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第11話 美子の反撃
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母の見舞いに行った、翌々日の火曜日。いつも通り日舞教室に出向いて、稽古の準備を整えた美子だったが、名簿を見ながら出席を確認していた野口が、傍らの美子を振り返った。
「あら? 加藤さんは着替え中かしら?」
「欠席の連絡はありませんが、まだいらしていません」
端的に美子が報告した途端、野口が苦々しい顔付きになる。
「そう……。本当に困ったものね。それでは稽古を始めましょうか」
「宜しくお願いします」
野口の声に、生徒達が一糸乱れぬ礼をした所で、稽古場の戸を乱暴に開けて、望恵が乱入してきた。
「遅くなって申し訳ありません! あ、藤宮さん! あの後、大丈夫だったんですか!?」
「加藤さん? 大丈夫とは、どういう意味ですか?」
あまりにも無遠慮すぎる振る舞いに、野口は叱責の意味合いを込めて低い声で尋ねたが、生憎当人には伝わらなかったらしく、勝ち誇った表情で一気にまくし立てた。
「だってこの前のお稽古の帰り道、駅前までご一緒しましたけど、別れてから振り返ったら、藤宮さんが複数の男性に大型のバンに無理やり乗せられて、連れ去られていたじゃありませんか! あの後どうなったのか、私物凄く心配してたんです!!」
「え? それって……」
「どういう事?」
望恵の叫びを聞いて生徒達がざわざわと囁き合う中、美子は呆れ果てた顔つきで、冷静に考えを巡らせた。
(酷いにも程がある大根女ね。とても心配してるって顔付きじゃ無いわよ? それに本当にあの後、状況を確認してなかったのね。迂闊すぎるわ)
そして美子は溜め息を吐きたいのをなんとか堪えながら、当惑した顔を作りつつ問い返した。
「加藤さん、何か勘違いしていないかしら? 私、あなたと別れた後、そんな物騒な事に巻き込まれてはいないけど?」
「そんな筈ありませんよ! ……ああ、失礼しました。そんな不名誉な噂が立つのは、藤宮さんにとっては迷惑ですよね。配慮が欠けていて申し訳ありません」
そこでニヤリと嫌らしく笑った望恵だったが、美子はそれを一刀両断する。
「迷惑も何も……、そんな根も葉もない事を言われても、笑うしかありません。誰か他の方と見間違ったんでしょう。視力の矯正をお勧めします」
「私の視力は両方とも1.5よ! どこまで惚ける気!?」
ここで稽古に遅刻してきた上、騒ぎ立てている望恵を窘めようと、野口が会話に割り込んできた。
「加藤さん、いつまでも訳の分からない事を喚き散らすのはお止めなさい」
「私は悪くありません! この女が人を馬鹿にして」
「この前のお稽古の日なら、藤宮さんは駅まで行って忘れ物を思い出して、すぐここに引き返して来ましたよ?」
「え?」
それから予想外の台詞を聞いて目を瞬かせた望恵を半ば放置して、美子と野口は和やかに、その時の事を話し出した。
「あの時は本当に失礼しました。姉妹五人に母がお揃いで刺繍してくれた思い出のハンカチを置き忘れたと思って、更衣室を探しまくってしまって」
「とうとう見つからなくて、念の為に藤宮さんが自宅に電話してみたら、妹さんが置き忘れていたと教えてくれたのよね。あなたがそんなミスをするなんて珍しい事」
そう言ってころころと笑った野口に、美子は苦笑いしながら軽く頭を下げた。
「本当にお恥ずかしい限りです。先生にも探すのを手伝って頂いて、貴重な休憩時間を台無しにして申し訳ありませんでした」
「良いのよ。残りの休憩時間で、秋の演目について突っ込んだ話ができたし。そのまま夜の稽古も手伝わせてしまって、却って悪かったわ」
「いえ、新規の方もいらっしゃいましたし、普段はお仕事をされている方と顔を合わせる機会があまり無いので、色々興味深いお話が聞けて楽しかったです」
