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第19話 男女の機微
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「ああ、美子。今日の午後、江原君が来るからそのつもりでな」
その週の土曜日の朝、唐突に父親から言われた内容に、美子は瞬時に顔を引き攣らせた。
「え? あの人、何をしに来るんですか?」
「私と碁を打ちにだ」
「……いつの間に、そんな仲になったの?」
思わず脱力しながら問い返した娘に、昌典が笑いを堪える風情で答える。
「この前、社内で偶々顔を合わせた時に、彼が『将棋は嗜むが、囲碁は経験が無い』と言っていてな。私が『囲碁は自信があるが、将棋はからっきしだ』と言ったら『教えて下さい』と言われたんだ。『今度出向くまでに本を読んで基本を覚えておきます』とは言っていたが、さて、どれ位物にしているやら」
そう言って面白そうに笑いつつ書斎に向かった父を見送りながら、美子は必死で自分自身に言い聞かせた。
(あいつ……、どうあっても家に乗り込んでくる気ね? でもこちらがまともに相手をしなければ、良いだけの話なんだから。適当に笑って流せば良いのよ、流せば)
そんな風に心掛けていると、昌典の予告通り、午後になって秀明が藤宮家を訪ねてきた。
「こんにちは、美子さん。お邪魔します」
「お久しぶりです、江原さん。どうぞお上がり下さい」
嘘臭い笑みで挨拶してきた秀明を、社交辞令以外の何物でもない笑みで美子が出迎える。
「相変わらず、お元気そうで何よりです」
「江原さんも、あちこち駆けずり回っていると聞き及んでおりますが、お元気そうで何よりですね」
「健康と体力には自信があるもので。しかし私の消息を尋ねてくれたんですか? 嬉しいですね」
廊下を歩きながらそんな事を言ってきた彼に、美子は思わず小さく舌打ちした。
「……父を初め家族が色々と、聞きもしないのに私の耳に入れてくれるもので」
「そうですか」
それ以降は薄笑いだけで無言になった彼を連れて、美子は廊下を進んだ。そしてとある部屋の襖を開けながら、中にいる父親に声をかける。
「お父さん、江原さんがいらっしゃったわ」
そして部屋に入った畳に正座した秀明が、神妙に口上を述べた。
「社長。お休みの日にお時間を頂きまして」
しかし昌典は、ニヤリと笑いながら言い返す。
「休日なら、肩書は必要ないんじゃないか? 江原課長」
「そうですね。お邪魔します、藤宮さん」
「ようこそ、江原君」
そんな打ち解けた会話を交わしてから、秀明は持参した大きな紙袋から、きちんと包装された包みを取り出し、昌典に向けて押しやった。
「こちらはつまらない物ですが、どうぞお納め下さい」
「やあ、これはどうも」
「それから、お嬢さん達にもお土産を持参していまして。これが美恵さん、これが美実さん、これが美野さん、これが美幸さんの分になります」
大きさも形状も異なる四つの包みを、目の前に次々と並べられた昌典は若干不思議そうな顔になったが、余計な事は言わずに美子に顔を向けた。
「そうですか。それなら美子、早速美恵達を呼びなさ」
「うわぁい! ありがとう、江原さん。開けて良い?」
「美幸! 何飛び出してるのよ!? それに貰ったその場で、開ける様な真似は止めなさい!! 失礼でしょうが!」
「これに関しては、美野の意見に一票かな~?」
「ところで江原さん。姉さんの分が無いみたいだけど、ひょっとして嫌味? わざと忘れた?」
昌典が言い終わらないうちに、襖の向こうで様子を窺っていたらしい四人のうち、美幸が勢い良く襖を開けて乱入してきた。他の三人もそれぞれ異なる表情で入って来るに至って、昌典は苦笑いし、美子はもう小言を言うのを諦めて、深々と溜め息を吐く。
そんな光景を面白そうに見やった秀明は、皮肉っぽい美恵の問いに、笑顔で答えた。
「まさか。ちゃんと持って来ているよ」
そう言いながら再び紙袋の中に手を差し入れ、中身を取り出した秀明は、それを手にして美子の方に膝を進めた。
「それでは美子さんの分は……、これになります」
「これって……」
美子に向かって軽く畳の上を滑らせた物は、海外の物と思われるDVDケース一つだけで、藤宮家の面々は意表を衝かれた。しかしそのタイトルを読み取った美子は、大きく目を見開く。
(あのドイツ語……、え? 十年前にクラウディオ・ジンガーが引退するのを記念して、所属クラブチームが特別に限定制作した特別編集DVD! あの仕事師クラウディオの死闘激闘、名プレーが収められて、コアなファンが頑として手放さない幻のDVDがここに!? 嘘!? 夢じゃないかしら!!)
