるりと見回すと、ほぼ正面に位置する丸テーブルを囲むソファーの一つに、紺色のブックカバーを掛けた本を読んでいるスーツ姿の秀明が座っているのを見つけて、忌々しい思いに駆られる。

(居たわ。呆れる位、堂々としているわね)
 そのまま彼に近付いて行くと気配や視線を感じたのか、本から視線を上げた秀明が美子を認めて薄く笑い、無言で手元の本を閉じた。

(上手く私を釣り上げたと、ほくそ笑んでるのが丸分かりだわ。顔を見たら問答無用で蹴り倒しそうだったから、用心の為に着物で来たのは正解ね。……でもいっその事、顔面をスパイクで踏みつける位の事はしても良かったかも)
 そんな物騒な事を考えながら、美子はゆっくり足を進めつつ、周囲の様子を窺う。

(叔父さんからは『事務所の人間を、当日周囲に何人か配置させて貰う』と言われたけど……)
 不自然に見えない程度に問題のテーブルの周囲を確認すると、叔父の自宅や事務所で見た覚えのある顔を認めて、溜め息を吐きたくなった。

(あいつの周囲に、見覚えがある顔ばかり。『何人か』じゃなくて『何組か』みたい。ここはお互いに、知らないふりをした方が良いでしょうね)
 自分の動向を不特定多数の人間に注視されている事に心底うんざりしながら、美子は秀明が居るテーブルまで辿り着いた。

「やあ、久しぶり。元気そうだな」
「……どうも」
 苦笑混じりに声をかけてきた秀明から微妙に視線を逸らしながら、彼とはテーブルを挟んで向かい側のソファーに落ち着くと、様子を窺っていたらしいウェイターが、呼ぶ前に自然な動作で近寄ってお伺いを立ててくる。

「お客様、お飲み物をお持ちしますか?」
 その声に美子が頷いて注文を済ませてから、秀明が笑いを堪える様に言い出した。

「大仰なお供を引き連れて、大変だな」
「何の事かしら?」
 惚けようとした美子だったが、秀明は如何にも楽しそうに詳細を語った。

「約束の時間の二時間前からここに居るんだが、一時間前位にやって来た集団のうちの何人かが、俺の顔を見てギョッとした顔になって、笑いを堪えるのが大変だった。でもそっちに連絡がいっていない様だし、連中はばれたとは思っていないらしいな」
(早々に、ばれていた訳ね)
 軽く頭痛を覚えながらも、美子はあくまでもしらを切ろうとする。

「二時間前? 相当暇な上に、方々に顔が売れている人気者なのね。知らなかったわ。どんな人達に顔が売れているのかは知らないけど」
「れっきとした休日だからな。早目に来たお陰で珍しい見世物が見れて、今まで楽しませて貰った。その集団は俺の周囲に分散して座っているが、本当なら纏まって座って、俺が来る直前にわざと盗聴器を付けた席を一つ空けて、そこに俺を座らせる腹積もりだったんじゃないか? 段取りを潰してしまって、申し訳なかった。後から謝っておいてくれ」
 そこまで言われて誤魔化すのを止めた美子は、軽く顔を顰めながら感想を述べた。

「あまり趣味が良いとは言えないわね」
「その自覚はあるが、困った事に止められない。本当に美子の傍に居ると退屈しないな」
「呼び捨ては止めて」
「了解」
(全く、腹が立つわね)
 真面目くさって頷いた秀明に余計に苛付きながらも、ここで先程注文した珈琲をウエイターが恭しく持って来た為、美子はひとまず口を噤んだ。そしてブラックで一口珈琲を飲んで、気持ちを落ち着かせてから早速本題を切り出す。

「あんな物を叔父の所に送りつけるなんて、一体どういうつもり?」
 単刀直入な問いかけに、秀明も淡々と言い返した。
「あれは要らなかったか?」
「必要だったかもしれないけど、あなたが気にする事では無いでしょう?」
「気にするさ。君の実の叔父と従兄弟の事だからな」
 如何にも当然の様に告げられた美子は、思わず舌打ちしたくなったが、何とかそれを堪えて慎重に話を進めた。