それを聞いた野口は、思い出した様に言い出した。
「そう言えば、夜の教室の人達と意気投合して、帰りがけに皆で食事に行ったのよね?」
「はい。その次の土曜日、その時に知り合った高梨さんと一緒に、和装小物を買いに行きました。他の人の意見が欲しかったそうで、適切なアドバイスができたかどうかは分かりませんが」
「あら、藤宮さんの見立てなら間違いないわ」
そして朗らかに笑い合ってから二人は笑顔を消し、この間呆然としていた望恵に向き直り、厳しい口調で糾弾した。
「それで加藤さん。あなたが見たのは、どこのどなたが怪しげな男達に連れ去られた場面なのかは分かりませんが、先程声高に主張したところを見ると、そんな明らかな犯罪現場を目撃していながら、通報していらっしゃらないのよね?」
「え? それは……、だって」
美子の指摘に望恵が口ごもると、野口が冷静に相槌を打った。
「そうよね。通報していれば、藤宮さんのお宅に警察から確認がいく筈だから、それで間違いだと分かるし。当然通報者であるあなたの所にも、その旨の連絡は入る筈。すなわちあなたが今日ここで、そんな見当違いな事を喚きたてる筈が無いわ」
「あの、でも、それは…………」
まさか自分が誘拐の手引きをしたからだ、などとは間違っても言えない望恵は、どう言い逃れするべきか咄嗟に判断できずにいると、この間のやり取りを見ていた生徒達が、顔を突き合わせて囁き始めた。
「何? あの人、本当に女の人が連れ去られるのを、傍観していたわけ?」
「通報もしないなんて、それって人としてどうなの?」
「ひょっとして藤宮さんと勘違いしたから、わざと通報しなかったとか?」
「ありえる。だってこれまで、藤宮さんに対する見当違いの文句とか悪口とか、散々言ってたもの」
「うわ、性格悪い。って言うか怖い。絶対お近づきになりたくないわ」
「何なの? これまで散々藤宮さんに迷惑をかけておきながら、恩を仇で返すってこの事よね」
その場全員から冷たい視線を浴び、さすがにこれ以上話を続ける真似はできなかった望恵は、小さく歯軋りをしてから僅かに頭を下げた。
「その……、申し訳ありません。先程口にした内容は、私の見間違いでした」
その苦し紛れの弁解を聞いた二人は、揃って呆れ顔になる。
「見間違い? 先程あれほど自信満々に、主張していたのにですか?」
「随分物騒な見間違いですね。それとも夜に読みふけった推理小説の内容と現実が、白昼混同したとかですか? お父様の加藤正俊氏は国会議員でもあられる事ですし、そのお名前に傷が付く事は慎んだ方が宜しいでしょうね」
自然に野口の口調が厳しい物になったが、周囲から向けられる視線も同様だった。
「うわ、現実とフィクションの区別がついてないの?」
「どこまで頭が悪いのよ」
「親が国会議員なの? あんな娘なら、親もどうしようも無さそうね」
野口が軽く皮肉を言うと再び生徒達も囁き合い、望恵は怒りを露わにして睨んだ。しかしそんな物を野口は全く気に留めず、手を叩きながら生徒達に呼びかける。
「さあ、つまらない事で時間を潰してしまいましたね。お稽古を始めましょう。加藤さんはすぐに着替えて来て下さい。こちらに来てひと月以上経過していますし、一人で着付け位は出来るようになりましたよね?」
「……っ!!」
野口から明らかに侮蔑的な眼差しを向けられた望恵は、憤怒の形相で無言で稽古場から走り去った。そして彼女が開け放ったままの扉を、一番近くの者が閉めてから稽古が開始されたが、三十分を経過しても望恵が戻って来ない為、野口が指示を出す。
「中根さん、加藤さんの様子を見て来て頂戴」
「分かりました」
しかし言い付けられた生徒は、すぐに当惑顔で戻って来た。
「先生。更衣室に誰も居ないんですが……」
「ありがとう。稽古に戻って頂戴」
忌々しげな表情で応じた野口に、美子は控え目に声をかけてみた。
「先生、どうしましょうか」
「どうもこうも……。もう来ないでしょうけど、今月分までの月謝はきっちり請求するわ」