現役時代に名MFとして名を馳せた彼のプレーに惚れ込み、時折放映される衛星放送の解説を直に聞きたい一心でドイツ語まで習得してしまった美子にとっては、以前から喉から手が出るほど欲していた物が目の前に出現した事で、一瞬現状を忘れた。しかし穏やかな秀明の声で、すぐに我に返る。
「幸い、ドイツと日本はリージョン・コードが同じなので、再生に支障はないかと思いますが、万が一お手持ちのDVDプレイヤーで再生が不可能なら、対応した物も併せてプレゼントします」
(夢じゃなくて、紛れもない現実だわ)
したり顔で言葉を重ねた秀明を見て、美子は項垂れたいのを必死に堪えた。そして何とか声を絞り出す。
「いえ、パソコンなら再生に問題はないかと思いますが」
「ああ、その手もありましたね」
(この男……、どこまで狡猾なのよ! 中身が見えない状態だったら、遠慮なく突っ返したのに。それを見越して他の物とは違って、これだけわざと剥き出しのままなんて……)
不敵に微笑んでいる秀明を見て、美子は膝の上に乗せた手を握り締めながら、内心で激しく葛藤した。そんな彼女の心情が手に取る様に分かっていた秀明は、飄々とした口ぶりで再びDVDに手を伸ばす。
「どうかしましたか? 美子さん。お気に召さないなら、これは止めて、何か別の物をお持ちしますので」
「あのっ!!」
「はい、何か?」
DVDに手をかけて引き寄せようとした秀明の手首を、美子は反射的に掴んで引き止めた。そしてかなり逡巡する素振りを見せたものの、全面的に降参する。
「…………せっかくですので、ありがたく頂戴致します」
「そうですか。どうぞ、お納め下さい」
そして勝ち誇った表情の秀明がDVDから手を離した為、美子も彼の手首から手を離した。
(勝ったな)
(負けたっ……)
明らかに対照的な二人の表情を見て、この一部始終を目の当たりにしていた昌典は口元を押さえて必死に笑いを堪えた。そんな中美野と美幸が、無邪気に小声で囁き合う。
「少しハラハラしたけど、美子姉さんが受け取ってくれて良かったわ」
「本当。江原さん、良かったね」
しかしその感想に、上の二人が水を差した。
「そうでもないんじゃないの?」
「そうよねぇ……」
「え?」
「どうして? 美子姉さんが受け取ってくれて、江原さん、凄く嬉しそうだけど?」
途端に怪訝な顔になった下二人に、美恵と美実は顔を見合わせて苦笑する。
「まだまだ男女の機微ってものが、分かってないわね」
「ま、二人ともまだお子様だから、仕方が無いか」
「お子様って……。私、もう高校生なんだけど?」
「中学生は、子供じゃないでしょ!?」
互いに声を潜めてのやり取りではあったが、通常では十分聞き取れる至近距離であったにも係わらず、敗北感にまみれていた美子の耳には全く届いていなかった。
その日の夜。例のDVDは淳の伝手で手に入れた物だった事もあり、秀明は手土産の酒持参で彼の部屋に押し掛けた。そこで美実からの電話を受けた彼は、美子の様子を伝えて来たのだろうと見当を付け、せっかくだから調達に一役買った親友にも聞かせてやろうと、スマホのスピーカー機能を起動させた。
「それでね? 江原さんが帰った後、美子姉さんったらPCにかぶり付きでDVDを見てるのよ」
「楽しんでくれているみたいで、嬉しいよ」
一通り説明を聞いて、男二人は満足げにグラス傾けたが、穏やかな時間はここまでだった。
「もう美子姉さんったら、常には無い位うっとりしちゃて。『凄い、今のプレー。もう神業としか思えない。ええ、そうよ、クラウディオ様は神そのものだわ……』とか寝言を言いながら凝視してるのよ。もう端から見たら笑えるったら!」
