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シトシト嫉妬oh shit
第三話 海月
しおりを挟むザリ・・・ザリ・・・カチャン・・・
放課後、美術室、筆とキャンバスの音・・・黒髪の男子生徒が一人、黙々と絵を描いていた。特に愛校心を持っていないのか、単にがさつな性格なのか、制服のブレザーを教室の端の机に上下逆で載せられた椅子の上に雑に脱ぎ捨てている。腕まくりをした白い長袖シャツの上に、絵の具が服に付着するのを防ぐ白いエプロンを着ていた。
絵を描いているのだからもちろん、両手にはパレットと筆。
六時間目の授業が終了して数時間経過し、彼のいる部室棟は生徒の大半が帰路について静寂に包まれていた。この日は美術部の活動がある曜日でも無かったため、彼が個人的に顧問に許可を得て、部屋を使わせて貰っていた。
さすがに、下校時間が近い。窓からさす日の光も濃い橙色に変わっている・・・日没間近だ。
「そろそろやめるか。」
かなり遠くで運動部員達が器具を片付けたり、笑い合ったりする声が聞こえる・・・彼らもそろそろ着替えを始め、ミーティングを終えて帰るのだろう。黒髪の生徒も帰る準備を始めばならない・・・門限を破ると、寮長から説教を食らうことになる。
全く今回の物語とは関係ない話だけれど、中学二年生の彼は既に入学当初から数えて、四回も寮の規則を破って朝帰りをしており、怒りっぽく説教の長い生真面目な寮長からは完全に問題児扱いされていた。
結果、寮長は彼に『光源氏』なんてあだ名をつけた。
こんな歳から朝帰りだなんて、良いご身分だねえ・・・と、言うことである。まあ、彼の朝帰りの理由は、そんなロマンス溢れる事情ではないのだけれど。
「・・・・・・帰る前に、少しだけ。」
黒髪の生徒が自分の作業していたキャンバスの枠を右手でそっと撫でる・・・傍目から見ればなんてことない、意味のない仕草・・・けれど、普通ならば有り得ない変化が彼の絵に起こった。
「・・・・・・」
絵が輝き出した。
比喩ではない・・・本当に光を発していた。
油絵の具の海は青く、月は白く。
空をたゆたう雲、滑らかな砂浜、流れ着いた貝殻。全てが活き活きと、鮮やかに色付く・・・絵画が発光したのは、使われた絵の具が特別な素材で構成されている訳ではなかった。材料さえ在れば誰でも出来る技でも無く、彼自身の持つ、「色の印象を具現化する」異能力を応用したものだった。
「さて・・・片付けるか。」
「スッゴイ・・・キラキラ輝いてる。」
背後から突然掛けられた感嘆の声に、黒髪の生徒は驚きの余り椅子から立ち上がって、声のした方向・・・後ろを振り返る。
「ヤッホー・・・初めまして?」
彼がいぶかしげに自分を見つめていることに気付いて、絵画に向けていた視線を黒髪の生徒に投げかけ、皮肉な薄笑いを浮かべてひらひらと軽く手を振る・・・
こんな時間に立ち寄る者などいるはずのない美術室の扉に、彼と同年代ぐらいの背丈で、美しい金髪のロングヘアを後ろで束ねた女の子がいた。宝石のように輝く、緑色の瞳が異彩を放っていた。
三角形を基調とした、植物を模した刺繍の入った白色のカーディガンを羽織り、紺のミニスカートを履いて、背中を美術室のスライド扉に預けて、寄り掛かっている。
(誰だこいつ?制服も着てねえし・・・あのカーディガンの柄って確か、アイルランドの・・・転校生か?で、ベタに制服がまだ届いてないから私服ってか?・・・にしては日本語が上手いな・・・)
黒髪の生徒が警戒して身構えていると、女の子の方から気さくに話しかけて来た。
「君の魔法、こんなことも出来るんだね。本当に綺麗。ていうか・・・絵、上手いね。魔法を使わなくても幻想的に見えるよ。いいなあ・・・聞いた感じ、私の魔法と似ている感じだったけれど、応用の方向性はやっぱり違うのかなあ・・・」
既に輝きを失った絵の近くに寄って、興味深げにマジマジと見つめる金髪碧眼の女子。
「・・・・・・」
この学校では、生まれつき持っている魔力の影響で髪や眼の色が異常な色をしている生徒は少なくない。だが、黒髪の生徒は目の前の女生徒が持つ金髪と碧眼の組み合わせは見たことがなかった。そもそも、彼女の髪や瞳の色は魔力によるものではなく、西洋人の血筋による物であろう。顔立ちや肌の色も、アジア人の特徴とはかけ離れている。
「間隠先生に君を紹介されてここに来たんだよ。先生の言う通り、面白そうな人でよかった・・・こっちの生活も退屈しなさそうだ。君と同じようなのが、他にも七人いるんでしょ?楽しみだなあ・・・早く会ってみたい。」
夕日の光を金の瞳と緑の瞳でキラキラと反射させながら楽しそうに笑う彼女を、黒髪の生徒はやけに眩しく感じた。
「・・・・・誰だお前?」
表情に変化の乏しい男子生徒が警戒を少しだけ緩めながら聞く。
「私?私はルーン・・・イギリスから転校して来たんだ。明日から君のクラスメイト。」
「何?」
自分の担任の名前が出て来たところから、彼は目の前の女子が自分のクラスの転校生だろうと、ある程度予測は着いていたが、それでも多少、驚く。
(また変人がクラスに増えるのか・・・)
彼は、彼女に会って間もない・・・一分も経っていないが、目の前の人間が自分と同様の性質・・・周囲から忌避され得る性質を持っている・・・俗に、「天才」と呼ばれて避けられる人間であることが直感で感じ取れた。
(同じ能力を持つ奴に近づくと感じる、『共振』なんて現象があるらしいが・・・やっぱ、同族は群れるっつーか、引かれ合うのかね?)