「当然の処置ですね」
迷い無く断言した野口に、美子も同意して頷いた。そして野口の予想通り、その日を境に望恵がその教室に姿を現す事は無かった。
「あら? 加藤さんは着替え中かしら?」
「欠席の連絡はありませんが、まだいらしていません」
端的に美子が報告した途端、野口が苦々しい顔付きになる。
「そう……。本当に困ったものね。それでは稽古を始めましょうか」
「宜しくお願いします」
野口の声に、生徒達が一糸乱れぬ礼をした所で、稽古場の戸を乱暴に開けて、望恵が乱入してきた。
「遅くなって申し訳ありません! あ、藤宮さん! あの後、大丈夫だったんですか!?」
「加藤さん? 大丈夫とは、どういう意味ですか?」
あまりにも無遠慮すぎる振る舞いに、野口は叱責の意味合いを込めて低い声で尋ねたが、生憎当人には伝わらなかったらしく、勝ち誇った表情で一気にまくし立てた。
「だってこの前のお稽古の帰り道、駅前までご一緒しましたけど、別れてから振り返ったら、藤宮さんが複数の男性に大型のバンに無理やり乗せられて、連れ去られていたじゃありませんか! あの後どうなったのか、私物凄く心配してたんです!!」
「え? それって……」
「どういう事?」
望恵の叫びを聞いて生徒達がざわざわと囁き合う中、美子は呆れ果てた顔つきで、冷静に考えを巡らせた。
(酷いにも程がある大根女ね。とても心配してるって顔付きじゃ無いわよ? それに本当にあの後、状況を確認してなかったのね。迂闊すぎるわ)
そして美子は溜め息を吐きたいのをなんとか堪えながら、当惑した顔を作りつつ問い返した。
「加藤さん、何か勘違いしていないかしら? 私、あなたと別れた後、そんな物騒な事に巻き込まれてはいないけど?」
「そんな筈ありませんよ! ……ああ、失礼しました。そんな不名誉な噂が立つのは、藤宮さんにとっては迷惑ですよね。配慮が欠けていて申し訳ありません」
そこでニヤリと嫌らしく笑った望恵だったが、美子はそれを一刀両断する。
「迷惑も何も……、そんな根も葉もない事を言われても、笑うしかありません。誰か他の方と見間違ったんでしょう。視力の矯正をお勧めします」
「私の視力は両方とも1.5よ! どこまで惚ける気!?」
ここで稽古に遅刻してきた上、騒ぎ立てている望恵を窘めようと、野口が会話に割り込んできた。
「加藤さん、いつまでも訳の分からない事を喚き散らすのはお止めなさい」
「私は悪くありません! この女が人を馬鹿にして」
「この前のお稽古の日なら、藤宮さんは駅まで行って忘れ物を思い出して、すぐここに引き返して来ましたよ?」
「え?」
それから予想外の台詞を聞いて目を瞬かせた望恵を半ば放置して、美子と野口は和やかに、その時の事を話し出した。
「あの時は本当に失礼しました。姉妹五人に母がお揃いで刺繍してくれた思い出のハンカチを置き忘れたと思って、更衣室を探しまくってしまって」
「とうとう見つからなくて、念の為に藤宮さんが自宅に電話してみたら、妹さんが置き忘れていたと教えてくれたのよね。あなたがそんなミスをするなんて珍しい事」
そう言ってころころと笑った野口に、美子は苦笑いしながら軽く頭を下げた。
「本当にお恥ずかしい限りです。先生にも探すのを手伝って頂いて、貴重な休憩時間を台無しにして申し訳ありませんでした」
「良いのよ。残りの休憩時間で、秋の演目について突っ込んだ話ができたし。そのまま夜の稽古も手伝わせてしまって、却って悪かったわ」
「いえ、新規の方もいらっしゃいましたし、普段はお仕事をされている方と顔を合わせる機会があまり無いので、色々興味深いお話が聞けて楽しかったです」
それを聞いた野口は、思い出した様に言い出した。
「そう言えば、夜の教室の人達と意気投合して、帰りがけに皆で食事に行ったのよね?」
「はい。その次の土曜日、その時に知り合った高梨さんと一緒に、和装小物を買いに行きました。他の人の意見が欲しかったそうで、適切なアドバイスができたかどうかは分かりませんが」
