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(10)クロの暴挙

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 すっかり金曜日の訪問が定例化した大崎は、その週の金曜日も、午後によろづやに顔を出した。

「こんにちは。またお邪魔します」
「あら、大崎さん。どうぞ、今椅子を出しますので」
「ありがとうございます」
 いそいそと千尋が出したパイプ椅子の背もたれに脱いだジャケットを掛け、そこに座って購入したミネラルウォーターを一口飲んでから、大崎はさり気なく問いを発した。

「そう言えば……、先週伯母さんに話をしてみると言っていた件は、その後どうでしたか?」
 それを聞いた千尋は、全く不審に思わず言葉を返す。

「ああ、あの事ですか。伯母に電話してみたんですが、やはり母からその手の話は全然聞いていなかったみたいですね」
「そうでしたか。それなら」
「それで『入院中は治療に専念させたいから、煩わしい話をするのはどうかと思うの。退院したら、何かの折りにでも話を出してみるわ』と言っていました。確かにそうですよね」
 一瞬期待したものの、千尋が頷きながら返してきた言葉に、大崎は僅かに顔を歪めながら極々小さな声で悪態を吐く。

「ちっ、退院後かよ……。しかも『何かの折りに』って、それじゃあいつになるかわかんねぇじゃねぇか。ふざけんな」
「え? 大崎さん、今何か仰いました?」
 千尋に不思議そうな顔で問われた大崎は、瞬時に笑顔を取り繕ってその場を誤魔化す。

「あ、いえ、独り言ですからお気になさらず」
「そうですか?」
「それよりも、もうすぐ近くの神社の例大祭ですね」
「ええ、町内会ごとに御神輿もでるみたいで、この前子供達が騒いでいました」
 さり気なく大崎が話題を変え、千尋もそれについて話し出したところで、予想外の事態が発生した。

「うにゃっ!」
「え?」
 いつの間にか音もなく店内に入って来たクロが、いきなり椅子の背に掛けていた大崎のジャケットに飛びかかり、それを床に引き下ろした。と思ったらそれをしっかり咥え、店の外めがけて一目散に走り出す。

「あ、何するんだ! 俺のジャケット!! 待て!! この馬鹿猫がっ!!」
 異常に気が付いて立ち上がった大崎が、慌ててジャケットを引きずって行くクロを追いかけて店の外に走り出たが、スタートダッシュの出遅れは挽回できる代物では無かった。そしてその間、千尋はひたすら呆然として固まっていた。

(えぇえ!? ちょっとクロ! 何をやってるの!? 今までこの手の悪戯なんかした事は無かったのに!! うわ、どうしよう?)
 確かにここでクロを飼っているわけでは無いにしても、常連である事には変わりなく、店への出入りもこれまで制限していなかった為、千尋が狼狽していると、何分かしてから傍目にも憤慨していると分かる表情で、大崎が戻って来た。

「くそ、あの馬鹿猫!!」
「大崎さん、すみません」
 悪態を吐いた彼に思わず千尋が頭を下げると、大崎は幾らかバツが悪そうな顔で彼女を宥めた。

「ああ、いや……、千尋さんが謝る必要はありませんから。首輪もしていなかったし、大方あの公園を住処にしている野良猫なんですよね? あそこの藪に入り込まれて、見失ってしまって」
「そうですね……、時々近所で見かけますが、公園内に住み着いているみたいです」
 冷や汗を流しながら千尋がそんな事を口にすると、大崎は小さく頷いて吐き捨てる。

「全く、忌々しい。あれだけ広い公園なんだから、れっきとした管理者がいる筈なのに。ちゃんと管理しろよ、給料泥棒が!」
 いつもの人当たりの良さをかなぐり捨てて悪態を吐いている彼を見て、千尋の内心の動揺は益々酷くなった。

(何だか、大崎さんのイメージが……。それに思い返してみると、大崎さんが店に来ている時は、クロは一度も店に姿を見せていなかったかも。偶然かしら? クロが、ここと関係があると思われていないのは良かったけど……)
 ここで千尋は現実的な問題を思い出し、恐る恐る彼に尋ねてみた。

「あの……、大崎さん。あのジャケットに、貴重品は入っていなかったですか? お財布とかスマホとか、無くすと困ったり処置が面倒な物とか」
 そう指摘された大崎は我に返り、胸ポケットや腰の辺りを触りながら、安堵の表情で告げる。

「スマホはシャツの胸ポケットで、財布はスラックスのポケットだったから助かりました。取材に必要な物もリュックに纏めてありますし、ジャケットに入れておいたのはハンカチと名刺入れ位です」
「それなら良かったですね。あ、いえ、良くはありませんが」
 笑顔で言いかけて慌てて否定した千尋に、大崎が苦笑しながら頷いてみせる。

「本当に不幸中の幸いでした。帰宅するのにお金を借りなければならなくなったら、かなり恥ずかしいですし」
 そう言ってその場を取り繕ったものの、とても和やかに話をする空気では無く、大崎は挨拶もそこそこによろづやを出て行った。対する千尋もクロの事に対する負い目もあり、無理に引き留めたりせずに見送ってから、独りきりの店内で愚痴っぽく呟く。

「本当に、さっきのあれは何だったのかしら?」
 それから何組かの来客の応対をし、再び一人きりになったところでクロと大崎の事で悶々と悩んでいると、諸悪の根元の声が足元から聞こえてきた。

「なぉ~ん!」
「あ、ちょっとクロ! あんた大崎さんに、何て事をしてくれて……。え? 何よ、これ? あんた何を持って来たの?」
 慌てて椅子から立ち上がりカウンターを回り込んで前に出ると、そこにお行儀良く座っていたクロが、目の前の床においてある黒い長方形の物体を前脚で何度も軽く叩きつつ、何やら訴えるように鳴き声を上げた。

「にゃっ! なうっ! にゃーっ!」
「これ……、名刺入れ、よね?」
 激しく嫌な予感を覚えながら、屈んでそれを拾い上げた千尋は、中を改めてみて怒りの声を上げた。

「やっぱり! これは大崎さんの名刺入れじゃない! あんたジャケットを、どこに放置してきたのよ!? これだけ返されても、却って申し訳無くて連絡できないわ!」
「なぁ~! にゅあ~ん!」
「五月蝿い! この馬鹿猫!! でも……」
 自分の手の中にある名刺入れを見上げながら、クロがしつこく鳴いている事に苛つきながらも、千尋は中身を全て確認してみて、その不自然さに首を傾げた。

「何なのかしら? 大崎さんの名刺入れの筈なのに、どうしてこんな事になってるの?」
 そこで再び店に客が訪れた事もあり、千尋はそれを自分のバッグにしまい込んで取り敢えず接客に集中し、そのまま自宅に持ち帰る事になった。

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