「・・・・・・ねえ、戸黒君。」
ルーンと名乗った彼女が絵を元の位置に戻すと、透き通るように綺麗な碧眼を怪しく光らせて、笑う・・・・・・嗤う。
唇を吊り上げ、瞳を糸のように細め、嫌らしく・・・およそ、中学二年生が浮かべた笑顔とは思えない、嫌らしい・・・妖艶な笑みを浮かべる。
形容するなら・・・おとぎ話に登場する、「魔女」のような、笑顔だった。
「君ならこの世界を・・・」
プルルルルル・・・プルルルルル・・・
勢いよく布団を跳ね除けて起き上がる・・・内線の音で現実に引き戻された。寝起きでぼんやりとする頭を横に振って、目を覚ます。
「チッ・・・嫌な夢だ。」
戸黒睡蓮は学生時代の記憶を嫌なモノだと吐き捨ててベッドを下り、やかましく鳴り響く受話器に駆け寄った。今日は仕事も無く、いつも訓練を手伝ってやっている三藤も葬式で出払っているため、ゆっくり出来る算段であったのだが・・・
「もしもし?」
「処理班の戸黒様ですか?緊急要請です!」
対策課の女性職員が焦燥しているのか早口で語る。
「落ち着け。俺はどこに向かえばいい?」
肩と頬で受話器を固定して話をする一方、椅子の背もたれに掛けておいた、特製のコートを羽織る・・・
夢にまで出てきた、魔女との共同制作品である・・・コート。
「至急、荒川河口に急行して下さい。未確認の・・・おそらく魔獣による被害が拡大中です。それもかなり強大なモノです!」
「了解・・・俺以外誰が向かっている?」
せっかくの休日も潰れることになりそうだ・・・こんなこと日常茶飯事だから慣れっ子だが。
「対策課の部隊が市民の救助に向かっていますが、魔獣本体が確認出来ず、救助も駆除も滞っている状況です。」
「そうか。」
「処理班の鬼打班長も偶然江戸川中流にいたそうで、現場に直接向かっています。」
「・・・・・・」
その言葉に、ブーツの靴紐を結ぶ手の動きを一瞬止めてしまう。鬼打さんは確か三藤の付き添いで葬式に行っていたはず・・・鬼打さんが現場に急行したなら、三藤も共に戦場に赴いた可能性が高い。権藤章の葬式で人手が少ない時間に丁度、処理班が呼ばれるほど強力な魔獣の出現・・・
「まさかな。偶然だろ。」
「はい?」
「なんでもない。あとはこっちのオペレーターから話を聞くから大丈夫だ。切るぞ。」
「はい!よろしくお願いします!」
受話器をベッドに放り投げ、室内の窓を勢いよく開ける。コートのポケットに入れっぱなしにしている通信機を取り出して、スイッチを入れる。
「七谷!」
「はいはい、分かってるよ!取り敢えず現場に全速力で!魔獣の特徴は移動中に伝える!」
あークソッ・・・あいつの夢は見るし昼寝は中断させられるしで散々だ。一先ず、目の前の仕事に集中しなければ。
戸黒睡蓮は愚痴を漏らしながら、暗い曇り空へと飛び出した。
荒川河口付近
「ダァーーーッ、クソが!なんで今日なんだよ面倒くせえな!」
鬼打さんを追う形で荒川の下流へと全速力で駆け抜ける・・・駆け抜けるというより、飛び抜けている訳だが。ビルや電柱、家屋や木の上・・・凄まじい速度であちこちに飛び移って、現場に急ぐ。
「うわあ・・・一体なんですあれ?」
川の河口のさらに先・・・海上に、積乱雲のような・・・巨大な、霧が立ち込めていた。その範囲は計り知れないほど広い。東京湾全体が覆われるほどだ。このまま霧が陸に上がってくればいくつの街が飲み込まれるか分かったモノではない。
「知るか!東京湾近隣の一般市民がゼリー状の巨大な触手に襲われたっつう被害が報告された!霧の発生範囲からして、かなり強力な魔獣の可能性が高い!」
「水を操る能力を持ってるって感じですかね・・・僕は何をすればいいですか?」
「戦闘は避けて霧の周縁で逃げ遅れている一般人を避難させろ!・・・出来れば死ぬなよ!」
「・・・了解。」
まさかそのままあの霧の中に突っ込むの?入った瞬間死んだりとかしないよね?・・・まあいいか。その時はその時だ。
「・・・・・・寒っ。」
湿った冷感に身体を震わせる・・・走る速度を落とすことはせず、葬服の前を絞ってボタンを閉じた。
霧と同時に、雨も降っているようだ・・・顔に水滴が当たって冷たい。冬の気温に水が加わると、本当に最悪だ・・・体温が奪われ、体が冷えてしょうがない。
「ったく・・・本当だよ。こういうのは夏にしろよな。」
鬼打さんがボソリと呟く。誰だって冬の雨は嫌いだ・・・夏のように、運動でかいた汗を流してくれるわけでも無く、冬服は面積が広くて雨を吸水する量が多いために、服が馬鹿みたいに重くなり、奪われた体温は戻ることは無い・・・
東京の雨は排気ガスで汚いって噂もあるしね・・・高校生のとき、雨の中、傘を刺さずにいたらクラスメイトに「酸性雨でハゲるぞ」なんて言われたっけ?ていうかこの話、別に冬の雨と関係無い・・・まあいいや。どうでもいい。
「死ななければいいや。」
誰が見ても楽観的だと非難されそうな言動を残して二人の魔法使いが、未知の白霧に消えて行った。
東京湾海上 停泊中の貨物船内より
「ハアッハアッ・・・クソッ!?なんなんだ本当に。」
なんの変哲もない、普通の航海士・・・田中広輔が貨物船内を小走りで移動していた。様々な管が入り乱れる、船橋の網目模様がついた鉄板を駆け上がる・・・
数分前、突如発生した霧に船が囲まれた。自室で休息中であったが、ふと窓を見た時、彼は自分の目を疑った。
何故外が真っ白に染まっている?北方の海ならばまだしも、東京湾で・・・しかもこんな昼間に霧が発生するなんて聞いた事がなかった。
彼はすぐに船長や他の仲間に連絡を入れようと試みたのだが、何故か、内線も携帯も全く連絡が取れない。仕方なく、田中は彼らのいる操舵室に向かって走っているところだった。
嫌な予感がした。
(こんな一目で異常とわかる事態が起こっているのに何の報告もない。ただの珍しい霧であったとしても混乱を招かないよう、放送を流すべきではないのか?)
