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七月
番外編 忠犬ハチの使い方~渡部和枝の場合
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昼休みに一緒に社員食堂にやって来た美幸と理彩は、それぞれ定食を受け取って空席を探し始めた所で、同じ企画推進部の新人である渡部和枝を見つけて足を止めた。
「ねえ、あれ、渡部さんじゃない?」
「あ、本当ですね。でも……、何だか様子が変じゃありません?」
「表情が暗いわね。仕事で何かあったのかしら? ちょっと行って声をかけてみる?」
「そうしましょう」
テーブルに一人でポツンと座り、丼の中のきつねうどんを見下ろしながらも箸を全く動かさないでいた和枝に異常を感じた二人は、課は違えど部内では数少ない女性社員でもある彼女を心配して、そのテーブルに歩み寄って声をかけた。
「渡部さん、ここ、空いているかしら?」
「あ、はい、どうぞお座りください、仲原さん、藤宮さん」
「ありがとう」
「お邪魔します」
理彩が声をかけると、和枝が我に返って慌てて席を勧めて来た為、二人は遠慮なく並んで彼女の向かい側に座った。そして食べ始めてから、さり気なく和枝に声をかけてみる。
「その……、渡部さん。三課で何かあったの?」
「どうしてですか?」
慎重に理彩が尋ねてみると、和枝がピクリと反応して表情を消して問い返してくる。それを美幸が引き取って、話を続けた。
「何か暗い顔してたから、ちょっと気になって。ごめん。何でも無いなら良いのよ?」
すると和枝は、僅かに笑顔を見せながら礼を述べた。
「ありがとうございます、気にかけて頂いて。でも仕事上の事で問題はありませんので」
「そう、良かったわ」
「ある意味プライベートですが……、ある意味、仕事上とも言えるんでしょうかね?」
「あの……」
「……何があったの?」
しかし笑ったかに見えたのは一瞬の事で、すぐにどこかやさぐれた表情になってボソリと呟く。その普段の和枝のイメージとはかけ離れた表情に二人が恐る恐る詳細を尋ねてみると、和枝はボソボソとある事について話し出した。
「蜂谷君がニ課、私が三課に配属が決定になった時、同期の皆はこぞって同情してくれたんです。『あんな最低野郎と一緒の部なんて大変だけど頑張って』って」
「そうでしょうね……」
「皆、優しい同期ばかりで良かったわね」
思わず理彩と美幸はしみじみと呟いたが、何故かここで和枝が目つきを険しくし、怒気を含んだ声で問い返した。
「……優しい?」
「え? あの……」
「渡部さん、どうかしたの?」
その彼女の豹変ぶりに、二人は少し怖気づきながら問いを重ねると、和枝はすぐに意気消沈した風情になって話を続ける。
「その蜂谷君が見事に豹変した後、同じ企画推進部配属だからって彼とワンセットにされて、同期達から気味悪そうに遠巻きにされるようになって……。友達、めっきり減りました……」
「…………」
「わ、私っ……、何も、してないのにぃぃぃっ……」
思わず顔を見合わせて黙り込んだ二人の前で、和枝が握っていた箸をトレーに落とし、両手で顔を覆って泣き始める。それを見た二人は、テーブル越しに慌てて宥めた。
「渡部さん、落ち着いて。泣いたら化粧が崩れるわよ! ほら、このハンカチ使って良いから!」
「何も友達全員にそっぽ向かれた訳じゃ無いんでしょ? 俗に『雨天の友は真の友』って言うじゃない。気を確かに持って!」
「良い事言うわね藤宮。確かにこんな時は、上辺だけの付き合いをしてる輩をふるいにかける良い機会かもしれないわ。今渡部さんに親身に接してくれる人とは、この先一生良いお付き合いが出来ると思うわよ?」
「だから気にしちゃ駄目よ? ピンチをチャンスに変えられるかどうかで、その人間の本当の価値が決まるんだから!」
