猪娘の躍動人生~二年目はガチンコバトル

篠原 皐月

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四月

4.背後関係

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 社員食堂からニ課に戻ろうとエレベーターに乗り込んだ美幸は、その奥からかかった能天気な声に、心の中で瞬時に警戒レベルを最大限まで引き上げた。

「あら、真澄の所のカワイ子ちゃんじゃない! 偶然ね~」
「……お久しぶりです。夏木係長」
「ちょっとこっちにいらっしゃい?」
「はぁ……、失礼します」
 昨秋、課長である真澄がキレた際、一緒になって清川総務部長にトドメを刺した人物の一人である彼女とは、正直あまり関わり合いになりたく無かったが、笑顔で手招きされてしまった為、周囲に頭を下げつつ慎重に近寄った。するといきなり腕を取られて引き寄せられ、隅に身体を押し付けられる。

「ぅえっ!?」
「ふふっ……、やっぱり若い子は良いわねぇ、お肌がスベスベ。二十五から頑張ったけど、やっぱり肌の張りを保つのは難しいわぁ」
 頬を撫でられながら至近距離から囁かれた美幸は、何とか引き攣った笑みを浮かべながら、お世辞を口にした。

「夏木係長の肌年齢は、実年齢より相当お若いかと……」
「いやぁ~ん、嬉しいわぁ~。うちの職場はおっさんばかりで、そんな可愛い事、言ってくれないのぉ~」
「そうですか……」
 嬉々としていきなり美幸に抱き付いた裕子を見て、エレベーターに乗り合わせた社員達はドン引きして後退し、美幸達の周りに不自然な空間が空いた。一方で相手をどう引き剥がそうかと思案していた美幸は、何かが胸元から上着の内側に差し込まれたのを感じた。

(え? 何? 布か紙っぽいけど)
 それを落とさない様に反射的に右腕でジャケットを押さえて戸惑う美幸の耳元で、彼女にだけ聞こえる声で裕子が囁いた。

「しっ! 今懐に入れた物、城崎係長に渡すのよ。他の人、勿論真澄にも知られずにね」
「は?」
「じゃあね~。う~ん、英気養っちゃった~」
 そして言うだけ言ってあっさり体を離した裕子は、目的階に到着したらしく陽気に手を振りながら、エレベーターを降りて行った。そして美幸は上着の内側の感触を再確認しつつ、呆然と彼女の背中を見送る。

(何だったの? 今の……)
 周囲からの好奇心に満ちた視線を受けながら美幸もエレベーターを降り、二課の自分の席に戻ってから、周囲には気付かれない様にジャケットの下から無記名の白い封筒を引っ張り出した。

(訳が分からないけど、取り敢えず言われた通り渡してみよう)
 そして美幸は手早く事情を一枚の紙に書き、もう一枚の白紙との間に封筒を挟み、それをクリアファイルに入れて立ち上がった。

「係長、今宜しいですか?」
「藤宮さん? 何か」
「こちらのチェックをお願いします」
「これは……」
 仕事中の城崎に歩み寄りクリアファイルを差し出すと、当然心当たりの無い城崎は怪訝な顔をした。しかし「何だ?」と続ける前に、一番上の紙に記載された《理由は不明ですが、人事部の夏木係長に、課長にも内密に中の封筒を係長に渡すように言付かりました。確認お願いします》に素早く目を走らせた城崎は、余計な事は言わずにそれを受け取った。

「分かった。内容を確認しておく」
 そして美幸が一礼して席に戻ってから、城崎は周囲の様子を窺いつつ慎重に開封して中の確認を始めたが、さほど時間を要さずにその顔が渋面になった。
 その日、終業後に真澄と蜂谷を除くニ課の面々は社屋ビル近くの居酒屋に集合していたが、乾杯直後から理彩が個室の外まで響き渡る叫びを発しまくっていた。

「バッキャロー! ふざけんな、あのスットコドッコイがぁぁっ!! 人を舐めくさるのもいい加減にしやがれってんだ!」
「そうですよね。あいつの暴言吐きっぷりと、仕事のできなさっぷりと、常識の無さっぷりは仲原さんの次に私が分かってます。仲原さんが一番の被害者ですよ。ささ、気分直しにもう一杯どうぞ」
 全面的に賛同し、ビール瓶を傾けて自分のグラスにお酌する美幸を見て、理彩は思わず涙ぐんだ。