彼も内心、恐怖を感じていることは認めざるを得ない。
誰だって、周囲の状況が分からなければ不安になる物だ。暗闇だって、霧だって、砂嵐だって、吹雪だって・・・足下が、先が、他人が・・・
自分すら見えない
というのは、人間の本能が最も拒絶する一つであることは異論無いだろう。今も窓の外は濃い霧に包まれている・・・こんな状況で不安にならない方がおかしい。
ありきたりな常人である彼の考えは必然、「人間らしさ」と呼べるものを極限まで薄くした人間・・・三藤玄の、余りにも楽観的かつ危機感の無い考えとは正反対であった。
「失礼します!二等航海士の田中です。緊急の・・・」
やっと目的の部屋に到着し、重く堅い扉をノックして、ドアノブを回したところで・・・
田中は異変に気が付いた。
「は?」
嗅ぎ慣れた、潮の香りがした。ドアノブが回されたことで僅かに開いた、操舵室へ続く扉の隙間から水が勢いよく流れ出す・・・
海水だ。
「・・・・・・なんで室内に水が?」
彼は知る由もなかった。この世界には人智を超えた非日常が存在することを。船を取り巻く霧の中に残酷な怪物が巣食っていたことを。彼が扉を開いたことで、船内にその侵入を許してしまったことを。
ゴボゴボゴボ・・・
水の重みで重い扉が力を加えずとも、廊下側にゆっくりと開かれて行く・・・
ゴンッ
何か硬いものがドアの向こう側に当たった音がした。
(水流でドアまで流されて来たのか?いや、だとしても何故海水が操舵室に入り込んでいる?)
田中が恐る恐る扉を開き切ると、扉に衝突した硬い物・・・・・・・何かの正体が、廊下に水と一緒に、流れ出た。
「・・・・・・船長?」
階級を現す、金筋の刺繍が袖に四本刺繍された、船長の黒い仕事着・・・日焼けした肌に、しわがれた声が似合う、老成した、シワの深い顔立ち・・・釣りが趣味で、休みの時に一度、誘われて同行させてもらった、優しい人・・・
その船長が、体を仰向けに硬直させた状態で操舵室から流れて来た。
彼は日常から大きくかけ離れた事態に冷静な反応が出来なかった。知人が白目を剥いて足元に流れて来たことに、恐怖も忘れて立ちすくみ、困惑の声を上げるだけ・・・彼の姿こそが、正常な人間の態度であるのかもしれないけれど。
「え?あれ?え?」
一歩二歩と後退り、壁にぶつかる。膝から力が抜けて海水で濡れた床に崩れ落ちる。服が海水を吸い取って黒く染まっていく。
「・・・・・・?」
彼は、しばらく船長の水死体を理解出来ないまま、呆然と眺めていた・・・理解が追いつかない。
彼を置き去りに、海水は非情にも扉から溢れ続ける・・・
そして、田中にとって見慣れた黒い靴・・・船員の履く、デッキシューズを履いたままの・・・
誰かの右足が
操縦室の向こうからさらに流れて来て、人形のように動かない、目の前でプカプカと海水に浮かぶ船長の身体にぶつかった。
誰かの右足は、船長の身体に引っかかって静止した。
それでも、海水は扉から溢れ続ける。
トンッ
新たに流されてきた・・・誰かの左腕が、引っかかっていた右足に、まるでビリヤードみたいに当たって、軽い・・・重さを感じさせない・・・
命の重みを感じさせない空虚な音を響かせた。
「あ、や、うわあああぁぁああぁぁぁ!?」
ここまで来てやっと、逃げなければならないとする思考が脳裏に浮かんだようだ。叫び声を上げて頭を掻き毟り、田中はよろよろと立ち上がる。
彼は無我夢中で走り出した。不気味なほど静かな通路をつまづきつつも走り続ける・・・
彼は気づくことが出来なかった。
・・・ゴボッ
この状況を作り出した異形の存在がまだ、水浸しの操舵室に残っていることに。
気付いたところで、結果は何も変わらなかったであろうが。
惨劇の幕は・・・・・・既に。
時を同じくして、荒川河口付近に位置する臨海公園より
「ったく・・・一体全体どうしちまったんだこの天気はよぉ・・・・・・」
若者風にデザインされたシャツの上に黒色のダウンジャケットを羽織った、無精髭の男性が、苛立たしげに青く塗装された橋の上を歩いていた。
この橋は別の公園同士を繋ぐ橋で、ヨットの形を模したデザインが特徴的で、渚橋と名付けられている。