口々に慰められ、理彩から借りたハンカチで目元を押さえながら顔を上げた和枝は、まだ少し涙ぐみながら美幸に問いを発した。
「藤宮先輩……。先輩は去年新人で二課に配属された時、肩身が狭い思いをしたり、周囲から白眼視されたりはしなかったんですか?」
「白眼視? されてたと思うけど、気にならなかったな~。一日も早く仕事で実績を上げて出世したかったし。あ、勿論今もだけどね?」
「相変わらず、鋼の心臓」
「ほっといて下さい。私は課長が社長就任会見をする時には、課長の隣に座る事に決めているんですから。白眼視位で怖気づいててたまりますか」
「本当にブレないわね。つくづく羨ましいわ」
そんな漫才じみた二人のやり取りを聞いた和枝は、半ば呆然としながら呟いた。
「社長就任会見、ですか……」
その呟きを耳にした美幸が、真顔で和枝に問いかける。
「渡部さんは、同じ部署で勤務してる人間がちょっと変って事だけで、自分から離れたり、掌返して邪険にしたり、露骨に関わるのを拒否してきた様な、人を見る目の無い連中に対して腹を立てて無いの?」
「勿論、ムカついてます! 何様のつもりよっ!」
「そんな軽薄な連中を、見返して踏みつけて顎でこき使ってやりたくない?」
「……もの凄く、やりたくなってきました」
微妙に物騒なオーラを醸し出しつつ凄んできた和枝に、理彩の顔が僅かに引き攣る。
「ちょっと! 何、変な事唆してるのよ?」
「良いじゃないですか。本人がやる気になってるんですから」
そんな事を小声で言い合っていると、和枝が顔を上げてきっぱりと断言してきた。
「分かりました、藤宮先輩。もうウジウジ悩むのは止めます。この悔しさをバネにして、社内で生き抜く為のスキルを磨きます」
「う、うん。頑張ってね」
そうして再び食事を再開した和枝だったが、その様子を見て理彩が心配そうに美幸に囁いた。
「だから……、ピンチをチャンスに……、あいつのせい……、連中の…………」
「ねえ……、何か渡部さん、さっきからブツブツ言いながら怖い顔でうどんをすすってるんだけど、大丈夫かしら?」
「取り敢えず大丈夫だと思いますけど……。私達も食べましょう」
それから数日間は何事も無く、三課でも和枝が従来通り仕事をこなしているのを見て理彩と美幸は密かに安堵していたが、事件は唐突に起こった。
「お~い皆、業務中だけど、会議に出ている課長以外、全員揃ってるからちょっと集合~」
「何だろう?」
「さあ……」
企画推進部の面々が、不思議そうな顔をしながら呼びかけてきた一課係長の寺本の近くに集まると、寺本は同じく一課の狩野を手招きしてから話し出した。
「皆、知っての通り、各部署から労働組合の執行委員を出さなくてはいけない規定があるんだが、これまで八年間企画推進部の執行委員を務めていたこの狩野は、この一年で結婚と奥さんの出産が重なって、組合活動をこれまで通り継続する事が困難になった。それでこの際、そろそろ他の人間を選出したいんだが、立候補者は居ないか?」
それを聞いて、周囲の面々から囁き声が漏れる。
「そうか、狩野さん、もう八年もやってたか」
「確かに潮時だよな」
「だが業務外に時間を拘束される事が多いし……」
「当然残業代も出ないしな」
正直に言うと(あまり積極的に係わりたくないな)という思いがほぼ全員の脳裏を占めている中、何故か和枝が勢いよく右手を挙げた。
「寺本係長! 質問しても宜しいですか?」
「渡部さん? 勿論構わないが?」
「入社一年目の人間が、執行委員になる事は可能でしょうか?」
唐突過ぎるその問いかけに、質問をされた寺本は勿論、部屋中の者が和枝に驚いた顔を向けた。
「いや、勤務年数には関係ない。課長以上の管理職は組合には入れない事になっているが、渡部さんがやってくれるのかい?」
「いえ、蜂谷君を推薦します」
「え? 俺?」