「藤宮っ……、あんたって、実は良い奴よね。生意気で猪突猛進で無神経で傍若無人だけど、十分仕事はできるし礼儀作法は心得てるしデッドラインは弁えてるし。あんな穀潰しとは月とスッポンよ!」
「一部、微妙な表現がありましたが、お褒め頂きありがとうございます」
 ここは大人しく礼を述べておこうと判断した美幸が真顔で頭を下げると、理彩がグラスを勢い良く座卓に置きながら喚いた。

「だっ、大体ね! あのボケの指導で滞ってる業務と、ヘマをやらかした後始末の為に残業してるってのに、『また残業っすか。メイク直しの時間を減らせば定時に帰れますよ?』とか、『女の仕事はやっぱりだらけてるよな』とか何様のつもりよっ!!」
「全くです。『てめぇに残業させたら益々長引いて帰れなくなるから、さっさと帰れ』って暗に言ってる事すら、絶対分かって無いですよ。今日の歓迎会も都合を聞いたら『俺、掃き溜め部署の人間と慣れ合うつもりないんで』って、一蹴ですよ!? 無礼にも程がありますっ!!」
 女二人の悪態を周囲の男達は誰も止める気は無く、歓迎会が流れて愚痴り会となってしまったこの場をどう収めようかと、黙って飲みながら成り行きを見守っていた。しかし理彩の訴えが、まだまだ続く。

「他にもっ……、『あんな腹ボテ課長の下で働いてるなんて、あんたらロクな仕事してないだろ?』とか、『あの課長じゃ色仕掛けは無理だろうな。あんたも年いってるから難しいだろ、大変だな』とか、『おっさん達は脅して仕事取ってくるのは得意そうだがな』とか」
「そんな事言ってたんですか? あの屑野郎っ!? 仲原さん、まさか黙って聞いてたわけじゃ無いでしょうね?」
「黙ってるわけ無いでしょ!? その都度指導したわよ! だけどニヤニヤ笑いながら一応口先だけは『分かりました、以後気をつけます』とかほざきやがって……。ぐわぁぁっ!! 殴って蹴り飛ばして階段から突き落としたいぃぃっ!!」
「ちょっ、仲原さん、落ち着いて下さいっ!!」
「大丈夫ですか!?」
 そこで理彩が錯乱した様にお絞りやメニューなどを手当たり次第に壁に向かって投げつけた始めた為、美幸は慌ててその腕を掴んで押さえ込み、周囲の者は理彩の手が届く範囲の小鉢や皿を素早く確保して、破壊行為に及ばない様にした。そして美幸に腕を押さえられたまま、理彩が呻くように告げる。

「あの野郎……、平然と『やった事が無いからできません』とかほざくのよ? 人間だって生まれてオギャーッて叫んでから肺呼吸を始めるってのに、てめぇは生まれたての赤ん坊以下かっ!!」
「そうですよね~、もはや人間ですらあり得ませんよね~、単細胞生物ですよね~」
 そこで理彩を宥めるように美幸が相槌を打つと、理彩が再び目を潤ませて美幸に向き直った。

「ふぅっ……、と、とおのみやぁ~」
「はいはい、次、何を飲みますか?」
「しげ田」
「ああ、日本酒ですね。分かりました」
 理彩に抱きつかれながらボソッと言われた名前に、(最近女性に抱きつかれるのが多いなぁ)とどうでも良い事を考えながら、美幸は高須に声をかけた。

「高須さん、お願いします」
「分かった」
 そして呼び出しボタンを押して店員に注文を伝える高須の横で、村上が頭を抱えながらしみじみと述べた。

「仲原君、相当きてるな。偶に様子を見てても彼の態度の悪さと能力の低さについては、目を覆うものがあるが」
「それに関して、皆さんにちょっと報告があります」
「係長?」
 先程まで苦虫を噛み潰した様な表情で、黙って飲んでいた城崎が唐突に口を開いた事で皆驚いたが、素面に見える城崎は引き寄せた鞄から用紙の束を取り出し、二課の面々に配り始めた。

