猪娘の躍動人生~二年目はガチンコバトル

篠原 皐月

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六月

1.忠犬ハチの誕生

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 資料のファイリングに一区切りつけた美幸が何気なく顔を上げると、五月蠅くない程度にざわついている室内で、妙に静まり返っている場所が目に付いた。そこを数秒凝視してから、隣の席の理彩に控え目に声をかける。

「……仲原さん」
「何?」
「仕事、捗りますね」
「そうね」
「何気ない日常が幸せなんだって、最近漸く実感できました」
 そこで理彩はキーボード上で走らせていた両手の動きを止め、美幸にやや引き攣り気味の笑顔を向けながら応じた。

「……それを二十代前半で実感できたんだから、幸運なんじゃない?」
「そうですね」
 そうして何事も無かったかの様に理彩は仕事を再開したが、美幸は卓上カレンダーを眺めてから、再び理彩に声をかけた。

「仲原さん」
「何?」
「今日は金曜日ですよね?」
「だから何?」
「普通金曜の夜から半月って言ったら、土曜日起算だと思います? それとも欠勤の観点からすると、月曜からの起算でしょうか?」
「……さあね。各人の解釈次第じゃない?」
 美幸の言わんとする内容は十分分かったものの、理彩はひたすらディスプレイとキーボードを凝視し続けながら、素っ気なく答えた。しかし美幸は尚も話し続ける。

「それに半月って言っても、それが実際二週間なのか十五日なのか、判断が微妙で」
「さっきからゴチャゴチャゴチャゴチャ五月蠅いわね! こっちはわざと考えない様にしているのに、何でわざわざその話題を出すのよっ!?」
 そこでいきなり机を拳で叩きつつ怒鳴りつけてきた理彩に、周囲の者達は驚いて二人に視線を向けたが、美幸は負けじと言い返した。

「だって気になるんだから、しょうがないじゃないですか!! 仲原さんは気にならないんですか?」
「気になってしょうがないから、考えない様にしてるんでしょうが! 大体黒幕はあんたの義兄でしょう? そっちに聞きなさいよ!」
「聞きましたけど『後は他の連中に任せたから、どこまで矯正できたか分からないんだ。奴が復帰したらレポートしてくれないか?』と逆に頼まれて、三日前からハンディカメラ持参で出勤しているんですが、なかなかあいつが出社して来ないので……」
 そう言って机の引き出しにしまってあったハンディカメラを「これですけど」と言いつつ取り出して見せた美幸に、理彩は深い溜め息を吐いた。

「……思った以上に情け容赦ない人間だったのね、藤宮」
「酷っ! 何でそこまで言われなくちゃいけな」
「おはようございます!!」
 そこで突然ドア付近から力強い挨拶の声が響いて来た為、美幸と理彩は口を閉ざしてそちらに視線を向けた。そして声の主と思われる人物を認めた二人は限界まで目を見開き、どちらからともなく顔を寄せて囁き合う。

「え? だ、誰?」
「ひょっとして……、ひょっとしなくても、蜂谷?」
「そう、よね。でも、今『おはようございます』とか言った?」
「確かにまだ十時過ぎですから、挨拶としてはおかしくないですが、奴なら『おはよう~っす』がせいぜいじゃ……」
 顔は見覚えがあったものの、後ろは襟足が完全に隠れ、前髪は横に流していた長めの髪は丸刈り状態で原型を留めず、ヨレヨレでだらしない印象しかなかったワイシャツの襟はきちんとアイロンと糊がかけてあるのが一目瞭然であり、きつく締められたネクタイもきりっとした印象を与えていた。加えてスラックスの折り目も革靴の光沢も完璧で、失踪以前の彼とは別人としか思えない出で立ちに、美幸達以外の企画推進部の面々も驚きのあまり、思わず仕事の手を止める。
 途端に不気味に静まり返った室内を、蜂谷と思われる人物は真っ直ぐ真澄の元へと進み、課長席の横に立って九十度に近い最敬礼をしながら、彼女に謝罪した。

