半世紀の契約

篠原 皐月

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第21話 依頼

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「やあ、君の方から呼び出してくれるとは嬉しいな。一体全体、どういう風の吹き回しだ?」
 二年前に一度指定した、旭日食品本社にほど近い喫茶店に美子が出向くと、前回同様既に秀明が待ち受けていた。そして挨拶代わりにからかい混じりの声をかけてきた彼を半ば無視して注文を済ませてから、俯いてだんまりを決め込んでしまった美子に、秀明は最初から異常を感じたが、特に自分から話しかけたりはせず、黙って事態の推移を見守る。
 そして美子の前にカフェオレが運ばれ、ウエイトレスがテーブルに伝票を置いて立ち去ると同時に、漸く決心した様に彼女が顔を上げた。

「その……、この前はDVDをありがとうございました」
 いきなり真顔で頭を下げた美子を見て、不審そうに秀明の片眉がピクリと上がったが、いつも通りの声で話の続きを促した。

「どういたしまして。だが、わざわざ礼を言う為だけに、俺を呼び出した訳じゃないだろう?」
 そこで美子は再び黙り込み、秀明は渋面になりながらもそのまま彼女の様子を観察した。すると美子はかなり逡巡してから、恐縮気味に話し出す。

「その……、江原さんは半年前から母が入院中なのは、ご存じかと思いますが……」
「ああ。それで?」
 そこで秀明は表情を消したが、俯きながら話している美子には、その変化は分からなかった。

「六年前に心臓機能に異常が認められて治療を始めて、三年前に心筋の機能しなくなった部分を切除する大掛かりな手術をして、心臓自体の負担を少なくしたんです」
「……それで?」
「普通だったら予後は良い病気なので、運動制限と投薬治療の継続で、十分延命を図れる筈なんです。でも母の症例はかなり特殊な病変で、最近切除した以外の部分の冠血管とその周辺が壊死している所が出てきて、症状が悪化して半年前に入院する事になりました」
 ぼそぼそと詳細を説明する美子に、秀明が淡々と問いを発した。

「ペースメーカーの導入とかは?」
「一部を代替えすれば良いと言う問題では無いらしくて……」
「心臓移植は?」
「希望者数に対して、ドナー数が絶対的に不足しているのは、江原さんもご存じですよね?」
「結論を言って貰おうか。回りくどい話は御免だ」
 ここではっきりと秀明の口調に苛立ちを感じた美子は、慌てて顔を上げて秀明を凝視し、その顔に一切の表情が浮かんでいない事を見て取って、再び俯いて話を続けた。

「この前、父と一緒に、主治医の先生から説明を受けました。……あと保って、4ヶ月だそうです」
 消え入りそうな声での告白に、秀明は思わず小さく溜め息を吐いた。

「下手をすれば、新年を迎えられないか……。元気そうに見えるがな」
「ベッドで寝ている分には、負担は少ないでしょうから。これから徐々に心機能が低下するに従って、呼吸器系や消化器系の機能が落ちていくそうです。それと同時に、意識も混濁し易くなるとか」
「随分、冷静だな」
 思わず秀明が発した言葉に、美子は顔を上げ、そして秀明の顔を見てから視線を逸らす。

「取り乱して、どうなるものでもありませんから」
 その顔を見て、自分が常に無い失態を犯した事を秀明は悟ったが、特に謝罪する事はせずに、やや強引に話を進めた。

「深美さんの、現時点での病状は分かった。それで? 普通なら赤の他人の俺に、そんな事をペラペラ喋らないだろう?」
 暗に問いかけた内容に、美子はかなり迷う様な口振りで言い出した。

「その……、この話を聞いてから色々考えてみたんですが……。最後に母を、少しでも安心させてあげたいと思いまして……」
「…………親孝行な事だな」
 美子がはっきりと口にしなくとも、何を考えているのか秀明には正確に理解できた。しかしこの際自分の口からはっきり言わせようと、素知らぬ振りを貫く。
 自然に彼の口調には若干皮肉が含まれていたが、美子はそれを気にする事無く、自問自答する様に話し続けた。

「でも美野と美幸は論外だし、美恵と美実は全くそんな気は無いみたいだし。男性で親しくお付き合いしている方とかはいないし、従兄の誰かにお願いしようかとも考えたんですが、元々親戚筋から勧められていた相手ばかりなので、後々面倒な事になりそうな気がして」
「三つ、条件がある」
「条件?」
 いきなり話を遮られた上、思いもよらなかった事を言われて、美子は面食らった。しかし何もかも分かっている表情と口調の秀明が、自分主導で話を進める。

「俺だったら、迷惑をかけても後腐れが無いから、頼みやすいんだろう? それならこちらが提示する条件位、飲んで欲しいものだな」
「……はい」
 全く反論の余地は無く、美子は素直に頷いた。そんな彼女に秀明が早速条件を並べ立てる。