「これを見て下さい。人数分コピーしてあります。今日の昼に、藤宮が人事部の夏木係長から、秘密裏に手渡された物ですが」
「あ、それ、結局何だったんです? それにどうしてあんな変な渡し方を。社内メールじゃ駄目なんですか?」
 理彩を引き剥がしつつ美幸が城崎の台詞を遮ると、城崎は疲れた様に解説した。

「職場の自分のPCからだと足が付く可能性があるのと、スパイごっこがしたかったからじゃないのか? あの人は課長の大学時代からの友人で、在学中課長とは違った意味有名だったし」
「どんな風に有名だったんですか?」
 その話題を城崎はかなり強引に打ち切り、最後に女二人にコピーを配った。

「……今は関係無いから。ほら、仲原も一応目を通してくれ」
「はぁ」
「分かりました」
 そして美幸と理彩が目を通し始めたが、先に内容を確認していた面々から、呆れと怒りの呻き声が上がった。

「何ですか。在学時の、このとんでもない低レベルの成績は? これで柏木産業の入社試験に受かる筈無いでしょう!?」
「ちょっと待って下さい。初期研修終了時の評価でも、全ての項目で最低ランクですよ? こんなのを第一線で働かせようなんて、正気ですか!?」
「え? どういう事ですか?」
 思ったまま口に出したのは高須と瀬上だけで、年長者は辛うじて無言を保ったが、顔付きを見れば二人と同じ心境で有ることが明白だった。慌てて美幸が内容を確認し始めると、バサバサと横で斜め読みしていた理彩が、吐き捨てる様に断言する。

「藤宮、これは露骨な縁故採用だわ。一番最後に手書きで『なお、蜂谷は鍋島常務夫人の甥に当たる人物である』と追記されてるもの。恐らく青木係長が付け加えたのよ」
「縁故採用って……、何ですか、それはぁぁっ!!」
「読めたわ。これは露骨なニ課潰しね」
「どうしてですか?」
 思わず怒りの叫びを上げた美幸だったが、理彩が冷静に指摘してきた内容に戸惑いの声を漏らす。するとこれまでの経験上、社内派閥の粗方を把握している理彩が、懇切丁寧に美幸に解説を始めた。

「去年、社長派浩一課長推進派急先鋒の清川総務部長が病気療養で休職して、ここの所柏木課長を目の敵にしてる連中が大人しくなってたのよ。それでそろそろ、また嫌がらせをしたくなったわけ」
「意味が分かりません」
 思わず眉間に皺を刻んだ美幸に、理彩は小さく肩を竦めてから話を続けた。

「鍋島常務は奥様から、出来の悪い甥っ子の就職斡旋を頼まれて困っていた。そして人事部の岩倉部長を抱き込んで、データを改ざんして入社させる事には成功したものの、初期研修でも芳しい結果は出ない」
「出るわけ無いですよ、あれじゃあ!」
「配属先は初期研修の成績で上位から優先的に希望の部署に割り振られるから、当然あいつは希望の多い部署には取って貰えない。それで人気の無いここに押し込んだわけ。二次的な効果も見込んでね」
「何を見込んだって言うんですか?」
 怪訝な顔付きになった美幸に、理彩は不愉快極まる表情で告げた。

「当然、あいつのダメダメっぷりのせいで、ニ課の仕事に支障が出る事よ。加えてあいつの不手際やミスが原因で会社の業務に影響が出たなら、課長の管理責任を問う気満々でしょうね」
「はぁ? 何をふざけた事言ってるんですか!?」
「あくまで推測よ推測! だけどあまり的を外してはいないと思うわ。この間、あいつの言動を観察していたけど、どうも少し我慢すればここを出られると思っている風情なのよね。大方鍋島常務辺りに『取り敢えずニ課に入れるが、二課で何か問題が起きたらそれを理由に他に回してやるから』とか、言い含められているかも」
 深刻な表情で理彩が可能性に言及すると、美幸も真顔になってあまり嬉しくない考えを口にした。

「もしくは……、あいつ自身が何か二課で問題を起こす様に、常務から指示を受けているとか?」
「それも有り得るわね……」
 そこで理彩と美幸が沈鬱な顔を見合わせて黙り込むと、それを契機に年長者達がざわめき出した。
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