「長々と無断欠勤をいたしまして、誠に申し訳ありません。新人にあるまじき行為だと、猛省しております。以後決して、この様な事は致しませんので、平にご容赦下さい」
 以前とは打って変わって殊勝過ぎる物言いに、部内全員自分の目と耳を疑ったが、同様である筈の真澄は、表面上は平然と頷いて言葉を返した。

「……いえ、確かに無断欠勤は問題ですが、蜂谷さんだけが責めを負う状況では無いと思われますし、今回は特別に部長が出勤扱いにして下さっていますので、社内ではその様に振る舞って下さい」
「ご厚情、ありがとうございます。……それに部長! 不肖なるこの身に過剰なご配慮、お礼申し上げます! これから企画推進部の為、身を粉にして働く所存でございますので、今後も何卒宜しくお願います」
「お、おう……、頑張ってくれたまえ」
「はいっ!」
 素通しの壁越しに室内の異常さを認め、思わず部長室から出てきた谷山に向かって蜂谷は再度頭を下げ、谷山は幾分引きながらも鷹揚に頷いて見せる。そのやり取りを見て、室内のそこかしこから疑念の声が上がった。

「あれ、本当に蜂谷か? 別人だろ」
「整形手術で、蜂谷の顔にしたとか?」
「でも声も同じだぞ?」
「実は一卵性双生児とかで、廊下にドッキリカメラとか無いか?」
 そんなざわつき出した周囲をよそに、蜂谷は真澄に向かって一歩足を踏み出してから、とんでもない事を言い出した。

「これから二課で誠心誠意、女神様にお仕えさせて頂きます。ご主人様からくれぐれも粗相のない様に女神様に奉仕しろと、言いつかっておりますので」
 その爆弾発言で室内は再び水を打った様に静まり返り、真澄は盛大に顔を引き攣らせながら、にこにこと邪気の無い笑顔を見せている蜂谷を詰問した。

「……蜂谷さん? ご主人様って、ひょっとして清人の事かしら?」
「ご主人様のお名前を口にするだけでも恐れ多いですが、その通りでございます」
「それで……、女神って、もしかして私の事?」
「勿論です! ご主人様の女神様は、俺にとっても史上最高の女神様ですっ!!」
「…………」
 力強く主張した蜂谷から目を逸らし、真澄は机に肘を付いて無言で額を押さえた。そして室内の全員が真澄に生温かい視線を向けていると、蜂谷が唐突に問いを発する。

「ところで女神様、一つお尋ねしても宜しいでしょうか?」
「あの……、その『女神様』って言うのは、止めて貰えないかしら?」
「女神様、犬の名前と言ったら、どんな名前を思い浮かべますか?」
 真顔で問いを重ねた蜂谷に、真澄は溜め息を吐きつつ首を傾げた。

「私の話、聞いていないわね。……でも、犬の名前? どうしてそんな事を?」
「それでは1、2の、3、はい。どうぞ!」
「……ポチ」
 戸惑いつつ真澄が思わず漏らした言葉に、室内に居た人間の殆どは椅子に座ったままずっこけた。しかし美幸は険しい顔付きで反射的に立ち上がりながら、怒りの声を上げる。

「課長! ポチって何ですかポチって!!」
「な、何かまずかった? だって『う~らの畑で、ポチが鳴く~』って言うじゃない?」
「納得出来ません! 課長位セレブな方が飼う犬の名前なら、カールとかウォルフとかジャスティンとかグリードとかですよねっ!?」
「そ、そんな事言われても……。これまで犬は飼ったことは無いから、咄嗟に思い付かなくて」
「やっぱり花咲爺さんか……」
「課長、渋いです」
 美幸に責められて真澄がオロオロするのを見て、周囲が疲れた様に顔を見合わせる中、蜂谷だけは嬉々として叫んだ。

「ポチ!? 何と崇高な忠犬の響き! 女神様! この蜂谷、あなたの為ならこの身を灰にしても、枯れ木に花を咲かせてみせましょう!」
 そう言って自分の右手をガシッと両手で掴んだ蜂谷に、真澄は狼狽気味に反論した。