「あら、藤宮さんの見立てなら間違いないわ」
そして朗らかに笑い合ってから二人は笑顔を消し、この間呆然としていた望恵に向き直り、厳しい口調で糾弾した。
「それで加藤さん。あなたが見たのは、どこのどなたが怪しげな男達に連れ去られた場面なのかは分かりませんが、先程声高に主張したところを見ると、そんな明らかな犯罪現場を目撃していながら、通報していらっしゃらないのよね?」
「え? それは……、だって」
美子の指摘に望恵が口ごもると、野口が冷静に相槌を打った。
「そうよね。通報していれば、藤宮さんのお宅に警察から確認がいく筈だから、それで間違いだと分かるし。当然通報者であるあなたの所にも、その旨の連絡は入る筈。すなわちあなたが今日ここで、そんな見当違いな事を喚きたてる筈が無いわ」
「あの、でも、それは…………」
まさか自分が誘拐の手引きをしたからだ、などとは間違っても言えない望恵は、どう言い逃れするべきか咄嗟に判断できずにいると、この間のやり取りを見ていた生徒達が、顔を突き合わせて囁き始めた。
「何? あの人、本当に女の人が連れ去られるのを、傍観していたわけ?」
「通報もしないなんて、それって人としてどうなの?」
「ひょっとして藤宮さんと勘違いしたから、わざと通報しなかったとか?」
「ありえる。だってこれまで、藤宮さんに対する見当違いの文句とか悪口とか、散々言ってたもの」
「うわ、性格悪い。って言うか怖い。絶対お近づきになりたくないわ」
「何なの? これまで散々藤宮さんに迷惑をかけておきながら、恩を仇で返すってこの事よね」
その場全員から冷たい視線を浴び、さすがにこれ以上話を続ける真似はできなかった望恵は、小さく歯軋りをしてから僅かに頭を下げた。
「その……、申し訳ありません。先程口にした内容は、私の見間違いでした」
その苦し紛れの弁解を聞いた二人は、揃って呆れ顔になる。
「見間違い? 先程あれほど自信満々に、主張していたのにですか?」
「随分物騒な見間違いですね。それとも夜に読みふけった推理小説の内容と現実が、白昼混同したとかですか? お父様の加藤正俊氏は国会議員でもあられる事ですし、そのお名前に傷が付く事は慎んだ方が宜しいでしょうね」
自然に野口の口調が厳しい物になったが、周囲から向けられる視線も同様だった。
「うわ、現実とフィクションの区別がついてないの?」
「どこまで頭が悪いのよ」
「親が国会議員なの? あんな娘なら、親もどうしようも無さそうね」
野口が軽く皮肉を言うと再び生徒達も囁き合い、望恵は怒りを露わにして睨んだ。しかしそんな物を野口は全く気に留めず、手を叩きながら生徒達に呼びかける。
「さあ、つまらない事で時間を潰してしまいましたね。お稽古を始めましょう。加藤さんはすぐに着替えて来て下さい。こちらに来てひと月以上経過していますし、一人で着付け位は出来るようになりましたよね?」
「……っ!!」
野口から明らかに侮蔑的な眼差しを向けられた望恵は、憤怒の形相で無言で稽古場から走り去った。そして彼女が開け放ったままの扉を、一番近くの者が閉めてから稽古が開始されたが、三十分を経過しても望恵が戻って来ない為、野口が指示を出す。
「中根さん、加藤さんの様子を見て来て頂戴」
「分かりました」
しかし言い付けられた生徒は、すぐに当惑顔で戻って来た。
「先生。更衣室に誰も居ないんですが……」
「ありがとう。稽古に戻って頂戴」
忌々しげな表情で応じた野口に、美子は控え目に声をかけてみた。
「先生、どうしましょうか」
「どうもこうも……。もう来ないでしょうけど、今月分までの月謝はきっちり請求するわ」
「当然の処置ですね」
迷い無く断言した野口に、美子も同意して頷いた。そして野口の予想通り、その日を境に望恵がその教室に姿を現す事は無かった。
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