男が引き返して来た方向に位置する海浜公園は、沖合の特殊な干潟を守るために作られた公園で、大きな砂浜が売りの、潮風香る美しい人工公園である。
悲しい時、海を見て黄昏たい・・・なんて時には絶好の観光スポットであった。
『黄昏たい時には』なんて条件付きに考えているのは今、渚橋を渡っている男・・・半田義彦だけなのかもしれないが。
少なくとも、日本渚百選にも登録されている、素晴らしい景観を持った公園であった。
橋の向こうにある臨海公園にも緑の自然や遊園地、水族館など魅力的な部分が多くあるが、この公園の近くに住居を構える半田は、海浜公園の渚の方が好きで、前述した通りに、感傷に浸りたい時にはよくここに足を運んでいた。
夏の海開きのシーズンには、水遊び、磯遊びに訪れる親子が楽しそうに歩いている光景が見られる渚橋も、気温の低い冬場はさすがに人が少ない。
バーベキューが出来る場所があることにはあるが、こんな寒い日にバーベキューをしにわざわざ集まる大学生も・・・・・・無いことには無いのだろうか?
その上、この天気だ。
一面の・・・・・・霧、霧、霧。
「現代じゃあ珍しくもない、異常気象って奴かねえ・・・」
最初は遠くに見えていただけの霧が段々と陸にまで広がり、冷たい霧で周囲が覆われ始めると、半田以外のほとんどの客は早々と帰り自宅を始めて、渚橋を渡って帰ってしまった。
では、半田は何故他の客と違って残っていたのか。
それは男が感傷に浸り過ぎて自暴自棄になっていたから・・・なんてことは全く無く、ただ単純に、『霧に囲まれながら海を眺めるっていうのも面白そう』とか、『そんな風に海を傍観するのってなんかカッコいいかも』とか、好奇心と虚栄心に塗れた、不純な思考によるものだった。
単純だけれど、不純な思考である。
「ふん。俺もそろそろカッコつけるような年じゃあねえし、そんなことやってもカッコ悪いだけなんだけどな。」
そんなわけで渚に残っていた彼も、この異常気象で臨時閉園になったと従業員に知らされて、帰らざるを得なくなったわけである。半田自身も、霧に体を冷やされて『帰りたい』と考えていた最中であったから、潔く従業員の指示に従って帰路に着いた。
これのどこがカッコいいというのか。
むしろ、無様である。
「分かってるよそんなこと・・・」
頭の中で響く、自分を客観的に見る心の声に愚痴りつつ、橋の途中で足を止めて煙草とコンビニで買った安っぽいライターを取り出す。
ライターのスイッチを押して火をつけ、煙草に点火しようと何度も同じ動作を繰り返すが、一向に煙草が燃焼する気配が無い。ライターのオイルが少ないためではなく、霧に満ちた周囲の湿度が高すぎることが原因だった。
「クソッ・・・一服ぐらいさせろっての・・・」
諦めずに何度も親指でスイッチを押して火をつけ、煙草の先に近づけること六回。やっとこさ、燃焼部分に小さく赤い火が灯り、細い紫炎が煙草の先から発せられる。
ビチャッ・・・
「・・・・・・あん?」
煙草に火がついたとほとんど同時だっただろうか・・・背後で不自然な水音がした。硬い床に水の塊をぶちまけてしまった時の・・・水風船を床に落とした時の音と、似た音。
「・・・・・・?」
後方を振り返るが、別段変わった光景は広がっていなかった。見慣れた橋が、霧に包まれているだけの・・・普通の風景。
「・・・・・・波の音が聞こえただけだろ。」
半田は特に恐怖を感じることも無く、苦労して点火した煙草を口に運んで煙を吸い込む・・・
ゴボッ
「・・・・・・」
彼が咳き込んだ音・・・なわけがない。
聞き間違えではなかった。
今度は自分の左側・・・自分の後方でも橋の下でもなく、自分の真横から音が聞こえた。
橋の下の海の音では・・・ない。
「・・・・・・は?」
渚橋は下の海面まで、それなりの高さがある橋だ。波が当たってしまう高さに建設された鉄橋など、すぐに崩壊してしまうに決まっているから、それは当然なのだが・・・
問題は何故、彼の左側・・・橋の歩道の鉄柵を越えた向こう側から音がしたのか・・・・・・だ。
この橋の真横には、地面はある筈が無いというのに。
「・・・・・・」
半田が首から上を左側に回転させると、霧の向こうに・・・・・・『大きな黒い影』が蠢いていた。
グニャグニャと断続的に形を変えて、グジュグジュと水音を立てて・・・・・・そこに、何かがいた。