「ちょっと待って蜂谷さん! 灰になったら死ぬから、それは駄目だから!」
「駄目ですか? それなら他にどんな名前が良いでしょうか?」
「ど、どんな名前と言われても……」
「さあ、3、2、1、キューッ!」
 目の前に片手を差し出されてカウントダウンされた為、真澄は思わず脳裏に浮かんだ名前を口走った。

「……ハチ」
 それを聞いた面々は揃って遠い目をする。

「ハチか……」
「そうだよな、ポチときたらハチだよな……」
「まあ、響きは可愛いな」
「どっちも忠犬で名高いし」
 年長者達はそれなりに納得したが、美幸の怒りと蜂谷の歓喜の叫びは益々ヒートアップした。

「課長ぉぉっ!! 何っでハチ公なんですか!?」
「ごめんなさい! 本当に咄嗟に思い付かなくて!」
「素晴らしい! 蜂谷に通じるその呼び名、流石女神様! ハチは死ぬまであなたの下僕です! あの銅像になった忠犬の如く、朝な夕なあなたをお出迎えしてお見送りする事を、ここに誓います!」
「蜂谷さん! そんな事を誓わなくて良いから!」
 そこで蜂谷が床に跪き、真澄の左足首を掴み上げた為、ニ課の面々は流石に傍観できず、二人を引き剥がしにかかった。

「あ、こら! あんた何どさくさに紛れて課長の足を掴んでんのよ! 今すぐ離しなさい!」
「蜂谷、おい、錯乱するな!」
「課長の足から手を離せ!」
「嫌です! 俺は忠誠の証に、女神様に踏みつけて貰って来る様に、ご主人様に厳命されているんです! さあ、女神様! フットレスト代わりに俺の背中を踏んで下さい!」
「…………え?」
 これ以上は無い位真剣な顔付きで訴えられた真澄は、ピクッと頬を引き攣らせたが、蜂谷はしっかりと真澄の足首を握り締めたまま床にうずくまった。

「もう良いから、課長から離れろ蜂谷!」
「何なんだ、その無茶苦茶な指令はっ!!」
 呆れ果てながら城崎を筆頭として何人かが蜂谷を引き剥がそうとすったもんだしているうちに、とうとう怒りが振り切れた真澄が、こめかみに青筋を浮かべながら鋭い怒声を放った。

「一同起立!」
 滅多に大声を張り上げる事の無い真澄の号令に、蜂谷は勿論しゃがみ込んでいた他の面々も反射的に立ち上がった。すると間を置かずに次の指令が出る。

「礼!」
 流石にそれには蜂谷だけが背筋を伸ばしたまま九十度の礼をしたが、真澄は憤怒の形相のままたたみかけた。

「着席!」
 そして素早く床に座り、膝を抱えて体育座りになった蜂谷を、立ち上がった真澄が、上から見下ろしつつ声をかける。

「……蜂谷さん」
「いえ、女神様、俺の事はハチと」
「お黙り。これ以上口答えするなら、あなたが言う所の『ご主人様』に再教育して貰うわよ? 人の話は黙って聞きなさい。分かりましたか?」
 真澄が冷酷な口調でそう告げると、蜂谷は顔色を無くして無言のまま千切れんばかりに首を縦に振った。その動きが止まってから、真澄が淡々と話を再開する。

「私は職場内では、年上だろうが年下だろうが、名字に『さん』付けで名前を呼んでいます。もしくは、役職に就いている人は名前プラスその役職名で。これは入社以来一貫している私のポリシーです。ですから私は、あなたの事を『蜂谷さん』と呼びます。誰にも文句は言わせません。それに、私の事は女神様などと呼ばないで、柏木課長と呼ぶように。分かりましたね?」
「ですが女神様!」
 そこで尚も抵抗する様に、顔を上げて反論しかけた蜂谷に向かって、真澄は不気味な笑みを浮かべながら囁いた。

