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十月

3.負傷

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 ゆっくりと目を開けた美幸は、視界一杯に見慣れない天井が広がっていた為、ぼんやりと考え込んだ。
(あれ? ここって……)
 すると何かの電子音が小さく鳴ると共に、傍らから女性の声が聞こえる。

「ああ、気が付きましたか? 藤宮さん」
「……はぁ、あの、ここは?」
 寝たまま声がした方にゆっくり顔を向けると、ツーピースタイプのナース服を着た女性が、テキパキと周囲の機器を操作しつつ、端的に状況を説明してきた。

「港南総合病院のICUです。意識が戻るまではこちらでの管理となっていましたが、CTでも脳や臓器の損傷は有りませんでしたし外傷の処置も済んでいますので、バイタルのチェックを済ませたら一般病棟に移動します。担当医を呼び出しますので、現状説明も病室で行います」
「……どうも」
 何となく余計な口を差し挟む事ができず、大人しく頷いた美幸は、ここに至った経緯を思い返してみた。

(ええと……、確か商談を終えて田所製作所から出て来た所で、山崎さんが難癖を付けて絡んできて、突き飛ばされたのよね? そうしたら車道によろけ出た途端、自転車が……。あれと衝突した?)
「それでは移動します」
 痛みは無いものの、全身が重くて動かせないのは麻酔か鎮痛薬とか使っているのかと見当を付けた所で、点滴を付けたまま美幸は寝ているベッドごと、移動を開始した。そして看護師二人でベッドを廊下に出した所で、涙声で美野が呼びかけてくる。

「美幸! 大丈夫!? 私がちゃんと分かる?」
「おい、ちょっと落ち着けって!」
「美野姉さん? それに高須さんまで、何で?」
 ベッドに突進してしがみつかんばかりの美野を、横から慌てて高須が捕まえて宥めた。それを見た美幸は、きょとんとして二人を見上げたが、途端に美野の怒声と高須の呆れた声が降って来る。

「何でじゃあ無いでしょうっ!!」
「とにかく、話は病室に移動してからだ」
(一応、交通事故って訳だし、もの凄く心配かけたのよね?)
 涙混じりに何やらブツブツと文句を言っている美野と、それを宥めつつ付いて来る二人の気配を感じながら、美幸はさすがに申し訳なく思った。そして一般病棟の美幸に用意されていたらしい個室に到着すると、既に入口に担当医らしい中年の男性が待ち構えていた。

「藤宮さん、気分はどうですか?」
「大丈夫だと思います」
 そうして所定の位置にベッドを配置した看護師達はすぐにその場を去り、早速担当医がクリップボード片手に説明を始めた。そして細かい注意事項や今後のスケジュールなども含めて十分程で話を終わらせ、静かに椅子から立ち上がる。

「……そういう事ですので、暫くは鎮静剤と鎮痛剤の効果は持続している筈ですが、痛み出したらすぐにナースコールをお願いします。その他に視界がおかしく感じたり、動悸、眩暈、吐き気等があった時も同様です。何か不明な事がありましたら、夜間も一時間おきに看護師が巡回していますので、お尋ねください」
「分かりました。宜しくお願いします」
 取り敢えず疑問に思う事は無く、取り立てて不調は感じない為、美幸は素直に頷いた。それに担当医が会釈して部屋を出て行くと、美幸が如何にも残念そうな声を上げる。

「うぅ~ん、左足首骨折に、打撲三ヶ所、擦過傷四ヶ所って……。自転車と言えども、まともに衝突するとなると、馬鹿にできないのね。スーツも駄目になっちゃったかしら?」
「スーツの心配をしている場合!?」
 能天気な台詞に、思わず声を荒げた美野だったが、高須はしみじみとした口調で感想を述べた。

「しかし取り敢えずそれだけで済んで、本当に良かったな。お前、咄嗟に身体を捻って手で頭を庇ったから、脳震盪位で済んだらしいぞ?」
「そうなんですか。自分では覚えがありませんが」
「加害者はいきなり自転車道に飛び出したお前を無理に右に避けようとして、バランスを崩して派手に背中から道路に落ちて、腰の骨を折る重傷らしい」
「本当ですか?」
 その予想外の事実に、美幸は軽く目を見張った。

「ああ。ついさっき、この病院に相手方が加入してる保険会社の人が来たんだ。事が起きてから、もう四時間近く経っているし。それで俺達が少し話をした」
「そうだったんですか。すみません高須さん。二重三重にご迷惑を」
「いや、それは良いんだが」
 そこでいきなり美野が、憤懣やるかたない表情で叫んだ。