そのセリフに秀明は手の動きを止めて、僅かに眉を寄せた。しかし口調はいつもの調子を貫く。
「へえ? そんなに思い入れのある選手だったんだ」
「過去形じゃなくて、現在進行形。引退後はあちこちのナショナルチームのコーチとか監督を歴任してるから、その人が所属してるチームがその時点での美子姉さんの贔屓チームなのよね。知らなかったと思うけど」
「ああ……、知らなかったな」
「……おい、秀明。グラスを握りつぶすなよ?」
何やら不穏な気配を醸し出してきた友人の手に、妙に力が入ってきた様に感じた淳は、慌てて警告の言葉を囁いた。しかしそんな声は届かなかったのか、スマホからは美実の楽しげな声が引き続き聞こえてくる。
「ワールドカップの時期なんか、もう大変。そのスケジュールで美子姉さんの生活パターンが決まるし。日本と韓国で共催した時は、忘れたけどどこかの監督をやってたから、高校をさぼって追っかけやったわよ。あの普段の堅物ぶりからは、想像できないでしょう? あれが無ければ皆勤賞だったのにね」
「普段の彼女からは、想像できないな」
「因みに、今日はPCの前から離れないから、美恵姉さんと私で夕飯を作ったのよ。だけどご飯ができたって呼びに行っても、『ああ、そう』だけで動かないし。重症だわ。明日には回復するかなぁ……。確かに情報を流したのは私だけど、まさか本当に探し出して持って来るとは恐れ入ったわ。姉さんへの愛? それともつまらない意地?」
「そこは迷わず愛だと言ってくれないか?」
茶化す様に尋ねてきた美実に、幾分秀明は調子を取り戻しながら皮肉っぽく言い返した。しかし彼女は容赦なく断言する。
「今の所美子姉さんの愛は、迷わずクラウディオ様一直線だけどね!! じゃあそういう事で、以上、報告終わり。それじゃあね! あははははっ!! ホント、笑えるっ!!」
「………………」
言うだけ言って、最後は爆笑で通話を終わらせた恋人の仕打ちに、淳はがっくりと項垂れた。
(おいおい……、勘弁してくれ美実。こっちの状況が分かっていなかったとは言え、そういう報告は俺が居ない時にしてくれ、頼むから。さっきまでこいつ滅茶苦茶機嫌良かったのに、豹変しちまったぞ)
通話が終了した途端、面白く無さそうな表情で黙々とグラスを傾け始めた秀明を見て、淳は溜め息を吐いてから声をかけた。
「残念だったな、秀明」
「何がだ?」
「要するに、彼女に勝って、どこぞの一線退いた中年親父に負けたって事だろ?」
そんな的確な指摘をしてきた腐れ縁の悪友を、秀明が一睨みする。
「……五月蠅い」
「へいへい」
(本当に、こいつがこんな顔をするのは、彼女に関する事だけだものな)
困った奴だとは思いながらも、最近では得体の知れなさが幾分鳴りを潜め、時折妙に人間臭い表情をする様になってきた秀明の変化を、淳は微笑ましく見守る事にした。
その三日後。深美の見舞いから帰る途中の美子は、エレベーターで一階まで降りて広いロビーを横切りながら、緩みがちの自分の頬を、軽く手のひらで叩いていた。
(うう、顔が緩む……。顔を見せるなり、お母さんにも『何か良い事でもあったの?』って聞かれちゃうし。あんまりニヤニヤしてると、周りから変だと思われちゃうわ。あのDVDを貰ってから、もう三日も経ってるんだもの。平常心、平常心……。あら?)
そんな風に自分自身に言い聞かせていた美子だったが、自分とは逆に、正面玄関から入って来る人物を見て、驚いた表情になった。
(お父さん? 平日のこんな時間に、どうしてここに? 今日、見舞いに行くとか言ってなかったけど、予定外の纏まった空き時間ができて、お母さんの顔を見に来たのかしら?)