困惑しながら寺本が確認を入れると、和枝は清々しい笑顔で隼斗を指差しつつ答えた。そしていきなり指名された事で当惑した優斗に和枝が歩み寄り、両手でその肩を掴みながら言い聞かせる。
「蜂谷君……。柏木課長は蜂谷君の女神様で、蜂谷君のご主人様たる課長代理が、課長を将来社長に据えるべく、現在進行形で社内で暗躍してる事は知っているわよね?」
「勿論だとも。俺も常にご主人様と女神様の業績の礎となるべく、日々邁進中だ」
(暗躍って何だよ……)
(女神様とご主人様は、固定化したか……)
力強く頷いた隼斗に、企画推進部の面々は無言で項垂れた。そんな周囲を気にも留めず、和枝がしたり顔で話を続ける。
「でもね? 柏木課長の社長就任をスムーズに進める為には、取締役会を掌握するのと同じ位、押さえておく必要のある重要なセクションが有るのよ」
「どこだ? それは」
「労働組合よ」
「は?」
真顔で迫ったものの予想外の単語を聞かされて、隼斗はポカンとして間抜けな声を上げた。そんな反応は想定済みだとでも言わんばかりに、和枝が落ち着き払って説明を続ける。
「ただでさえ取締役を束ねるトップスリーが全員女なんて、『冗談じゃない』と騒ぎ立てる馬鹿どもが居そうじゃない。そこを蜂谷君がしっかり抑えて、柏木課長の社長就任を好意的に認めるコメントを組合長として出せば、社内でもスムーズに社長交代が認められ易いんじゃない?」
「なるほど、そういう方面からのサポートも、確かに重要だよな」
うんうんと納得している隼斗をよそに、ここで寺本が控え目に口を挟んできた。
「あの……、渡部さん? トップスリーが女性って言うのはどう言う」
「柏木課長の社長就任記者会見の時、課長の両隣に藤宮さんと私が座るからです」
「…………」
自分の言葉を遮り、据わった目で断言してきた和枝に、寺本は無言になった。
「それに毎年の春闘や秋闘で繰り返される、あの度重なる賃上げ交渉や待遇改善要求。それが揉めるたびに経営陣の貴重な時間が浪費されて、精神的疲労感が増大されるのよ? そんな事、蜂谷君は看過できるの?」
「いいや、断じて認められない! 女神様を必要以上にお疲れさせるなんて!!」
「だからそれまでに蜂谷君ががっつり労組内で独裁権力を確立しておけば、例え課長が『夏の賞与は0.1か月分のみ』って宣言しても、すぐに労使合意が成立して、課長の手を煩わせなくて喜んで貰えるわよ?」
「そうか! なるほど、やっぱり渡部は頭が良いな。そんな風に課長の役に立とうなんて、俺には想像もできなかったぞ!」
「それ程でもないわよ」
満面の笑顔で会話している新人コンビだが、周囲の面々は揃ってげんなりした顔になる。
「夏の賞与が0.1か月分……」
「俺、嫌だ。そんな職場……」
そんな中、和枝が笑顔を増幅させて、核心を突いて来た。
「蜂谷君、良く考えてみて。毎月のお給料から引かれてる組合費。微々たる物に見えるけど、何千人分と集まったら、どれだけの額になると思う? それだけの組織と資金、有効活用せずにどうしろって言うのよ」
「なるほど……、その通りだ」
「加えて色々な職場から担当者が集まって来るから、情報交換もし易いし、コネを作っておけば、特定の人の弱みも握るのに後々有効かもよ?」
「それはなかなか、やりがいのある役目だな」
「そこにやりがいを見つけるな!」
「渡部さん、何を唆してるんだ!?」
隼斗まで更に嬉々とした顔付きになってきた為、周囲の者達は慌てて窘めようとしたが、和枝の誘導は止まらなかった。
「だからまず、組合の中でも青年部の掌握よ。組合主催のイベントは、ここが主体で企画する事が多いらしいわ。だから皆のモチベーションを高める為に、色々企画してみて?」
和枝のその提案に、隼斗はやる気を漲らせた顔で頷いた。
「良く分かった。心配するな。課長が社長に就任するまでには組合を完全に掌握して、誰にも文句を言わせない様にしてやる」