ネット上で見た、影絵のパフォーマンスのように、霧に投影されたその姿が流動的に動き回る。
触手のようなものを何本も中心から伸ばし、中心部分には大きな球体の影が浮かんでいる・・・
「・・・・・・夢、じゃあねえよな?」
ポトリと・・・あれだけ執心していた煙草も、唇が震えて咥えることが出来ず、口から床に落としてしまった・・・煙草を吸っている余裕など、無かった。
ゴボッ・・・・・・
影が、一段と大きくなる。
霧の向こうの何かが体を大きくしたわけではない。
霧の向こうの何かが、半田の方へと距離を縮めたから、霧に写った影が、彼には大きくなったように見えたのだ。
「っ!?」
慌てて逃げようと試みるが、足がもつれて無様に・・・カッコ悪くすっ転んでしまう。
「ぐっ・・・やっば・・・」
カッコつけずに逃げておけばよかった・・・彼がそう反省したところで、状況は変わらない。霧の向こうの何かはじわじわと彼へと近づいて来る・・・
「あ・・・・・・う・・・誰か・・・」
「ああ?・・・読んだか?」
音も無く、彼女はそこに立っていた。
「うっわぁ・・・報告通り、気持ち悪い見た目してんなぁ。」
まるで、最初からそこにいたかのように・・・そこに立っているのが当然であるかのように、赤い少女が半田の背後・・・橋の真ん中に出現した。
出現・・・そう表現するしかなかった。
田中には、彼女がどのように橋の中央まで、半田に気取られぬことなく移動したのか見当がつかなかった。
普通に、橋を割ってきたのであれば、いくら霧が深いと言っても、対面から近づいてくる・・・それも、ここまで激しい赤色の少女を見逃すはずも無い。同様に、彼の背後から遅れて来たわけも無い・・・
半田は知る由も無いけれど、この赤い少女は、橋の入り口でジャンプしてひとっ飛びに橋の中央まで飛んで来たという、人間離れした荒技を行っていた。
赤い少女は傲慢そうに左手を腰に添えて・・・その幼い容姿とは不釣り合いな、白黒のスーツを来た少女が、赤いポニーテールを潮風にたなびかせて・・・人でも殺してしまえそうだと思えるほど強い眼力で、霧の向こうの影を睨んでいた。
「こんな深い霧に囲まれるなんて・・・ここは霧の都かっつーの・・・さしずめ、ここは渚橋じゃなくてロンドン橋ってか?」
だったら俺はホームズで、三藤はワトソンか?似合わねえの。あはははは・・・あー・・・面白い・・・と、猛獣のような表情とは対照的に、快活に笑う少女。
「・・・・・・」
「いやいや、意外とあの有名な歌よろしく、情熱的に口づけを交わすカップルの片割れだったりしてな・・・・・・まあ、俺は誰かと色恋沙汰って年じゃあねえからそれはないな。やっぱりホームズの方がカッコいいし。」
少女が発する独り言に半田は何も言うことが出来ず、何も行動を起こせなかった。状況の変化について行けず、尻餅をついたまま口をパクパクさせているだけだった。
しかし、それでも彼は、『赤髪の少女』から目を離すことを決してしなかった。
自分を殺さんと迫ってくる異形の影すら、目に入らなかった。
死を忘れるほどの・・・強烈な存在感だった。
「おい、そこの顎髭青年・・・」
「え・・・あ、はい!?」
影を睨んだまま半田の方に一瞥もくれず、少女が声を掛けて来た。年甲斐もなく、中学生ぐらいの歳の少女に数秒、心を奪われていた半田は、急に声を掛けられて何を言われるのかとドギマギしていた・・・・・
が、赤い少女はこの緊迫した状況に、そして半田には全く関係ない内容の質問を呑気に投げ掛けてきたため、結局彼は唖然としたまま、何も言うことが出来なかった。
「あの、カップルが霧に包まれたロンドン橋の上でイチャイチャする歌って、やっぱり童謡のロンドン橋が『落ちる』っつーのと、恋に『落ちる』っつーのを掛けてんのかね?・・・お前はどう思う?」
「・・・・・・」
少し間を置いて、少女の気の抜けた言葉に怒りを覚えたかのように、霧の向こうの何かが触手を伸ばして、半田と少女に襲い掛かって来た。
まるで龍のように、流体の体が唸って大きな口を開き、二人を飲み込もうとする・・・
「お前には聞いてない。」
少女が右手の中指と親指を使ってパチンッ・・・と小気味いい音を鳴らす。
パンッ!!!