そんな予想をしながら、美子はまっすぐ昌典に向かって歩いて行った。
「お父さん、こんな時間にどうしたの?」
何気なく声をかけたつもりが、昌典は何かに気を取られていたのか、至近距離まで美子に気が付かなかったらしく、僅かに動揺した。
「……あ、ああ、美子。帰る所か?」
「ええ。お父さんはお母さんの顔を見に来たの?」
「そうじゃなくて……、桜井先生と話があってな」
「桜井先生と?」
常には見られない父の態度と、唐突に出てきた母の主治医の名前に、美子は怪訝な顔になったが、昌典は何やら真顔で考え込んでから彼女に告げた。
「そうだな……。私一人で話を伺うつもりだったが、お前にも同席して貰うか。何か急ぎの用事でもあるか?」
「いいえ。後は家に帰るだけだから……」
「それでは一緒に来なさい」
「……はい」
そこで幾分硬い表情の父に続いて、美子は嫌な予感を覚えながら、言葉少なに今来た方に向かって、再び歩き出した。
その週の土曜日の朝、唐突に父親から言われた内容に、美子は瞬時に顔を引き攣らせた。
「え? あの人、何をしに来るんですか?」
「私と碁を打ちにだ」
「……いつの間に、そんな仲になったの?」
思わず脱力しながら問い返した娘に、昌典が笑いを堪える風情で答える。
「この前、社内で偶々顔を合わせた時に、彼が『将棋は嗜むが、囲碁は経験が無い』と言っていてな。私が『囲碁は自信があるが、将棋はからっきしだ』と言ったら『教えて下さい』と言われたんだ。『今度出向くまでに本を読んで基本を覚えておきます』とは言っていたが、さて、どれ位物にしているやら」
そう言って面白そうに笑いつつ書斎に向かった父を見送りながら、美子は必死で自分自身に言い聞かせた。
(あいつ……、どうあっても家に乗り込んでくる気ね? でもこちらがまともに相手をしなければ、良いだけの話なんだから。適当に笑って流せば良いのよ、流せば)
そんな風に心掛けていると、昌典の予告通り、午後になって秀明が藤宮家を訪ねてきた。
「こんにちは、美子さん。お邪魔します」
「お久しぶりです、江原さん。どうぞお上がり下さい」
嘘臭い笑みで挨拶してきた秀明を、社交辞令以外の何物でもない笑みで美子が出迎える。
「相変わらず、お元気そうで何よりです」
「江原さんも、あちこち駆けずり回っていると聞き及んでおりますが、お元気そうで何よりですね」
「健康と体力には自信があるもので。しかし私の消息を尋ねてくれたんですか? 嬉しいですね」
廊下を歩きながらそんな事を言ってきた彼に、美子は思わず小さく舌打ちした。
「……父を初め家族が色々と、聞きもしないのに私の耳に入れてくれるもので」
「そうですか」
それ以降は薄笑いだけで無言になった彼を連れて、美子は廊下を進んだ。そしてとある部屋の襖を開けながら、中にいる父親に声をかける。
「お父さん、江原さんがいらっしゃったわ」
そして部屋に入った畳に正座した秀明が、神妙に口上を述べた。
「社長。お休みの日にお時間を頂きまして」
しかし昌典は、ニヤリと笑いながら言い返す。
「休日なら、肩書は必要ないんじゃないか? 江原課長」
「そうですね。お邪魔します、藤宮さん」
「ようこそ、江原君」
そんな打ち解けた会話を交わしてから、秀明は持参した大きな紙袋から、きちんと包装された包みを取り出し、昌典に向けて押しやった。
「こちらはつまらない物ですが、どうぞお納め下さい」
「やあ、これはどうも」
「それから、お嬢さん達にもお土産を持参していまして。これが美恵さん、これが美実さん、これが美野さん、これが美幸さんの分になります」
大きさも形状も異なる四つの包みを、目の前に次々と並べられた昌典は若干不思議そうな顔になったが、余計な事は言わずに美子に顔を向けた。
「そうですか。それなら美子、早速美恵達を呼びなさ」
「うわぁい! ありがとう、江原さん。開けて良い?」
「美幸! 何飛び出してるのよ!? それに貰ったその場で、開ける様な真似は止めなさい!! 失礼でしょうが!」
「これに関しては、美野の意見に一票かな~?」
「ところで江原さん。姉さんの分が無いみたいだけど、ひょっとして嫌味? わざと忘れた?」
昌典が言い終わらないうちに、襖の向こうで様子を窺っていたらしい四人のうち、美幸が勢い良く襖を開けて乱入してきた。他の三人もそれぞれ異なる表情で入って来るに至って、昌典は苦笑いし、美子はもう小言を言うのを諦めて、深々と溜め息を吐く。
そんな光景を面白そうに見やった秀明は、皮肉っぽい美恵の問いに、笑顔で答えた。
「まさか。ちゃんと持って来ているよ」
そう言いながら再び紙袋の中に手を差し入れ、中身を取り出した秀明は、それを手にして美子の方に膝を進めた。
「それでは美子さんの分は……、これになります」
「これって……」
美子に向かって軽く畳の上を滑らせた物は、海外の物と思われるDVDケース一つだけで、藤宮家の面々は意表を衝かれた。しかしそのタイトルを読み取った美子は、大きく目を見開く。
(あのドイツ語……、え? 十年前にクラウディオ・ジンガーが引退するのを記念して、所属クラブチームが特別に限定制作した特別編集DVD! あの仕事師クラウディオの死闘激闘、名プレーが収められて、コアなファンが頑として手放さない幻のDVDがここに!? 嘘!? 夢じゃないかしら!!)