「やっぱり蜂谷君は頼もしいわ~。私も出来る事なら立候補したいけど、内向的な性格だから、先頭に立って何かをするタイプじゃないし。何事にもチャレンジ精神が旺盛な蜂谷君が羨ましくて……」
(社長就任会見に同席する幹部を目指していると公言する様な人間は、絶対内向的じゃないと思う……)
しおらしく俯いてみせた和枝に、室内の殆どの者は生温かい視線を送ったが、隼斗はその手を取って力一杯励ます。
「そんな弱気になるな、渡部! 二十年後の柏木産業を支えるのは、どう考えても俺達だ!」
「ええ、その通りね。行動あるのみだわ」
そしてにっこり頷いた和枝から寺本に視線を移した隼斗は、明るい笑顔で宣言した。
「寺本係長、俺が執行委員を引き受けます。狩野さん、後は俺に任せて、どうぞ家庭サービスに勤しんで下さい」
「宜しく……」
「頑張って」
「はい、お任せ下さい!」
内心(こいつに任せて大丈夫なのか?)と不安で一杯になった一同だったが、他に立候補者は無く、蜂谷が企画推進部の組合執行委員になる事に決定した。
それから約三週間後。
出社してきた隼斗が、三課で書類を纏めていた和枝を見つけて声をかけた。
「あ、渡部。青年部の交流会の会場、昨日の夜の会合で、お前が言ってたパブレストランに決まったから」
その声に、和枝が書類を抱えたまま喜色満面で振り返る。
「本当? あそこ生ハムとワインが美味しいんだよね~。会費は?」
「勿論タダだ。安心しろ」
「やった! 絶対予定開けておくね。それからボウリング大会の方はどうなったの?」
「あれも会場を押さえた。二次会用のビアガーデンも予約済みだし、豪華景品も準備中だから、期待しててくれ」
「うわぁ、楽しみ~! それ藤宮先輩に報告したら、絶対喜んでくれるわよ? 何しろマイボール、マイシューズ保持者なんだから。この前聞いたのよね」
「そうか。それならなおの事、良かったな」
「それから秋になったら紅葉狩りをしながら、河原でバーベキューとか芋煮会とかも良いよね? 冬はやっぱり泊まりでスキーだと思うし。あと、芸術鑑賞の補助って事で、コンサートチケットの補助も出して貰えると、心身ともにリフレッシュできると思うな~」
「そうだな。シーズン間際になると込みあって来るから、早めに企画を立てて提案しておくか。補助の方は今度の議題に挙げておくから」
「頑張ってね。じゃあ私、あちこちに届け物が有るから行ってくるわ」
「ああ、これからも、色々気が付いた事があったら遠慮なく言ってくれ」
「分かったわ」
そうして互いに笑顔のまま会話を終わらせた和枝は、三課課長である上原に「各部署に書類を届けてきます」と断りを入れて部屋を出て行った。そして廊下から和枝のご機嫌な歌声が聞こえてくる。
「タ~ダざっけ、タ~ダめっし、うっれしいな~、アフタ~ファイブ~は、チョーごっきげ~ん、きょ~うもおっしごっと、が~んば~ろう~」
何かの替え歌らしいそれに室内は一瞬静まり返り、思わず上原は涙ぐんで目頭を押さえた。
「渡部さん……、真面目な社員だったのに。陰で蜂谷を操って、組合費の流用なんて……」
「課長、流用だなんて大袈裟な……。偶々組合のイベントが、彼女の好みに合致した物が多くなってきただけで。それに彼女は今でも、仕事熱心で真面目な社員ですから」
三課係長の富永が控え目にフォローしてきたが、上原の悲嘆は解消されなかった。
「ねえ、あれ、渡部さんじゃない?」
「あ、本当ですね。でも……、何だか様子が変じゃありません?」
「表情が暗いわね。仕事で何かあったのかしら? ちょっと行って声をかけてみる?」
「そうしましょう」
テーブルに一人でポツンと座り、丼の中のきつねうどんを見下ろしながらも箸を全く動かさないでいた和枝に異常を感じた二人は、課は違えど部内では数少ない女性社員でもある彼女を心配して、そのテーブルに歩み寄って声をかけた。