瞬間、半田が目視出来る距離に近づく前に、霧の向こうの何かが粉々に弾け飛んだ・・・水飛沫が四方に飛び散って、半田の頬に水滴がつく。
「・・・・・・え?」
何をしたら、指を鳴らすだけであんな怪物を吹き飛ばすことが出来るんだ?この少女は指以外を動かした様子は、無かったし・・・・・・
「面白くねえ・・・手応えがねえな。逃したか?霧も晴れないし・・・まあいい。取り敢えず、この近くにある遊園地なんかも人が多そうだし、助けに向かうとするか・・・」
先ほど半田に投げかけた質問も、彼女にとってはどうでもいいものだったらしい。半田に答えを催促することなく、既に別のことに思考を回していた。
「三藤には西側の東京港の方を任せて東側に来ちまったが大丈夫かねえ・・・まあ、七谷と戸黒がサポートすれば大丈夫だろうけど。」
この橋にいる意味も無くなったのか、海浜公園の方へ方向転換して、スタスタと歩き始めてしまった。
「あ・・・あの!!!」
「ん?」
半田は珍しく、煩悩から来るカッコつけではなく本心から、このまま彼女と別れてしまうのは・・・彼女と言葉を交わさないのは、マズイと思った。
おそらく、この赤髪の少女と出会うことは、このまま別れてしまえば自分が百歳まで生きていようと・・・千年生きていても、不可能なことだろう。
当然な事実として、過去に出会った他人と再び巡り合う可能性が低いだけでなく、もっと運命的な・・・『きっと、この人に会うことはこれから二度と無いだろう』という、曖昧だけれど、酷く強い・・・残酷な予感が、彼にはした。
だから、今ここで答えを返さなければ、きっと一生後悔する・・・一瞬でも心を奪われてしまったこの少女の質問に答えられなかったことに、この後一生後悔することになる。
だから、半田は勇気を絞り出して、少女を呼び止めた。
実際、その考えは正しい。
一般人と魔法使い。
生きる世界が違うのだ。
赤い少女は、彼にとって本来交わってはいけない世界の住人なのだから。
「・・・なんだ?忙しいんだ。手短にしろ。」
少女の瞳が初めて半田へと向けられる・・・初めて、彼女が半田に興味を示す。
「『霧のロンドンブリッジ』の歌詞では・・・実際、ロンドン橋が崩れるという意味の文がありますよね!」
「・・・・・・」
それを理解した上で彼女は先ほどの質問をしたのだし、彼女が歌詞を知らないわけがないことは明確であったはずなのだが・・・半田は動転して、彼女の質問に答えたというには不格好過ぎる、間抜けな答えを返してしまった。
無様過ぎる。
ダサ過ぎる。
赤い少女は数秒、半田の間抜けな答えを聞いたまま、口を半開きにしてポカンとしていたが、半田の言葉の奥底にある感情を見抜いて、ニヤリと意地悪く笑うとこう言った。
面白え
「ククク・・・だが、こんなガキンチョに上がっちまうような青臭さじゃあ女は落とせんぜ旦那?」
「う・・・」
「早くこの橋を降りて陸に戻れ。そうすればあの化け物に襲われることもないし・・・・・・」
橋が落ちることもない
「・・・・・・」
それだけ残して、赤いポニーテールの少女・・・半田はその名を知ることは叶わなかったけれど、鬼打千華はまた、見知らぬ他人を助けに霧の向こうへと消えてしまった。
「・・・・・・」
しばらくして、徐に立ち上がって、陸に向かって歩き始めた半田の頭の中には、化け物に襲われた記憶など、ほとんど残っていなかった。
「・・・・・・バンド、また始めようかな。」
少女との会話で上がった、有名な歌唱曲が頭から離れなかった彼は、高校でバンド部をした後、家の押し入れに押し込んでほこりを被ってしまっていたギターの存在を思い出して、呟いた。
彼は本来、この非日常を忘れるよう、協会の部隊から記憶処理を施されるべき人間であったのだけれど、濃い霧が、家に帰宅する彼の姿を隠したことで偶然、協会に見つかることが無かった。
彼は、これから死ぬまで、記憶の中の、カッコいい赤の少女の背中を追い掛けることになる。
半田義彦と鬼打千華は、この後二度と出会うことはなかった。
再び、東京港 停泊中の貨物船より
「七谷さん?・・・七谷さん?・・・駄目だ。繋がらない。」
戸黒さんに教わった「気配の感じ取り方」とやらでこの船内に人が数人残っていることを察知して一人で侵入したまではいいのだが、船の構造を理解していなかったため、生存者を探すのにかなり手間取っていた。七谷さんに船のマップを調べて貰うよう頼んだのだが、船に入った途端スマホが圏外になって連絡が届かない。
「一旦戻った方がいいかな?」
鬼打さんはここよりさらに霧の濃い地点へと向かってしまった。僕は港周辺の安全確認と市民の避難を任されたのだが・・・
「この船、何かいる?」
何か、ジトっとした視線が周囲から向けられているようで気持ちが悪い・・・しかし、見回しても、別段異常が見受けられる訳ではない。船を囲む霧も異常な性質を見せるようなことはなく、普通に宙を漂うだけ。一切特別な動きを見せないことが、むしろ不気味だった。
いくら考えてもこの異常現象の正体は分からない・・・怖がって立ち止まっていてもしょうがない。
三藤は結局、「なんとなく」という理由で、船内に残る人々を探索することに決めた。人の気配がする方向に走り、呼びかける。
「どなたかいませんかあぁー!」
大声を上げるのは性分ではないのだが、仕事なのだから仕方ない。人の気配を辿って、船橋内を歩き回ったり階段を上ったりいると、操舵室に続く廊下に行き当たった。
「・・・なんで濡れてるのここ?」
操舵室の扉が開けっ放しになっており、大きな水の跡が部屋の中から廊下へと続いていた。何かを引き摺った跡に見えなくもない。
「やけにヌルヌルしてるし、生臭いな。」
異臭に文句を吐き捨てつつ、操舵室の中を覗いてみると船員が一人、船の機器を操作していた。
「あ・・・え?どなたですか?」
真面目そうな男性が僕に気付いてこちらを振り向く。最初、嬉しそうな表情でこちらに顔を向けたのだが、僕が顔見知りの船員でないことに気付いて、見る見る険しい表情に変化した。この状況で知らない人間に会ったら彼のように警戒するのは当然のことだろう。
友好的な態度を取られた方がむしろおかしい。
こういう時、戸黒さんや鬼打さんはどうしているのだろう?協会の名前を出すわけにも行かないだろうし・・・鬼打さんなら無理矢理引きずって避難させそうだけど。
