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八月
7.大家族故の特殊事情
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幹事から納涼会の終了を告げられた参加者は、機嫌良くぞろぞろと店を出て一階まで下りて行き、美幸もごく親しい同期達と雑談をしながらビルを出て、何人かと別れの挨拶を交わした。
「少しアクシデントはあったけど、無事終わったわね」
腕時計で時間を確認しながら美幸が呟くと、隣に立っていた晴香が若干心配そうに声をかける。
「少し、ねぇ……。お姉さん、まだ連絡付かないんでしょ? 大丈夫?」
「う、うん……。子供じゃないんだし高須さんが一緒に居る筈だし、大丈夫なんじゃない?」
「そういえば、高須さんと藤宮のお姉さんって、以前から付き合ってたのか?」
総司が率直に疑問を呈してきた為、美幸は困った様に応じる。
「微妙? 公言はしていなかったの。でもお互いに好意を持っていた事は確実だし、時々二人で出かけたりしていたし」
「マジかよ……。それを知ってたら、山崎さんにちょっかい出させなかったのに……」
思わず頭を抱えて呻いた隆を、総司と晴香が生温かい目で見やる。
「確かにあの人の面目丸潰れよね。周囲に八つ当たりしそう」
「この場合八つ当たりの対象は、確実に部署が同じで藤宮と同期のお前だな。頑張れ」
「……勘弁してくれ」
「まあ、それはともかく帰ろうか」
「そうね。ええと、ここからだとどうやって帰ろうかな……」
苦悩する隆を放って帰宅する算段を立て始めた面々に、隆が慌てて顔を上げて主張する。
「あ、藤宮、家まで送って行く」
その申し出に、美幸はちょっと考えて変な顔をした。
「あれ? ここからだと私の家に回って行くと、田村君、遠回りにならない?」
「それ位どうって事ないぞ。それに」
「藤宮、ここに居たか。タクシーを捕まえたから送って行くから」
いきなり人垣の向こうから城崎が現れ、自分を探し当てて安堵した様に言ってきた内容に、美幸はもとより周囲の者達も面食らった。
「え? タクシーって、係長? 何もそんな事しなくても良いですよ?」
きょとんとして言い返した美幸だったが、城崎は一つ溜め息を吐いてから真顔で言い出す。
「あのな、今日、結構飲んでいただろう?」
その問いかけに、些かムキになりながら言い返す美幸。
「失礼ですね。確かに飲みましたが、ふらついたりしてませんよ? 前後不覚でもないですし」
「その、ボールとシューズを入れてあるキャリーバッグ。結構な重さが有るだろう?」
「それは確かに有りますが、引いて行く分には全く問題有りませんが?」
「さっき後ろから見てたら、自覚が無いようだったが少しふらついてた。それに手元が疎かになってバッグが蛇行したら、横や背後を歩く人にぶつかる可能性だってあるし迷惑だろうが。そういうわけだから、さっさとあのタクシーのトランクにバッグを入れるぞ」
城崎が捕まえたらしい、少し離れた路上に停車しているタクシーを指差しながら、『これ以上の口答えは許さん』的な表情と口調で主張された為、美幸は抵抗を諦めて素直に頷く。
「……はい、お願いします。じゃあ、皆。ごめんここで」
「分かったわ、気を付けて帰ってね」
「城崎係長って、お前の自宅の場所知ってるのか?」
「うん、これまでにも何回も送って貰ったし。それじゃあ」
総司の質問に律儀に答えてから、美幸は三人に手を振って城崎の後に付いて歩き出した。その直後、何やら二人が軽く言い合いをしてから、城崎が美幸のバッグを奪って引いて行き、手早くタクシーのトランクに入れて後部座席に彼女を押し込むところまで見て、晴香と総司がしみじみと口にする。
「何度も送って貰ったって、紳士だよね~、城崎係長」
「残念だったな、隆。なんか最近、不幸体質が染み付いている気がするが、まあ、頑張れ」
「……放っておいてくれ」
そして晴香と総司は項垂れた隆を慰めつつ、最寄駅までの道を歩き始めた。
「そういえば、美野さんと連絡は付いたのか?」
走り出したタクシーの中で、ボウリング大会の事を含む四方山話をしていた二人だったが、ふと思い出した様に城崎が確認を入れてきた。すると美幸が、心持ち顔を顰めて応じる。
「いえ、まだです。高須さんにも電話してみたんですけど……」
「まあ、確かにあんな風に飛び出した手前、二人とも恥ずかしいとは思うがな。特に高須は、月曜までに何とか平常心を取り戻して出勤して欲しいんだが。絶対、耳聡い課長代理にからかわれるだろうし」
「はあ、そうですね」
そこで城崎は、一層苦笑を深めて言葉を重ねた。
「美野さんもな……、目の前で別れた妹に、改まって外泊するとは言い難いかもしれないが」
「はあぁ!?」
いきなり目をむいて自分を凝視してきた美幸に、城崎は訳が分からず瞬きして問い返した。