「渡部さん、ここ、空いているかしら?」
「あ、はい、どうぞお座りください、仲原さん、藤宮さん」
「ありがとう」
「お邪魔します」
理彩が声をかけると、和枝が我に返って慌てて席を勧めて来た為、二人は遠慮なく並んで彼女の向かい側に座った。そして食べ始めてから、さり気なく和枝に声をかけてみる。
「その……、渡部さん。三課で何かあったの?」
「どうしてですか?」
慎重に理彩が尋ねてみると、和枝がピクリと反応して表情を消して問い返してくる。それを美幸が引き取って、話を続けた。
「何か暗い顔してたから、ちょっと気になって。ごめん。何でも無いなら良いのよ?」
すると和枝は、僅かに笑顔を見せながら礼を述べた。
「ありがとうございます、気にかけて頂いて。でも仕事上の事で問題はありませんので」
「そう、良かったわ」
「ある意味プライベートですが……、ある意味、仕事上とも言えるんでしょうかね?」
「あの……」
「……何があったの?」
しかし笑ったかに見えたのは一瞬の事で、すぐにどこかやさぐれた表情になってボソリと呟く。その普段の和枝のイメージとはかけ離れた表情に二人が恐る恐る詳細を尋ねてみると、和枝はボソボソとある事について話し出した。
「蜂谷君がニ課、私が三課に配属が決定になった時、同期の皆はこぞって同情してくれたんです。『あんな最低野郎と一緒の部なんて大変だけど頑張って』って」
「そうでしょうね……」
「皆、優しい同期ばかりで良かったわね」
思わず理彩と美幸はしみじみと呟いたが、何故かここで和枝が目つきを険しくし、怒気を含んだ声で問い返した。
「……優しい?」
「え? あの……」
「渡部さん、どうかしたの?」
その彼女の豹変ぶりに、二人は少し怖気づきながら問いを重ねると、和枝はすぐに意気消沈した風情になって話を続ける。
「その蜂谷君が見事に豹変した後、同じ企画推進部配属だからって彼とワンセットにされて、同期達から気味悪そうに遠巻きにされるようになって……。友達、めっきり減りました……」
「…………」
「わ、私っ……、何も、してないのにぃぃぃっ……」
思わず顔を見合わせて黙り込んだ二人の前で、和枝が握っていた箸をトレーに落とし、両手で顔を覆って泣き始める。それを見た二人は、テーブル越しに慌てて宥めた。
「渡部さん、落ち着いて。泣いたら化粧が崩れるわよ! ほら、このハンカチ使って良いから!」
「何も友達全員にそっぽ向かれた訳じゃ無いんでしょ? 俗に『雨天の友は真の友』って言うじゃない。気を確かに持って!」
「良い事言うわね藤宮。確かにこんな時は、上辺だけの付き合いをしてる輩をふるいにかける良い機会かもしれないわ。今渡部さんに親身に接してくれる人とは、この先一生良いお付き合いが出来ると思うわよ?」
「だから気にしちゃ駄目よ? ピンチをチャンスに変えられるかどうかで、その人間の本当の価値が決まるんだから!」
口々に慰められ、理彩から借りたハンカチで目元を押さえながら顔を上げた和枝は、まだ少し涙ぐみながら美幸に問いを発した。
「藤宮先輩……。先輩は去年新人で二課に配属された時、肩身が狭い思いをしたり、周囲から白眼視されたりはしなかったんですか?」
「白眼視? されてたと思うけど、気にならなかったな~。一日も早く仕事で実績を上げて出世したかったし。あ、勿論今もだけどね?」
「相変わらず、鋼の心臓」
「ほっといて下さい。私は課長が社長就任会見をする時には、課長の隣に座る事に決めているんですから。白眼視位で怖気づいててたまりますか」
「本当にブレないわね。つくづく羨ましいわ」
そんな漫才じみた二人のやり取りを聞いた和枝は、半ば呆然としながら呟いた。
「社長就任会見、ですか……」
その呟きを耳にした美幸が、真顔で和枝に問いかける。