「それから……、あのデータは他にもあるの?」
「いいや? あれだけだ。俺には価値の無い物だからな。あれは倉田氏が好きにすれば良い。外部に漏らしたがる筈は無いが」
(本当に? コピーも取らずに、あれだけだと?)
 密かに気合いを入れた尋ねたものの、あまりにもあっさりと返された為に美子の疑念は深まったが、ここで秀明が思い出した様に尋ねてきた。

「そう言えば、あの気の毒な彼はどうしているんだ? おそらくあの後、大切な彼女に振られただろうし。いや振られる以前に、一方的に音信不通になったとか?」
(つくづく嫌味な男ね!)
 わざとらしく世間話の一つの様に尋ねてきた秀明に、美子は自分の顔が強張ったのを自覚しながら言い返した。

「あなたらしくないわね。自分の行為に対して、今更罪悪感でも覚えたと言うわけ?」
 秀明がそれに対して、不思議そうな表情で応じる。

「どうして俺が、罪悪感を覚える必要がある。単なる好奇心だ。何も無かった事にして丸く収める手腕が有るなら、拍手喝采の感動物だからな」
 平然と言い切った秀明に、美子は軽く呼吸を整えて平常心を心掛けてから、硬い表情で事の顛末を口にした。

「女性の方はどうなったのか全く分からないけど、俊典君は叔父の私設秘書を辞めて、ベトナムの合弁企業で働くそうよ。今日の午前中に出国したわ。向こうの生活が落ち着くまで、暫く帰国できないかもね」
 それを聞いた秀明は幾分驚いた表情になると同時に、思わずと言った感じで小さく口笛を吹く。

「それはまた……。随分急な、文字通り新天地での再出発だな。直接の面識は無いが、一応君を通して縁があるから、健闘を祈ろう。しかし倉田議員は他人に厳しい以上に、身内に厳しかったと見える。さすが社長の実弟だな」
(とぼけてるの? あの時、ボールをぶつけて来たわよね?)
 素で感心した様に呟いた彼の表情を見て、美子は無意識に鋭い視線を向けた。

「……本当に面識は無いの?」
 探る様に言ってみたものの、それは秀明に平然と返されてしまう。
「一企業の課長職の男と代議士の秘書との間に、そうそう接点があるとは思えないが? ああ、今では“元”秘書様だったか。肩書無しでどうにかやっていけるなら甘さも抜けて、何とか実家の役に立てる人間位にはなれるだろうな」
 そして面白がるようにくすくすと笑った相手に、美子は徐々に怒りを駆り立てられた。

「あなたね……。人一人の人生を狂わせておいて、他に言う事は無いわけ?」
「もっと正確に言わせて貰えれば、自業自得な勘違い間抜け野郎だったな」
「それは確かにそうかもしれないけど、もう少し言いようって物があるでしょう!?」
(駄目だわ、怒りに任せていたら、相手の思う壺よ。冷静に、冷静に)
 思わずテーブルを掌で叩いてしまった為、周囲からの視線を集めてしまった事に気付いた美子は、慌てて自分自身に言い聞かせた。その上で、再度慎重に問いかける。

「もう一度聞くけど、どうして叔父のところに、あんな物を送りつけたわけ?」
 すると秀明は薄笑いを完全に消し去り、真顔になって告げた。

「前々から、お前の父方に釘を刺しておきたかったのが一番の理由だが……。今回のあれこれは、強いて言えばお前が一番悪い」
 それを聞いた美子は、本気で首を傾げる。

「はぁ? いきなりわけが分からない事を言わないで。どうして私に非があるのよ?」
「俺からの電話やメールをずっと着信拒否のままにしていながら、男と出歩いてヘラヘラ笑っていただろうが」
「……え?」
(確かにこの人の電話もメールも、マンションに出向いてからこの前まで着信拒否のままにしてあったけど……。ちょっと待って!)
 ここで秀明が口にした事で確信した内容について、美子は盛大に非難の声を上げた。