「え? どうかしたのか? 藤宮」
「いいいいえっ!! 何でもありません! ちょっと突然思い出した事がありまして!」
「そうか?」
我に返った美幸が、ブンブンと両手を振って何でもないと必死にアピールしたため、城崎は不審そうにしながらもそれ以上の追及を止めた。その時タイミング良く誰かからのメールが届いたらしく、城崎が携帯電話を取り出して確認を始めた為、美幸は安堵しながら先程考えた内容を思い返す。
(外泊って……、帰宅しない可能性もあるって言う事? ……ええと、この場合高須さんと一緒なんだから、そういう事なのよね? いえ、ちょっと待って、そうじゃなくて。美野姉さんと高須さんがそういう関係になるって、いままで理解してたつもりで意識してなかったみたいなんだけど、高須さんとは机が隣同士だし、私こそ月曜にどういう顔で接すれば良いんでしょうか? 気恥しい上に、ちょっと気まずいんですけど!?)
半ば混乱しながら美幸は無言で隣に座る城崎を眺めたが、何やら手元を凝視して手早く文章を打ち込んでいる様子を見て、(相談しても「普通に仕事していろ」位で終わりそうだわ)と密かに肩を落とした。
それから二人で幾つか雑談をしているうちに、無事藤宮家の門前にタクシーが停車した。予めタクシー代は城崎持ちだと押し切られていた為、美幸は「ありがとうございました」と素直に礼を述べてから空いたドアから地面に降り立つ。そしてドアが閉まって走り出すかと思いきや、城崎もここまでの料金を支払って下りてしまった。
「え? 係長、このまま乗って行かないんですか?」
城崎がトランクからキャリーバッグを取り出し、元通りトランクを閉めるとほぼ同時に、タクシーは静かに走り去った。それと目の前に立つ相手を交互に見ながら美幸が不思議そうに尋ねると、城崎は苦笑しながら理由を述べる。
「タクシーに乗っていたら、ちょっと眠りそうだったんだ。何度か送って来た時に道は覚えたから、ここから駅まで十分位だろう? それなら歩いて酔いを醒ますには、ちょうど良い距離だ」
「寝そうならなおの事、タクシーに乗って帰れば良かったじゃないですか」
納得がいかない顔付きで美幸が見上げると、城崎がすこぶる真顔で見下ろしてくる。
「こんな図体の大きいのが後部座席で爆睡して起きなかったら、運転手が困るんだ。一度やらかして、運転手さんに凄い迷惑をかけた事がある」
思わずその場面を想像してしまった美幸は、脳裏で四苦八苦している運転手の姿に小さく噴き出した。
「やだ、係長ったら。笑わせないで下さい」
そんな彼女に、城崎は軽く片手を上げて笑って挨拶する。
「じゃあお疲れ、きちんと戸締まりはしろよ?」
「はい、お疲れさまでした」
そうして一礼してから、美幸は大きな木製の門を開けて敷地内に入った。そして無灯の母屋に向かってゆっくりと足を進める。しかしここで美幸は、唐突に違和感に襲われた。
(あれ? 何かいつもと違う感じ? どうしてだろう……。ええと……)
そして玄関の鍵を開けようと、ガラス戸の向こうに真っ暗な空間が広がる扉に鍵を差し込もうとした瞬間、美幸はとある事実に気が付いて無言で踵を返した。そしてキャリーバッグを放り出し、ハンドバッグに鍵を滑り込ませて、門から道路に出て城崎の後を追って勢い良く駆け出す。
「か、係長!!」
「……藤宮?」
駅に向かって駆け出した美幸は百メートルも行かないうちに、角を曲がってすぐの所で城崎の背中を見つけて声を張り上げた。のんびり歩いていた城崎はそれに驚いて足を止め、何事かと振り返るうちに美幸が息を切らせながら追いついてくる。
「あのっ! ちょっと待っ……」
そうして走ってきた為、乱れた息を整えようとしている美幸に、城崎は冷静に話しかけた。
「どうした。あのタクシーに何か忘れ物でもしたのか? どこの会社かの車かは覚えているから、今から問い合わせるか?」
「違います! 美野姉さんが居ないんです!」
顔を上げて勢い込んで言われた内容に、城崎は首を傾げた。
「いや、それは……、分かってた事だよな? さっきから連絡は取れていないし」
「実は今日、父が子会社の創立記念パーティーで大阪に行ってまして、姉夫婦と子ども達は私から分捕ったボーナスを使って、明日まで沖縄に家族旅行に行ってまして!」
「……そんな事も言ってたな。それで?」
新年度になってからの騒動を思い返し、思わず遠い目をした城崎に、美幸が唐突に訴えた。
「私、これまで夜に、家で一人で過ごした事が無いんです!」
「は?」
一瞬何を言われたのか分からなかった城崎に、美幸は尚も訴えかける。
「だってずっと実家で暮らしてましたし、姉は四人も居ますから誰かは居ましたし、姉二人が結婚してからもお義兄さんや姪や甥が居ましたし! どうすれば良いんですか!?」
「どうすればって……」
(ちょっと待て。本気で言ってるのか?)