「蜂谷さん? もう二週間、家に泊まり込みたい? あなたは既にここに入室してから、私の業務を十分程妨害していますが?」
 それを聞いた蜂谷は弾かれた様に立ち上がり、直立不動で見事な敬礼をしてみせた。

「了解しました、柏木課長! 私の事は是非とも『蜂谷さん』とお呼び下さい!」
「宜しい。……それでは城崎係長」
 蜂谷に重々しく頷いてから、真澄は至近距離に居た城崎に声をかけた。それに城崎が即座に応じる。

「はい、課長。何でしょうか」
「申し訳ないけど……、蜂谷さんにできそうな業務を割り振って指導をして貰えないかしら? それと、ちょっと疲れたので医務室で一時間程休んで、そのまま昼休憩に入ってから戻りますので」
「了解しました。どうぞごゆっくり」
 全身から精神的な疲労感を漂わせている上司の申し出に、城崎は拒否できる筈もなく、軽く頭を下げて部屋を出て行く彼女を見送った。それからやる気を漲らせて自分を凝視している蜂谷にチラリと視線を向けてから、ゆっくりと美幸に向き直って声をかけた。

「藤宮さん。蜂谷にやらせても大丈夫そうな仕事はあるかな? 悪いがもう少ししたら出ないといけないので、監督して貰いたいんだが」
「はぁ……。それでは皆さんから集まっていた年内中のスケジュールの纏めと、取引先データの分類作業等ではどうでしょうか?」
「それで構わない。宜しく頼む」
 色々言いたい事はあった美幸だったが、申し訳無さ全開の表情で依頼してきた城崎に、素直に頷いてみせた。するとその横から、蜂谷が殊勝な顔付きで頭を下げる。

「藤宮先輩。先だっての失礼千万の数々、お許し下さい。今後は何事も先輩の指示に従います」
 それを見た美幸はムラムラと怒りが再燃してきたが、表面的には何気ない口調で念を押してみた。

「本当に……、私の言う事を何でも聞くの?」
「はい!」
 力一杯断言した蜂谷だったが、それを美幸は冷め切った目つきで眺めた。

(どうだか……、あれがどう変わったって言うのよ。信用できるもんですか。特大の猫かぶりが上手くなっただけじゃないの!? さっきは流石に驚いたけど、大袈裟に『女神様』なんて言って結果的に課長をげっそりさせてたし、攻め方を変えただけって可能性も……。そっちがその気なら、化けの皮を剥がしてやろうじゃない!)
 頭の中でそんな事を考えた美幸は、自分の一番近くにあった瀬上の机上から消しゴムを取り上げ、思いっきり部屋の向こうに投げながら告げた。

「それじゃあ……、取って来~い、な~んて」
「はいっ!!」
「……え?」
「藤宮! お前何を!?」
 美幸としては「何をさせる気だ!」とか怒り出すと思ったのだが、蜂谷はそれに反して気合い満々で短く叫んだかと思うと、宙を舞った消しゴムを追って駆け出した。
 勝手に消しゴムを取られた瀬上は目を丸くしたが、美幸も予想外の展開に固まる中、一課の机の並びを飛び越えてポン、ポンと小さく跳ねながら転がった消しゴムに向かって、蜂谷が勢い良くスライディングする。そして突き当たりの部長室の透明な強化アクリル板に蜂谷の足が激突し、そこがボコッと嫌な音を立てて歪んだのが遠目にも見て取れたが、本人はそんな事は全く意に介せず、受け止めた消しゴムを掴んで美幸の元に駆け戻って来た。

「藤宮先輩、お待たせしました、どうぞ!」
「……あ、あり、が、と」
「藤宮先輩! 俺に遠慮無く次の仕事を下さい! 何でもやります! 心置きなく、さあ、どうぞ!」
「え、えっと、じゃあ……、遠慮無く、やって貰おうかな? はは、あははっ……」
 蜂谷から受け取った消しゴムをさり気なく瀬上の机に戻した美幸は、蜂谷の期待に満ち溢れた視線と、他の面々の呆れと疲労感をない交ぜにした視線を受けながら、何とか笑顔を取り繕った。
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