「救助に来ました。国の特殊部隊の者です。ここは危険なので、すぐに船外に退避してください。」
嘘は言っていない・・・はず。刺激しないよう無理に近づかず、言葉だけで避難を促す。
「「・・・・・・」」
しばらく沈黙が続いたが、こちらに悪意が無いのを感じ取ったのか、彼が口を開く。
「どうなっているんですか?この状況。」
「正直、僕達もこの現象の謎は解明出来ていません。危険だから今すぐ逃げろ、としか言えることはありません。」
「・・・そうですか。」
「この部屋で何があったか教えていただけますか?」
船に詳しい訳ではないが、この操舵室になにか異常事態が起こったことは、一目で分かる。窓ガラスが全て割れ、辺り一面モノが散乱し、海水に塗れてぐちゃぐちゃだった。
死体が転がっていないだけマシであろう。
「わかりません。私も今来たばかりです。船長達を探しに・・・あと、放送、通信機器が動くかどうか確かめに来たのですが・・・」
彼は目を伏せて首を横に振った。
「なるほど。他の船員は?」
「先程まで二人と一緒に食堂にいました。その二人は食堂で待機しているはずです。ですが・・・何故かそれ以外の船員が見当たらないのです。」
「全部で何名がこの船に?」
「十二名です。」
「・・・勘弁してくれ。」
彼に聞こえないよう、小声で呟く。認めたくはないが、魔獣の本体がこの船に侵入し、船員の殆どが殺されたと考えた方が良さそうである・・・何故って?
船内に感知出来る生存者の気配が僕以外に三つしかないからだ。
「一先ず、食堂の二人と合流して船を出ましょう。あなた達の避難を完了させてから僕が再度船に乗り込んで他の船員を捜索するので安心して下さい。」
「・・・分かりました。」
僕の態度に怪訝な表情を浮かべるが、渋々承諾してくれた。三人だけが生き残っている事実は伝えないことにした。恐怖で動けなくなられても困る。「気配」やら「魔獣」なんて非現実的な言葉を彼がまともに飲み込む訳もないけれど。
「食堂はどこに?」
「二つ下の階です。」
「急ぎましょう。」
共に部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。音を立てない方がいいのかもしれないが、近くに魔獣の気配は感じない。ちんたらしていたら、逆に魔獣が近くに移動して来て危ないかもしれない。
船の構造をよく知っている彼に道案内をしてもらったおかげか、食堂まで長くはかからなかった。
「お、帰って来た。こんな霧、別に気にすることもないだろ。」
「どうだった?・・・って誰だその人?」
僕と男性が食堂に入ると、二人の男性が菓子を咀嚼しながら呑気なことを口にした。
「分からない・・・操舵室が滅茶苦茶だった。船長達も全員いなくなってる。」
「は?」
「どういうことだ?」
困惑する二人を尻目に周囲の安全を確認し、船からの脱出経路を思案する。
「このまま地上に繋がる出口まで走るか?いや、姿も能力も分かっていない魔獣から三人を護りつつ移動するのはリスクが高そうだ・・・窓を破って陸にジャンプした方が簡単な気がする・・・あれ?ここから陸までどれくらいの高さがあるんだ?」
ぶつぶつと呟いていると、操舵室で会った彼とは違って落ち着きの無い二人が僕に詰め寄って、襟元を乱暴に掴んできた。激しい怒りと恐怖がその態度に感じられる。
「おい、何が起こっているんだよ!あんた事情を知ってるんだろ?」
「それは・・・」
説明しにくいことを聞いて来るな・・・他の九人がおそらく全員死亡しているという事実を彼らに語ったところで混乱させるだけで意味が無い上、彼らが事実を受け入れてくれるとは思えない。適当に嘘をついて地上まで避難してもらうのが丸そうだ。
この船は鎖で陸に係留されているから逃げ道は意外とありそうだしなんとかなりそう・・・
ってあれ?
「すいません。質問に質問を返すようで本当に申し訳ないんですけど、一つ聞いていいですか?」
感じ取れないぐらいゆっくりだったから・・・気付かなかった。
「あ?」
「この船、停泊中のはずですけど・・・動いてません?」
「「「え?」」」
僕の言葉に肝を冷やされた三人が辺りを見廻し、近くの窓に寄ってその事実を確認する。
「・・・本当だ。霧の向こうの港の影がどんどん遠ざかってる!」
「一体どういうことだよ!鎖を繋いでただろ!」
「いや待て!そもそも操舵室に誰もいないのになんで動いているんだよ!」
「・・・・・・」
これは本当に不味い。陸に逃げる選択肢が全てなくなった。まるで魔獣が知能・・・いや、悪意を持っているようだ。それこそ、人猿のように。
「海に飛び込むのは当然却下として、甲板に出て救助を仰ぐか?いや、魔獣がどんな奴なのかも分からないのにそんなことをするのは・・・だとしても船内に留まる方がよっぽど危険・・・」
ゴボッ
三人は混乱して騒いでいたため聞き取れなかったらしい。いや、異能で五感が鋭くなっていたからこそ、僕だけに聞き取れたのかもしれない。
「・・・・・・すいません。キッチンの排水って詰まりが悪かったりします?」
「はあ?なんで今そんなこと聞くんだよ?それより早く説明してくれよ!」
「本当だよ!知ってることを話してくれ!」
不自然な音がしたキッチンの排水口から、錆びた鉄に似た、吐き気を催す臭気が立ち上って来る・・・その臭いも三人は気付いていない様子であったが。
「生魚とか捌いていたりもしないですよね?血が出る感じの。」
「はあ?だからどうして・・・」
ゴボゴボッ!!!・・・ビシャッ
やっとその異常に気付いたらしい。三人は完全に口を閉ざし、目線をキッチンに釘付けにして人形のように固まった。
「あれ・・・なんだ?」
排水口から「何か」が飛び出て、白い床に落ちていた。ここからでは見えないぐらい、小さい「何か」・・・色も床の白色に近いため、判別が難しかった。
一人がそれを確認する為に近付こうとする・・・が、僕が肩を掴んで引き止める。
「やめて下さい・・・それと、死にたくなかったら死ぬ気で走って下さい。」
これまた、視力の上がった僕にだけ、その正体が認識出来た。排水口から吐き出され、床に落ちていたたのは・・・
水に浸かっていたからか血の気が引いて真っ白な人の指だった。
ゴボゴボ・・・ゴバッ!?