最初は冗談かと思ったものの、あくまでも真顔で問いかけてくる美幸に、城崎は半ば途方に暮れながら応じた。
「別に、普通に過ごせば良いんじゃないか?」
「だって、押し込み強盗とか来たら!」
そんな緊迫感溢れる表情から、城崎は微妙に視線を逸らしながら冷静に告げる。
「この前のセクハラ親父と同様に粉砕しろ」
「じゃあ幽霊とか出てきたら? 拳、すり抜けちゃいますよ!?」
「落ち着け、藤宮。それだけ騒いでいれば、幽霊の方が遠慮する」
両手で美幸の両肩を軽く掴みながら、城崎が真顔で言い聞かせた。しかし美幸は泣き叫ぶ寸前の表情になる。
「係長酷い! 私、真剣なのにぃぃっ!」
「だから少し冷静になれ。今から美野さんが帰って来るかどうか微妙だし、取り敢えず今夜は一人でで留守番してみるしかないだろう。今言った様な事は、滅多に無いから大丈夫だから」
(どうしてこんなところで、お嬢様っぽい所が出てくるんだ……。いつもは下手すると、傍若無人なのに)
普段の美幸の行動を振り返って城崎が疲労感を増加させていると、急に表情を改めて何やら考え込んでいた美幸が、静かに問いを発した。
「少しアクシデントはあったけど、無事終わったわね」
腕時計で時間を確認しながら美幸が呟くと、隣に立っていた晴香が若干心配そうに声をかける。
「少し、ねぇ……。お姉さん、まだ連絡付かないんでしょ? 大丈夫?」
「う、うん……。子供じゃないんだし高須さんが一緒に居る筈だし、大丈夫なんじゃない?」
「そういえば、高須さんと藤宮のお姉さんって、以前から付き合ってたのか?」
総司が率直に疑問を呈してきた為、美幸は困った様に応じる。
「微妙? 公言はしていなかったの。でもお互いに好意を持っていた事は確実だし、時々二人で出かけたりしていたし」
「マジかよ……。それを知ってたら、山崎さんにちょっかい出させなかったのに……」
思わず頭を抱えて呻いた隆を、総司と晴香が生温かい目で見やる。
「確かにあの人の面目丸潰れよね。周囲に八つ当たりしそう」
「この場合八つ当たりの対象は、確実に部署が同じで藤宮と同期のお前だな。頑張れ」
「……勘弁してくれ」
「まあ、それはともかく帰ろうか」
「そうね。ええと、ここからだとどうやって帰ろうかな……」
苦悩する隆を放って帰宅する算段を立て始めた面々に、隆が慌てて顔を上げて主張する。
「あ、藤宮、家まで送って行く」
その申し出に、美幸はちょっと考えて変な顔をした。
「あれ? ここからだと私の家に回って行くと、田村君、遠回りにならない?」
「それ位どうって事ないぞ。それに」
「藤宮、ここに居たか。タクシーを捕まえたから送って行くから」
いきなり人垣の向こうから城崎が現れ、自分を探し当てて安堵した様に言ってきた内容に、美幸はもとより周囲の者達も面食らった。
「え? タクシーって、係長? 何もそんな事しなくても良いですよ?」
きょとんとして言い返した美幸だったが、城崎は一つ溜め息を吐いてから真顔で言い出す。
「あのな、今日、結構飲んでいただろう?」
その問いかけに、些かムキになりながら言い返す美幸。
「失礼ですね。確かに飲みましたが、ふらついたりしてませんよ? 前後不覚でもないですし」