「渡部さんは、同じ部署で勤務してる人間がちょっと変って事だけで、自分から離れたり、掌返して邪険にしたり、露骨に関わるのを拒否してきた様な、人を見る目の無い連中に対して腹を立てて無いの?」
「勿論、ムカついてます! 何様のつもりよっ!」
「そんな軽薄な連中を、見返して踏みつけて顎でこき使ってやりたくない?」
「……もの凄く、やりたくなってきました」
微妙に物騒なオーラを醸し出しつつ凄んできた和枝に、理彩の顔が僅かに引き攣る。
「ちょっと! 何、変な事唆してるのよ?」
「良いじゃないですか。本人がやる気になってるんですから」
そんな事を小声で言い合っていると、和枝が顔を上げてきっぱりと断言してきた。
「分かりました、藤宮先輩。もうウジウジ悩むのは止めます。この悔しさをバネにして、社内で生き抜く為のスキルを磨きます」
「う、うん。頑張ってね」
そうして再び食事を再開した和枝だったが、その様子を見て理彩が心配そうに美幸に囁いた。
「だから……、ピンチをチャンスに……、あいつのせい……、連中の…………」
「ねえ……、何か渡部さん、さっきからブツブツ言いながら怖い顔でうどんをすすってるんだけど、大丈夫かしら?」
「取り敢えず大丈夫だと思いますけど……。私達も食べましょう」
それから数日間は何事も無く、三課でも和枝が従来通り仕事をこなしているのを見て理彩と美幸は密かに安堵していたが、事件は唐突に起こった。
「お~い皆、業務中だけど、会議に出ている課長以外、全員揃ってるからちょっと集合~」
「何だろう?」
「さあ……」
企画推進部の面々が、不思議そうな顔をしながら呼びかけてきた一課係長の寺本の近くに集まると、寺本は同じく一課の狩野を手招きしてから話し出した。
「皆、知っての通り、各部署から労働組合の執行委員を出さなくてはいけない規定があるんだが、これまで八年間企画推進部の執行委員を務めていたこの狩野は、この一年で結婚と奥さんの出産が重なって、組合活動をこれまで通り継続する事が困難になった。それでこの際、そろそろ他の人間を選出したいんだが、立候補者は居ないか?」
それを聞いて、周囲の面々から囁き声が漏れる。
「そうか、狩野さん、もう八年もやってたか」
「確かに潮時だよな」
「だが業務外に時間を拘束される事が多いし……」
「当然残業代も出ないしな」
正直に言うと(あまり積極的に係わりたくないな)という思いがほぼ全員の脳裏を占めている中、何故か和枝が勢いよく右手を挙げた。
「寺本係長! 質問しても宜しいですか?」
「渡部さん? 勿論構わないが?」
「入社一年目の人間が、執行委員になる事は可能でしょうか?」
唐突過ぎるその問いかけに、質問をされた寺本は勿論、部屋中の者が和枝に驚いた顔を向けた。
「いや、勤務年数には関係ない。課長以上の管理職は組合には入れない事になっているが、渡部さんがやってくれるのかい?」
「いえ、蜂谷君を推薦します」
「え? 俺?」
困惑しながら寺本が確認を入れると、和枝は清々しい笑顔で隼斗を指差しつつ答えた。そしていきなり指名された事で当惑した優斗に和枝が歩み寄り、両手でその肩を掴みながら言い聞かせる。
「蜂谷君……。柏木課長は蜂谷君の女神様で、蜂谷君のご主人様たる課長代理が、課長を将来社長に据えるべく、現在進行形で社内で暗躍してる事は知っているわよね?」
「勿論だとも。俺も常にご主人様と女神様の業績の礎となるべく、日々邁進中だ」
(暗躍って何だよ……)
(女神様とご主人様は、固定化したか……)
力強く頷いた隼斗に、企画推進部の面々は無言で項垂れた。そんな周囲を気にも留めず、和枝がしたり顔で話を続ける。
「でもね? 柏木課長の社長就任をスムーズに進める為には、取締役会を掌握するのと同じ位、押さえておく必要のある重要なセクションが有るのよ」
「どこだ? それは」
「労働組合よ」
「は?」