「まず一つ目。悪いが日時は、俺の都合に合わせてもらう。色々と立て込んでいるからな」
「それは構いません。全面的にこちらが合わせます」
 当然の事だった為美子は力強く頷いたが、秀明はさほど感銘を受けた様子も無く、更なる要求を繰り出した。

「二つ目。衣装や小物の手配、病院との折衝は一切俺がやる。幸いあそこの付属病院には俺の後輩が勤務中だから、口を利いて貰う」
「え? あの……、衣装や小物の手配は分かるけど、病院との折衝って?」
 戸惑いながら疑問を呈した美子に、秀明は冷静に説明を加えた。

「新郎新婦の姿を見せようとしても、その格好で病院の正面玄関から乗り込んだら騒ぎになるし、衛生上の問題になるかもしれない。事情を病院側に伝えて了解を取り付けた上で、手間暇を考えても同じ病棟内で着替えるスペースを貸し出して貰って、そこで身支度を整えるのがベストだ。どうせなら本格的にやるから、メイク担当や着付け担当の人間もそこに出張して貰う。その病棟に、規則に煩い医師や看護師がいないと助かるな」
「そう言えば、そうね……」
(そこら辺の事を、すっかり失念していたわね)
 指摘されて呆然となった美子だったが、秀明は容赦なくたたみかけた。

「三つ目。妹達から俺の連絡先をきちんと聞き出した上で、言いたい事があったら、俺に直に連絡をよこせ」
「え?」
 先の二つとは明らかに違う内容に、美子は(それにどんな意味が?)と不思議そうな顔になったが、ここで秀明ははっきりと不機嫌な顔付きになって、苛立たしげに告げた。

「会社に近いここをまた指定したって事は、相変わらず俺の住所を知らないし、知るつもりも無いよな? 連絡も美野ちゃんが寄越したし、電話番号もメルアドも、自分では控えていないんだろう?」
「それは……、皆が知っているから、わざわざ聞かなくても良いかと思って……」
 かなりの後ろめたさを覚えながら弁解した美子だったが、そんな彼女の主張を、秀明は一刀両断した。

「仮にも婚約者なら、連絡先位把握しておくものだ。演技だとしても頼む以上、礼儀ってものがあると思うがな。それじゃあ、諸々が決まったら連絡する」
 そう言いながら伝票を手に立ち上がった秀明を、美子は慌てて呼び止めた。

「え? あの、ここの支払いは!」
「何だ? 俺のする事に、何か文句でも?」
 そこでテーブルの横で足を止めた秀明に冷たく見下ろされた美子は、とても「呼びつけたのは私なので、支払いは私が持ちます」と言い出す勇気は無かった。

「……いえ、何でもありません」
「そうか」
 それきり美子の方を見ずに秀明は歩き出し、さっさと会計を済ませて歩き去ってしまった。それをぼんやりと眺めながら、美子は密かに悩む。

(どうして急に、あんなに機嫌が悪くなったのかしら……)
 しかし容易にその答えは出ず、次に美子は秀明から言われた内容について考えてみた。

(でも確かに……、婚約者を演じて貰う相手の連絡先を全く知らないって、ある意味問題だし、有り得ないかも……)
 そんな風に納得した美子は、少し悩んでから今後の方針を決めて帰宅した。

「ただいま」
「お帰りなさい、美子姉さん」
 家に帰るとすぐに、廊下で美野と出くわした美子は、丁度良かったと思いながら、早速彼女に申し出た。

「美野、後で江原さんの連絡先を教えてくれないかしら?」
 それを聞いて、その日の姉の外出先と一緒に居た人物を家族の中で唯一知っていた美野は、不思議そうな顔になる。

「それは構わないけど……、今日江原さんと会っていたんでしょう? 直接聞かなかったの?」
 もっともな問いに、美子は少し口ごもってから、気まずそうに言い返した。

「……うっかりして、聞き忘れたのよ」
 いつもの美子らしくない行動に美野は内心で首を捻ったものの、素直な性格の彼女は、それ以上食い下がったりはせずに了承した。

「分かったわ。後からメモに書いて、美子姉さんの机の上に置いておくから」
「お願いね」
 そして自室へと向かう美子の後ろ姿を見ながら、美野は嬉しそうに微笑む。

「そうか……、江原さんも頑張ってるのね。一歩も二歩も前進かな? 早く『お義兄さん』って呼べるといいな」
 そうして秀明の連絡先を書き取る為に、美野は早速上機嫌で自室へと戻った。