「その、ボールとシューズを入れてあるキャリーバッグ。結構な重さが有るだろう?」
「それは確かに有りますが、引いて行く分には全く問題有りませんが?」
「さっき後ろから見てたら、自覚が無いようだったが少しふらついてた。それに手元が疎かになってバッグが蛇行したら、横や背後を歩く人にぶつかる可能性だってあるし迷惑だろうが。そういうわけだから、さっさとあのタクシーのトランクにバッグを入れるぞ」
城崎が捕まえたらしい、少し離れた路上に停車しているタクシーを指差しながら、『これ以上の口答えは許さん』的な表情と口調で主張された為、美幸は抵抗を諦めて素直に頷く。
「……はい、お願いします。じゃあ、皆。ごめんここで」
「分かったわ、気を付けて帰ってね」
「城崎係長って、お前の自宅の場所知ってるのか?」
「うん、これまでにも何回も送って貰ったし。それじゃあ」
総司の質問に律儀に答えてから、美幸は三人に手を振って城崎の後に付いて歩き出した。その直後、何やら二人が軽く言い合いをしてから、城崎が美幸のバッグを奪って引いて行き、手早くタクシーのトランクに入れて後部座席に彼女を押し込むところまで見て、晴香と総司がしみじみと口にする。
「何度も送って貰ったって、紳士だよね~、城崎係長」
「残念だったな、隆。なんか最近、不幸体質が染み付いている気がするが、まあ、頑張れ」
「……放っておいてくれ」
そして晴香と総司は項垂れた隆を慰めつつ、最寄駅までの道を歩き始めた。
「そういえば、美野さんと連絡は付いたのか?」
走り出したタクシーの中で、ボウリング大会の事を含む四方山話をしていた二人だったが、ふと思い出した様に城崎が確認を入れてきた。すると美幸が、心持ち顔を顰めて応じる。
「いえ、まだです。高須さんにも電話してみたんですけど……」
「まあ、確かにあんな風に飛び出した手前、二人とも恥ずかしいとは思うがな。特に高須は、月曜までに何とか平常心を取り戻して出勤して欲しいんだが。絶対、耳聡い課長代理にからかわれるだろうし」
「はあ、そうですね」
そこで城崎は、一層苦笑を深めて言葉を重ねた。
「美野さんもな……、目の前で別れた妹に、改まって外泊するとは言い難いかもしれないが」
「はあぁ!?」
いきなり目をむいて自分を凝視してきた美幸に、城崎は訳が分からず瞬きして問い返した。
「え? どうかしたのか? 藤宮」
「いいいいえっ!! 何でもありません! ちょっと突然思い出した事がありまして!」
「そうか?」
我に返った美幸が、ブンブンと両手を振って何でもないと必死にアピールしたため、城崎は不審そうにしながらもそれ以上の追及を止めた。その時タイミング良く誰かからのメールが届いたらしく、城崎が携帯電話を取り出して確認を始めた為、美幸は安堵しながら先程考えた内容を思い返す。
(外泊って……、帰宅しない可能性もあるって言う事? ……ええと、この場合高須さんと一緒なんだから、そういう事なのよね? いえ、ちょっと待って、そうじゃなくて。美野姉さんと高須さんがそういう関係になるって、いままで理解してたつもりで意識してなかったみたいなんだけど、高須さんとは机が隣同士だし、私こそ月曜にどういう顔で接すれば良いんでしょうか? 気恥しい上に、ちょっと気まずいんですけど!?)