真顔で迫ったものの予想外の単語を聞かされて、隼斗はポカンとして間抜けな声を上げた。そんな反応は想定済みだとでも言わんばかりに、和枝が落ち着き払って説明を続ける。
「ただでさえ取締役を束ねるトップスリーが全員女なんて、『冗談じゃない』と騒ぎ立てる馬鹿どもが居そうじゃない。そこを蜂谷君がしっかり抑えて、柏木課長の社長就任を好意的に認めるコメントを組合長として出せば、社内でもスムーズに社長交代が認められ易いんじゃない?」
「なるほど、そういう方面からのサポートも、確かに重要だよな」
うんうんと納得している隼斗をよそに、ここで寺本が控え目に口を挟んできた。
「あの……、渡部さん? トップスリーが女性って言うのはどう言う」
「柏木課長の社長就任記者会見の時、課長の両隣に藤宮さんと私が座るからです」
「…………」
自分の言葉を遮り、据わった目で断言してきた和枝に、寺本は無言になった。
「それに毎年の春闘や秋闘で繰り返される、あの度重なる賃上げ交渉や待遇改善要求。それが揉めるたびに経営陣の貴重な時間が浪費されて、精神的疲労感が増大されるのよ? そんな事、蜂谷君は看過できるの?」
「いいや、断じて認められない! 女神様を必要以上にお疲れさせるなんて!!」
「だからそれまでに蜂谷君ががっつり労組内で独裁権力を確立しておけば、例え課長が『夏の賞与は0.1か月分のみ』って宣言しても、すぐに労使合意が成立して、課長の手を煩わせなくて喜んで貰えるわよ?」
「そうか! なるほど、やっぱり渡部は頭が良いな。そんな風に課長の役に立とうなんて、俺には想像もできなかったぞ!」
「それ程でもないわよ」
満面の笑顔で会話している新人コンビだが、周囲の面々は揃ってげんなりした顔になる。
「夏の賞与が0.1か月分……」
「俺、嫌だ。そんな職場……」
そんな中、和枝が笑顔を増幅させて、核心を突いて来た。
「蜂谷君、良く考えてみて。毎月のお給料から引かれてる組合費。微々たる物に見えるけど、何千人分と集まったら、どれだけの額になると思う? それだけの組織と資金、有効活用せずにどうしろって言うのよ」
「なるほど……、その通りだ」
「加えて色々な職場から担当者が集まって来るから、情報交換もし易いし、コネを作っておけば、特定の人の弱みも握るのに後々有効かもよ?」
「それはなかなか、やりがいのある役目だな」
「そこにやりがいを見つけるな!」
「渡部さん、何を唆してるんだ!?」
隼斗まで更に嬉々とした顔付きになってきた為、周囲の者達は慌てて窘めようとしたが、和枝の誘導は止まらなかった。
「だからまず、組合の中でも青年部の掌握よ。組合主催のイベントは、ここが主体で企画する事が多いらしいわ。だから皆のモチベーションを高める為に、色々企画してみて?」
和枝のその提案に、隼斗はやる気を漲らせた顔で頷いた。
「良く分かった。心配するな。課長が社長に就任するまでには組合を完全に掌握して、誰にも文句を言わせない様にしてやる」
「やっぱり蜂谷君は頼もしいわ~。私も出来る事なら立候補したいけど、内向的な性格だから、先頭に立って何かをするタイプじゃないし。何事にもチャレンジ精神が旺盛な蜂谷君が羨ましくて……」
(社長就任会見に同席する幹部を目指していると公言する様な人間は、絶対内向的じゃないと思う……)
しおらしく俯いてみせた和枝に、室内の殆どの者は生温かい視線を送ったが、隼斗はその手を取って力一杯励ます。
「そんな弱気になるな、渡部! 二十年後の柏木産業を支えるのは、どう考えても俺達だ!」
「ええ、その通りね。行動あるのみだわ」
そしてにっこり頷いた和枝から寺本に視線を移した隼斗は、明るい笑顔で宣言した。
「寺本係長、俺が執行委員を引き受けます。狩野さん、後は俺に任せて、どうぞ家庭サービスに勤しんで下さい」
「宜しく……」
「頑張って」
「はい、お任せ下さい!」