 ※※※

 スーツ姿の秀明が、ブリーフケース片手に東成大医学部付属病院の外来入口から中に入ると、総合案内に向かうまでに白い上下の制服を身に着けた医師が呼びかけてきた。
「先輩、こっちです」
 その声に振り返り、視線の先に軽く片手を上げた旧知の人物の顔を見付けた秀明は、彼にしては珍しく嬉しそうに笑った。

「直に会うのは久し振りだな、芳文」
 そう声をかけると、胸ポケットの位置に《葛西芳文》のネームプレートを付けた在学時代の後輩は、歩み寄って苦笑気味に挨拶をしてくる。

「はは……、研修医時代も配属直後も、何かと忙しくてご無沙汰していてすみません」
「その間、悪さをしないで職務に邁進してたって事だろう? 善良な患者の為には、それに越した事は無い」
「そうですね」
 そんな会話を交わしてから、男二人はエレベーターホールに向かって、並んで歩き出した。

「しかし今回は、お前に骨を折って貰って助かった」
「先輩がそんな風に素直に礼を言うなんて、気味が悪いですね。まだ初秋なのに、早々と雪が降りそうです」
「言ってろ。……それで感触は?」
 早々に首尾を尋ねてきた秀明に、すれ違う病院スタッフに会釈しながら、芳文が笑顔で答える。

「幾つかの細かい注文はありますが、だいたい先輩も納得できる所で折り合いを付けておきました」
 それを聞いた秀明は、満足そうに頷いた。

「本当に助かった。持つべきものは如才無い、使える後輩だな」
「ですが一応、事務長と総看護師長には筋を通しておかないと後々拙いので……。すみません、平日にお呼び立てして」
 申し訳無さそうに軽く頭を下げた芳文に、秀明は淡々と言い返した。

「お前が気にする事はない。俺が頭を下げる事で物事が円滑に進むなら、頭の一つや二つ位、いつでも下げてやるさ。それに平日じゃないと、お偉方が揃って無いだろう」
「はぁ……」
 そこで微妙に納得のいかない顔付きで相槌を打った芳文を、秀明が不思議そうに見やった。

「何だ? 変な顔をして」
 するとエレベーター前に到達した為、足を止めて上りボタンを押した芳文が、背後を振り返ってから慎重に口を開いた。

「……変わりましたね、先輩」
「俺は昔から、女性には寛容なつもりだが?」
 平然と反論した秀明に、芳文は軽く溜め息を吐いてから首を振り、疲れた様に言い出した。

「それは気に入った女性対してのみ、ですよね。それに寛容である事と、献身的に振る舞う事は、全く異なると思うんですが。ところで先輩は、マザコンなんですか?」
「は? いきなり何を言い出すんだ、お前は?」
 唐突な話題の転換に、秀明は本気で困惑したが、そこでちょうどエレベーターがやって来た為、開いた扉の中に秀明を促しながら、芳文も乗り込んだ。そして中に二人だけなのを幸い、遠慮無く話を続ける。

「『入院患者の前で、彼女の娘の婚約者のふりをする』という話の割には、肝心の相手の話は一切出ませんでしたし。ひょっとしたら相手の女性じゃなくて、その母親の患者の方に惚れているのかと」
「そうだと言ったら?」
 その疑問に、秀明がくすりと笑いながら応じると、芳文はうんざりした様な表情になった。

「なんか先輩だったら、有りな気がしてきました。これ以上考えると怖い考えに行き着きそうなので、止めておきます」
「意気地が無いな。とことん追及しろ」
「無茶を言わないで下さい」
 嫌そうに言い返した芳文に秀明が楽しそうに笑いかけていると、目的階に到着して扉が開いた。その向こうに足を踏み出した時は既に両者とも真顔になっており、無言のまま廊下を進む。

「あそこの相談室になります」
 軽く指差しながら案内した芳文に、秀明は頷いて応えた。
「分かった。二十分以内に済ませる」
「え? これから何か用事でも?」
 不思議そうに尋ねた芳文だったが、秀明はそれに事も無げに答えた。

「商談の合間に、半ば強引に時間を作ったからな。三十分以上かかると、移動時間を考えると少々拙い」
 それを聞いた芳文は、思わず足を止めて驚く。

「マジですか!? 先輩はてっきり休みを取って、こちらに出向いたのかと思っていました」
「色々と忙しくてな」
 平然と言われてしまった芳文は、無言で額を押さえてから真剣な顔で申し出た。

「この際、全面的に協力しますよ。終末医療の分野には精神科も参加してますから、こちらの病棟で懇意にしているスタッフは結構居ますし」
「頼りにしている」
 本心からそう思っているらしい微笑を目にした芳文は(本当にらしくないよな)と思いつつも、余計な事は口にせずに再び歩き出して秀明を案内し、相談室のドアをノックしてから「失礼します」と声をかけつつ、ドアを開けた。
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