半ば混乱しながら美幸は無言で隣に座る城崎を眺めたが、何やら手元を凝視して手早く文章を打ち込んでいる様子を見て、(相談しても「普通に仕事していろ」位で終わりそうだわ)と密かに肩を落とした。
それから二人で幾つか雑談をしているうちに、無事藤宮家の門前にタクシーが停車した。予めタクシー代は城崎持ちだと押し切られていた為、美幸は「ありがとうございました」と素直に礼を述べてから空いたドアから地面に降り立つ。そしてドアが閉まって走り出すかと思いきや、城崎もここまでの料金を支払って下りてしまった。
「え? 係長、このまま乗って行かないんですか?」
城崎がトランクからキャリーバッグを取り出し、元通りトランクを閉めるとほぼ同時に、タクシーは静かに走り去った。それと目の前に立つ相手を交互に見ながら美幸が不思議そうに尋ねると、城崎は苦笑しながら理由を述べる。
「タクシーに乗っていたら、ちょっと眠りそうだったんだ。何度か送って来た時に道は覚えたから、ここから駅まで十分位だろう? それなら歩いて酔いを醒ますには、ちょうど良い距離だ」
「寝そうならなおの事、タクシーに乗って帰れば良かったじゃないですか」
納得がいかない顔付きで美幸が見上げると、城崎がすこぶる真顔で見下ろしてくる。
「こんな図体の大きいのが後部座席で爆睡して起きなかったら、運転手が困るんだ。一度やらかして、運転手さんに凄い迷惑をかけた事がある」
思わずその場面を想像してしまった美幸は、脳裏で四苦八苦している運転手の姿に小さく噴き出した。
「やだ、係長ったら。笑わせないで下さい」
そんな彼女に、城崎は軽く片手を上げて笑って挨拶する。
「じゃあお疲れ、きちんと戸締まりはしろよ?」
「はい、お疲れさまでした」
そうして一礼してから、美幸は大きな木製の門を開けて敷地内に入った。そして無灯の母屋に向かってゆっくりと足を進める。しかしここで美幸は、唐突に違和感に襲われた。
(あれ? 何かいつもと違う感じ? どうしてだろう……。ええと……)
そして玄関の鍵を開けようと、ガラス戸の向こうに真っ暗な空間が広がる扉に鍵を差し込もうとした瞬間、美幸はとある事実に気が付いて無言で踵を返した。そしてキャリーバッグを放り出し、ハンドバッグに鍵を滑り込ませて、門から道路に出て城崎の後を追って勢い良く駆け出す。
「か、係長!!」
「……藤宮?」
駅に向かって駆け出した美幸は百メートルも行かないうちに、角を曲がってすぐの所で城崎の背中を見つけて声を張り上げた。のんびり歩いていた城崎はそれに驚いて足を止め、何事かと振り返るうちに美幸が息を切らせながら追いついてくる。
「あのっ! ちょっと待っ……」
そうして走ってきた為、乱れた息を整えようとしている美幸に、城崎は冷静に話しかけた。
「どうした。あのタクシーに何か忘れ物でもしたのか? どこの会社かの車かは覚えているから、今から問い合わせるか?」
「違います! 美野姉さんが居ないんです!」
顔を上げて勢い込んで言われた内容に、城崎は首を傾げた。
「いや、それは……、分かってた事だよな? さっきから連絡は取れていないし」
「実は今日、父が子会社の創立記念パーティーで大阪に行ってまして、姉夫婦と子ども達は私から分捕ったボーナスを使って、明日まで沖縄に家族旅行に行ってまして!」
「……そんな事も言ってたな。それで?」
新年度になってからの騒動を思い返し、思わず遠い目をした城崎に、美幸が唐突に訴えた。
「私、これまで夜に、家で一人で過ごした事が無いんです!」
「は?」
一瞬何を言われたのか分からなかった城崎に、美幸は尚も訴えかける。
「だってずっと実家で暮らしてましたし、姉は四人も居ますから誰かは居ましたし、姉二人が結婚してからもお義兄さんや姪や甥が居ましたし! どうすれば良いんですか!?」
「どうすればって……」
(ちょっと待て。本気で言ってるのか?)
最初は冗談かと思ったものの、あくまでも真顔で問いかけてくる美幸に、城崎は半ば途方に暮れながら応じた。
「別に、普通に過ごせば良いんじゃないか?」
「だって、押し込み強盗とか来たら!」
そんな緊迫感溢れる表情から、城崎は微妙に視線を逸らしながら冷静に告げる。
「この前のセクハラ親父と同様に粉砕しろ」
「じゃあ幽霊とか出てきたら? 拳、すり抜けちゃいますよ!?」
「落ち着け、藤宮。それだけ騒いでいれば、幽霊の方が遠慮する」
両手で美幸の両肩を軽く掴みながら、城崎が真顔で言い聞かせた。しかし美幸は泣き叫ぶ寸前の表情になる。
「係長酷い! 私、真剣なのにぃぃっ!」
「だから少し冷静になれ。今から美野さんが帰って来るかどうか微妙だし、取り敢えず今夜は一人でで留守番してみるしかないだろう。今言った様な事は、滅多に無いから大丈夫だから」
(どうしてこんなところで、お嬢様っぽい所が出てくるんだ……。いつもは下手すると、傍若無人なのに)
普段の美幸の行動を振り返って城崎が疲労感を増加させていると、急に表情を改めて何やら考え込んでいた美幸が、静かに問いを発した。
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