排水口から赤黒い液状の何かが勢いよく吹き出し、食堂に溢れ出て来た。
「階段に走って!」
三人を廊下に突き飛ばし、葬服の袖に隠していた拳銃を抜いて発砲する。
命中はするも、やはり液体。弾丸がすり抜けて向こう側に突き抜けた。そりゃそうだ・・・けど、狙ったのはあんたの後ろにあるガスボンベだよ!
「吹き飛べっ!」
すかさず手榴弾のピンを抜いて投げつけ、三人の逃げた先に走り出す。
ドオンッ!!!・・・ジリリリリリ・・・火災が発生しました・・・火災が・・・
後方で爆発の轟音とけたたましいサイレンが鳴り響く。船の警報装置はまだ生きていたらしい。乗りで爆破してしまったけど、流石にこれで壊れた設備の賠償を求められたりしないよな?
ていうか、武器を一応持ってて本当に良かった・・・昨日、葬式にライフルケースを持ちこむ訳にいかないからって鬼打さんに軽く手渡しされたときは忌避感が大きかったけれど、今は感謝してもしきれないほど、服の裏側に隠し持っている黒いパイナップルが頼もしかった。
後ろを振り向かずに全速力で廊下を疾走して三人に追いつく。
「甲板に出ましょう!室内で奴に囲まれたら打つ手がありません。そこで増援を待ちます!」
一瞬で追いついた僕のスピードに驚いたようだが、それ以前にあの血で染まったスライムのような魔獣を見て、既に正常な思考を失っていたのか、三人は先程と態度を一変させて素直に僕に従った。
僕をしんがりにドカドカと螺旋階段を上へ上へとひた走る。三人はおそらく何が起こっているのか、何のために逃げているのかさえ分からず走っているのだろう。ただ、「生きたい」という潜在意識が原動力になっているのだ。
「・・・マジかっ!?」
階段の踊り場に設置されていた水道管から異音が発せられ、ヒビが入った。自分と同じタイミングで踊り場にいた前方の男性を奥に突き飛ばして後方に飛び退る。
ヒュガッ!?
すんでのところで、水とは思えない音が眼前を通過した。
「あっぶな!?ウォータージェットか!?無茶苦茶だなおい!」
噴出口を極限まで絞って水流を流すことでどんな硬いものも綺麗に切断できる技術だとかなんとか・・・たしか、その時の水流の速度は音速を超えるらしい。
原理が同じかどうかは知らないが、鉄板で出来た階段が綺麗に切断されていた。運のいいことに、他の支柱が支えているからか、階段が崩れる様子はない。
船を陸に繋ぎ止める鎖もこれで断ち切ったのだろう。
「僕は気にせず駆け上がって!早く!」
突き飛ばされて転んだ男性が起き上がって再び駆け上がろうとするが、僕を置いて行くかどうかを迷ったのだろうか?五、六段登ったところで僕の方を振り返って立ち止まっていた。
「わ、分かった!」
そう言って再び走り出す男性。こんな僕を少しでも心配してくれた優しい彼に心の中で感謝を述べつつ、目の前で水道管からズルズルと這い出て来る血生臭いスライムを観察する。
「さて・・・どうするかな。」
不幸中の幸い。スライムは僕の前でグルグルと蠢くが、階段を駆け上がる三人に向かう様子はない。
「・・・ん?」
水道管を移動する過程で、バラバラに解体された人体を含む異物が抜け落ちたのか、キッチンで見た時より血の色が薄くなり、スライムに取り込まれた物体が視認出来るようになっていた。そして、その中に一つ・・・いや、一匹だけ明らかに異様な生物の姿があった。
「クラゲ?」
ゆらゆらとスライムの中心に、僕の掌ぐらいな大きさのクラゲが浮かんでいた・・・発光器官を持っているようで、白い光を周囲の水にぼんやりと反射させている。
「いやいやいや、なんでクラゲが人を食うんだよ。おかしいだろ・・・」
不可解な点が多いが、だからと言って考えている暇も無い。クラゲが纏った水が膨張し、勢いよく触手のようにこちらに伸びて来た。
「あー・・・もうっ!こっちに来い!」
踵を返して階段を駆け下りて距離を取る・・・僕と怪物の船上鬼ごっこが始まった。
第三話終
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