「『男と出歩いてヘラヘラ』って、やっぱりこの前ペイントボールをぶつけて来たのは、あなた達ね!?」
「それがどうした」
 その指摘にも平然と応じる秀明に、美子が徐々に目つきを険しくしながら糾弾する。

「何開き直ってるのよ! まさか八つ当たり? それだけの事で、あれだけの騒動を引き起こしたわけ?」
「事実誤認も甚だしいな。俺は親切にも周囲に知られて騒ぎになる前に、隠されていた真実を倉田議員に教えてやっただけだ。馬鹿な事をしでかしたのは、あの考え無しの恥知らず野郎だ」
「それでもあれはやりすぎでしょうが!」
 すると秀明は軽く眉を上げ、不愉快そうに美子を見ながら尋ねてきた。

「あいつに密かにコケにされていたお前は、腹が立たないのか? 愛人を容認する、都合の良い女扱いされたんだぞ?」
「……はっきり言われたわけじゃないし、正直実感が無いわ」
 目の前の相手から視線を逸らしながら美子が若干困り顔で本音を述べると、秀明は苛立たしげに吐き捨てた。

「これはまた随分と、お優しい事だな。血縁関係がある分、甘いのか? 俺は自分の女をお飾り人形扱いされて、何もしないで傍観している程の阿呆じゃない」
 しかしその主張は、彼以上に硬質な声で美子にはねつけられる。

「私は誰の女でもないし、第一あなたとの初対面の時、私の事を面と向かって『一番凡庸だが愛人を囲っても喚き散らさない程度の世間体を保てる女』と言ったのを忘れたの? 実際にするかしないかの問題じゃ無くて、そういう目で見るってだけでも同類扱いして良いわよね?」
「…………」
 言い終えた美子が鋭い視線で秀明を睨みつけると、彼も無言のまま視線を返す。

 そのまま数十秒、双方一歩も引かない緊迫した睨み合いを続けてから、秀明が根負けした様に彼女から視線を逸らした。それと同時に、先程本をしまった鞄に手を伸ばし、その蓋を開けて中から黒い革製の高級そうなリングケースを取り出す。
 次いで無言のまま、それをテーブルに乗せて自分の目の前に押しやった為、容易にその中身の見当が付いた美子は、僅かに顔を顰めながら問いかけた。

「何? これは。黙っていないで、ちゃんと説明したら?」
 皮肉気に言われた秀明はそれを気にする事無く、再び美子に視線を合わせて、真剣な表情と口調で申し出た。
「俺と結婚してくれ」
 しかしそれを聞いた美子は、軽く溜め息を吐いて応じた。

「良くできました。……と、言いたいところだけど、他の女の人はどうするの? 全然知らなかったけど、付き合っている女性とは全く別の女性と結婚するのが、最近巷で流行っているのかしら?」
 秀明の言葉に微塵も感銘を受けた様子を見せず、それどころか若干呆れた様子すら見せながら美子が皮肉を返したが、秀明は気を悪くした風情は見せずに言葉を重ねた。

「この際他の女とは、全員完全に手を切る」
 それを聞いた美子は、軽く溜め息を吐く。
「全員、ね。別に無理して切らなくても、構わないのよ? 私のせいで別れたと、後からグチグチ言われるのはまっぴらだし。そもそも本気で言ってるわけじゃないでしょう?」
 そう言って苦笑した美子に、ここで初めて秀明が不快そうに顔を歪める。

「……俺は本気だが?」
「偶然ね。私もなの」
「…………」
 ここで二人は無表情に近い状態で見詰め合ったが、先に根負けした美子が、若干疲労感を漂わせながら言い出した。
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