現役時代に名MFとして名を馳せた彼のプレーに惚れ込み、時折放映される衛星放送の解説を直に聞きたい一心でドイツ語まで習得してしまった美子にとっては、以前から喉から手が出るほど欲していた物が目の前に出現した事で、一瞬現状を忘れた。しかし穏やかな秀明の声で、すぐに我に返る。
「幸い、ドイツと日本はリージョン・コードが同じなので、再生に支障はないかと思いますが、万が一お手持ちのDVDプレイヤーで再生が不可能なら、対応した物も併せてプレゼントします」
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したり顔で言葉を重ねた秀明を見て、美子は項垂れたいのを必死に堪えた。そして何とか声を絞り出す。
「いえ、パソコンなら再生に問題はないかと思いますが」
「ああ、その手もありましたね」
(この男……、どこまで狡猾なのよ! 中身が見えない状態だったら、遠慮なく突っ返したのに。それを見越して他の物とは違って、これだけわざと剥き出しのままなんて……)
不敵に微笑んでいる秀明を見て、美子は膝の上に乗せた手を握り締めながら、内心で激しく葛藤した。そんな彼女の心情が手に取る様に分かっていた秀明は、飄々とした口ぶりで再びDVDに手を伸ばす。
「どうかしましたか? 美子さん。お気に召さないなら、これは止めて、何か別の物をお持ちしますので」
「あのっ!!」
「はい、何か?」
DVDに手をかけて引き寄せようとした秀明の手首を、美子は反射的に掴んで引き止めた。そしてかなり逡巡する素振りを見せたものの、全面的に降参する。
「…………せっかくですので、ありがたく頂戴致します」
「そうですか。どうぞ、お納め下さい」
そして勝ち誇った表情の秀明がDVDから手を離した為、美子も彼の手首から手を離した。
(勝ったな)
(負けたっ……)
明らかに対照的な二人の表情を見て、この一部始終を目の当たりにしていた昌典は口元を押さえて必死に笑いを堪えた。そんな中美野と美幸が、無邪気に小声で囁き合う。
「少しハラハラしたけど、美子姉さんが受け取ってくれて良かったわ」
「本当。江原さん、良かったね」
しかしその感想に、上の二人が水を差した。
「そうでもないんじゃないの?」
「そうよねぇ……」
「え?」
「どうして? 美子姉さんが受け取ってくれて、江原さん、凄く嬉しそうだけど?」
途端に怪訝な顔になった下二人に、美恵と美実は顔を見合わせて苦笑する。
「まだまだ男女の機微ってものが、分かってないわね」
「ま、二人ともまだお子様だから、仕方が無いか」
「お子様って……。私、もう高校生なんだけど?」
「中学生は、子供じゃないでしょ!?」
互いに声を潜めてのやり取りではあったが、通常では十分聞き取れる至近距離であったにも係わらず、敗北感にまみれていた美子の耳には全く届いていなかった。
その日の夜。例のDVDは淳の伝手で手に入れた物だった事もあり、秀明は手土産の酒持参で彼の部屋に押し掛けた。そこで美実からの電話を受けた彼は、美子の様子を伝えて来たのだろうと見当を付け、せっかくだから調達に一役買った親友にも聞かせてやろうと、スマホのスピーカー機能を起動させた。
「それでね? 江原さんが帰った後、美子姉さんったらPCにかぶり付きでDVDを見てるのよ」
「楽しんでくれているみたいで、嬉しいよ」
一通り説明を聞いて、男二人は満足げにグラス傾けたが、穏やかな時間はここまでだった。
「もう美子姉さんったら、常には無い位うっとりしちゃて。『凄い、今のプレー。もう神業としか思えない。ええ、そうよ、クラウディオ様は神そのものだわ……』とか寝言を言いながら凝視してるのよ。もう端から見たら笑えるったら!」
そのセリフに秀明は手の動きを止めて、僅かに眉を寄せた。しかし口調はいつもの調子を貫く。
「へえ? そんなに思い入れのある選手だったんだ」
「過去形じゃなくて、現在進行形。引退後はあちこちのナショナルチームのコーチとか監督を歴任してるから、その人が所属してるチームがその時点での美子姉さんの贔屓チームなのよね。知らなかったと思うけど」
「ああ……、知らなかったな」
「……おい、秀明。グラスを握りつぶすなよ?」