内心(こいつに任せて大丈夫なのか?)と不安で一杯になった一同だったが、他に立候補者は無く、蜂谷が企画推進部の組合執行委員になる事に決定した。
それから約三週間後。
出社してきた隼斗が、三課で書類を纏めていた和枝を見つけて声をかけた。
「あ、渡部。青年部の交流会の会場、昨日の夜の会合で、お前が言ってたパブレストランに決まったから」
その声に、和枝が書類を抱えたまま喜色満面で振り返る。
「本当? あそこ生ハムとワインが美味しいんだよね~。会費は?」
「勿論タダだ。安心しろ」
「やった! 絶対予定開けておくね。それからボウリング大会の方はどうなったの?」
「あれも会場を押さえた。二次会用のビアガーデンも予約済みだし、豪華景品も準備中だから、期待しててくれ」
「うわぁ、楽しみ~! それ藤宮先輩に報告したら、絶対喜んでくれるわよ? 何しろマイボール、マイシューズ保持者なんだから。この前聞いたのよね」
「そうか。それならなおの事、良かったな」
「それから秋になったら紅葉狩りをしながら、河原でバーベキューとか芋煮会とかも良いよね? 冬はやっぱり泊まりでスキーだと思うし。あと、芸術鑑賞の補助って事で、コンサートチケットの補助も出して貰えると、心身ともにリフレッシュできると思うな~」
「そうだな。シーズン間際になると込みあって来るから、早めに企画を立てて提案しておくか。補助の方は今度の議題に挙げておくから」
「頑張ってね。じゃあ私、あちこちに届け物が有るから行ってくるわ」
「ああ、これからも、色々気が付いた事があったら遠慮なく言ってくれ」
「分かったわ」
そうして互いに笑顔のまま会話を終わらせた和枝は、三課課長である上原に「各部署に書類を届けてきます」と断りを入れて部屋を出て行った。そして廊下から和枝のご機嫌な歌声が聞こえてくる。
「タ~ダざっけ、タ~ダめっし、うっれしいな~、アフタ~ファイブ~は、チョーごっきげ~ん、きょ~うもおっしごっと、が~んば~ろう~」
何かの替え歌らしいそれに室内は一瞬静まり返り、思わず上原は涙ぐんで目頭を押さえた。
「渡部さん……、真面目な社員だったのに。陰で蜂谷を操って、組合費の流用なんて……」
「課長、流用だなんて大袈裟な……。偶々組合のイベントが、彼女の好みに合致した物が多くなってきただけで。それに彼女は今でも、仕事熱心で真面目な社員ですから」
三課係長の富永が控え目にフォローしてきたが、上原の悲嘆は解消されなかった。
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シチュエーションボイス等のフリー台本集です。女性向けで書いていますが、男性向けでの使用も可です。
一人用の短い恋愛系中心。
【利用規約】
・一人称・語尾・方言・男女逆転などのアレンジはご自由に。
・シチュボ以外にもASMR・ボイスドラマ・朗読・配信・声劇にどうぞお使いください。
・個人の使用報告は不要ですが、クレジットの表記はお願い致します。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
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ちょっと大人な体験談です。
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サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
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独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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