「確かに横断歩道も無い所で、いきなり飛び出した形になった美幸に過失責任は有るわよ! だけどそれは、山崎のせいじゃない! 治療費の支給を断られたり、逆に慰謝料を請求されたりしたら、その分はあの野郎からむしり取ってやるわっ!!」
「だから、幾らここは個室とは言え、周囲の迷惑を考えてくれ!」
「大体目の前に居たのに、美幸も相手も放置してトンズラするとは何事よ!! モラルの欠片も無いのね!!」
 美野の剣幕に呆気に取られて二人の会話を傍観していた美幸だったが、ここで美野が聞き捨てならない事を喚いた為、本気で驚いて二人の会話に割り込んだ。

「なにそれ? 山崎さんが救急車を呼んだんじゃないの?」
「あいつはそんな事してないわよ!」
「そのせいで、会社で余計に大騒ぎになったんだ。お前、係長と携帯電話でで話している最中に、事故に遭っただろう? お前が急に応答しなくなったから、何かあったと思って係長が商談先に問い合わせたんだ。そこのビルを出て来た直後って、聞いていたからな」
「え? まさか田所製作所の三橋課長にですか?」
 驚きの連続で目を丸くした美幸に、高須が頷きつつ忌々しげに告げた。

「ああ。それで丁度帰り支度をしていた三橋さんが、そのまま下りて様子を見に行ったら、丁度お前が搬送される所で。慌てて救急車の隊員に搬送先を聞いて、係長に連絡してくれたんだ」
「うわ……、三橋課長、今日は奥さんと結婚記念日ディナーって言ってたのに……。とんだご迷惑、おかけしちゃったわ」
 心底申し訳なく思いながら美幸が呻くと、高須がそれを宥めて話を続けた。

「それに関しては、後から係長と俺でお礼方々お詫びに行く。それで三橋課長の知り合いの社員が商談先から帰社した時、お前が山崎に突き飛ばされた所に出くわして、警察と消防に通報してくれたそうだ。人相風体からお前を車道に突き飛ばしたのが恐らく山崎で、その挙句怪我人を放置して逃げ出したらしいと分かって、三橋課長がその旨を併せて係長に伝えたから、係長は話を聞いている最中は冷静だったのに、通話を終わらせた途端部屋を飛び出して、営業一課に凄い剣幕で怒鳴り込んで……」
(……それって、どう考えても拙くない?)
 そこで深々と溜め息を吐いて言葉を区切った高須を見て、美幸は冷や汗を流した。そして予想に違わぬ説明が、美野の口から語られる。

「私が企画推進部の人から内線で連絡を貰って、慌てて詳細を聞こうと城崎さんを探して営業一課に出向いたら、『即刻、山崎を呼び出せ! 隠し立てすると、てめえもあの世に送ってやるぞ!』と叫びながら営業一課で浩一課長に掴みかかって、柏木課長代理と鶴田係長が二人がかりで、城崎さんを引き剥がしている所だったわ」
「俺も、なかなか係長や課長代理が戻って来ないから様子を見に行ったら、本当に乱闘一歩手前だった。係長が本格的に暴れる前に、呼び出された山崎が戻って来てくれて助かったな。下手したら二課(うち)の評判が、更に下がる所だった」
「それで、山崎さんはどうなったんですか?」
 確かに腹は立っていたものの、どう考えても穏便には済まなさそうな話の流れに、一応心配して名前を出してみた美幸だったが、何故か高須は美幸から視線を逸らしつつ、言葉を濁した。

「その……、第8会議室で詳しい事情を聞く事になって、浩一課長と課長代理、城崎係長と鶴田係長に連行された後の事は知らない。美野と一緒に病院に来たからな」
 そこで美野が、まだ怒りが治まらない風情で叫び声を上げた。

「それにしても! ちょっと悪口雑言を言ってやった位で、腹の虫が治まらないわよ! 本当に何か格闘技を習っておくべきだったわ! そうしたらあんな屑野郎、ボコボコにしてやったのに!」
「悪口雑言って、何?」
「あのな、美野。あれはあれで結構ダメージ」
「決めたわ! 子供が生まれたら、男だろうが女だろうが何か武術を習わせて、絶対ものにさせるわよ!」
「それはちょっと」
「何か文句有るの!?」
「いえ……、何でもありません」
 素朴な疑問を丸無視され、何やら良く分からない恋人同士の会話をされた美幸は、首を傾げた。

「高須さん? 何かあったんですか?」
「……大した事じゃない、気にするな」
「はあ……」
 微妙に顔を引き攣らせながら言い聞かせてきた高須に、美幸はここは突っ込むところでは無いのだと、冷静に空気を読んだ。そこで入口のドアを軽くノックする音が聞こえる。

「はい、どうぞ」
 そして面会時間はとうに過ぎているせいか、静かに引き戸を開けて室内に体を滑り込ませてきた、今現在の話題の主に、美幸は少し驚いた声を上げた。
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