何やら不穏な気配を醸し出してきた友人の手に、妙に力が入ってきた様に感じた淳は、慌てて警告の言葉を囁いた。しかしそんな声は届かなかったのか、スマホからは美実の楽しげな声が引き続き聞こえてくる。
「ワールドカップの時期なんか、もう大変。そのスケジュールで美子姉さんの生活パターンが決まるし。日本と韓国で共催した時は、忘れたけどどこかの監督をやってたから、高校をさぼって追っかけやったわよ。あの普段の堅物ぶりからは、想像できないでしょう? あれが無ければ皆勤賞だったのにね」
「普段の彼女からは、想像できないな」
「因みに、今日はPCの前から離れないから、美恵姉さんと私で夕飯を作ったのよ。だけどご飯ができたって呼びに行っても、『ああ、そう』だけで動かないし。重症だわ。明日には回復するかなぁ……。確かに情報を流したのは私だけど、まさか本当に探し出して持って来るとは恐れ入ったわ。姉さんへの愛? それともつまらない意地?」
「そこは迷わず愛だと言ってくれないか?」
茶化す様に尋ねてきた美実に、幾分秀明は調子を取り戻しながら皮肉っぽく言い返した。しかし彼女は容赦なく断言する。
「今の所美子姉さんの愛は、迷わずクラウディオ様一直線だけどね!! じゃあそういう事で、以上、報告終わり。それじゃあね! あははははっ!! ホント、笑えるっ!!」
「………………」
言うだけ言って、最後は爆笑で通話を終わらせた恋人の仕打ちに、淳はがっくりと項垂れた。
(おいおい……、勘弁してくれ美実。こっちの状況が分かっていなかったとは言え、そういう報告は俺が居ない時にしてくれ、頼むから。さっきまでこいつ滅茶苦茶機嫌良かったのに、豹変しちまったぞ)
通話が終了した途端、面白く無さそうな表情で黙々とグラスを傾け始めた秀明を見て、淳は溜め息を吐いてから声をかけた。
「残念だったな、秀明」
「何がだ?」
「要するに、彼女に勝って、どこぞの一線退いた中年親父に負けたって事だろ?」
そんな的確な指摘をしてきた腐れ縁の悪友を、秀明が一睨みする。
「……五月蠅い」
「へいへい」
(本当に、こいつがこんな顔をするのは、彼女に関する事だけだものな)
困った奴だとは思いながらも、最近では得体の知れなさが幾分鳴りを潜め、時折妙に人間臭い表情をする様になってきた秀明の変化を、淳は微笑ましく見守る事にした。
その三日後。深美の見舞いから帰る途中の美子は、エレベーターで一階まで降りて広いロビーを横切りながら、緩みがちの自分の頬を、軽く手のひらで叩いていた。
(うう、顔が緩む……。顔を見せるなり、お母さんにも『何か良い事でもあったの?』って聞かれちゃうし。あんまりニヤニヤしてると、周りから変だと思われちゃうわ。あのDVDを貰ってから、もう三日も経ってるんだもの。平常心、平常心……。あら?)
そんな風に自分自身に言い聞かせていた美子だったが、自分とは逆に、正面玄関から入って来る人物を見て、驚いた表情になった。
(お父さん? 平日のこんな時間に、どうしてここに? 今日、見舞いに行くとか言ってなかったけど、予定外の纏まった空き時間ができて、お母さんの顔を見に来たのかしら?)
そんな予想をしながら、美子はまっすぐ昌典に向かって歩いて行った。
「お父さん、こんな時間にどうしたの?」
何気なく声をかけたつもりが、昌典は何かに気を取られていたのか、至近距離まで美子に気が付かなかったらしく、僅かに動揺した。
「……あ、ああ、美子。帰る所か?」
「ええ。お父さんはお母さんの顔を見に来たの?」
「そうじゃなくて……、桜井先生と話があってな」
「桜井先生と?」
常には見られない父の態度と、唐突に出てきた母の主治医の名前に、美子は怪訝な顔になったが、昌典は何やら真顔で考え込んでから彼女に告げた。
「そうだな……。私一人で話を伺うつもりだったが、お前にも同席して貰うか。何か急ぎの用事でもあるか?」
「いいえ。後は家に帰るだけだから……」
「それでは一緒に来なさい」
「……はい」
そこで幾分硬い表情の父に続いて、美子は嫌な予感を覚えながら、言葉少なに今来た方に向かって、再び歩き出した。
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