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第6章 もう君を離さない

9 もう離さない 離れない

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 やって来た場所は古びたアパートの一室だった。結局、コンツェットはファンローゼを〝キャリー〟に引き渡すことはしなかった。
 不思議なことに、諜報部からは何の沙汰もない。
 ますます〝キャリー〟の思惑が分からない。
 アパートの部屋に入ったファンローゼは、戸惑う表情でコンツェットを見上げる。
「ここは?」
 ファンローゼを安心させようと、コンツェットは微笑む。
「大丈夫。ここは自宅とは別に、俺が個人的に使用しているアパートだ。この場所は誰も知らない」
 キャリーという人物に引き渡されると覚悟していた。
 そうしなければコンツェットは上層部の命令に背くことになる。
「私……」
 言いかけた言葉が、コンツェットに抱きしめられることによって途切れる。
「コンツェット……」
 三年前よりも背の高くなったコンツェット。
 あの時は自分とあまり身長の差はなかったのに、今では肩幅も広く逞しくなった。こうして抱きしめられると自分の身体がすっぽりとおさまるくらいに。
「ずっと、この手で抱きしめたいと思っていた。いつもファンローゼのことばかりを考えて、どうしようもない気持ちでいた。君が生きているだけで、それでいいと思っていた。あの場所で、あんな形で再会するまでは……」
 大佐の屋敷の、それも婚約発表の場で。
「本当はあの時、冷静を保つのに必死だった。周りに気取られないように」
「私も心臓が止まるかと思った」
 ファンローゼはゆっくりと顔を上げ、コンツェットを見上げる。
「コンツェット、手が震えている」
 ファンローゼはそっと、コンツェットの手を包み込むように握った。
「ファンローゼと再会して、こうして触れられたことが、まだ信じられない……」
 コンツェットは強ばった表情で言いながら笑った。
 その笑みに、昔の面影が重なる。
 この姿を他の者が見たら驚くであろう。
 エスツェリアの黒い悪魔が、ただ一人の女性を前にして情けなく震えているとは。
 ファンローゼは握ったコンツェットの手を口元に持っていき、優しく口づける。
 ずっと会いたかった人が、こうして目の前にいて自分を抱きしめてくれている。
 こんな幸せなことはない。
 ファンローゼはコンツェットの胸に、こつりとひたいを添えた。
「三年前のあの日、俺はファンローゼを守りきれたら、もうどうなってもいい、死んでもいいと思っていた。だけど、軍に入るか死ぬかの選択を迫られ、俺は生きたいと願った」
 事実は少し違う。
 コンツェットが軍に入れば、ファンローゼの命は狙わないと交換条件を突きつけられたのだ。だが、本当の理由は言わない。
 言う必要はない。
「そして俺はエスツェリア軍に入った。あれほど憎んでいたエスツェリア軍に俺は身を投じた。以来、俺は常にエスツェリアの軍人であることを試されてきた。どんな汚いこともやってきた。エスツェリア人よりもエスツェリア人らしく振る舞わなければと。そうでなければ……」
 コンツェットはまぶたを落とした。
「軽蔑するだろう? 俺は……」
「もう何も言わなくていいの」
 ファンローゼはいいえ、と首を振り、コンツェットを抱きしめた。
「ファンローゼ、教えてくれ。君をエティカリアに連れてきたクレイという男のことを。そいつはいったい何者なんだ。君はその男は俺たちの協力者だと言った。だが、そんな協力者はいない」
「いない?」
「ああ」
 ファンローゼは身体を震わせた。
「何が本当なのか、私にも分からなくなったわ……クレイのことが分からない」
「ファンローゼ?」
「私、ずっと騙されていたの」
 ファンローゼはこれまでの出来事をコンツェットに語った。
 自分を拾い面倒をみてくれた老夫婦のこと。花屋で働くクレイとの出会い。ある日突然現れたスヴェリアの警察だという男たち。
 彼らに追われていたところをクレイに助けられ、彼の提案で父かもしれないクルト・ウェンデルを探すため、エティカリア行きを決意したこと。
 エティカリアに来て起きたことすべてを、順序通りにコンツェットに話し、最後にクレイがエスツェリア軍に協力する裏切り者であったことを告げた。
「クレイという男と出会ったのが三年前。まさか、その時からすでにファンローゼはエスツェリア軍に狙われていたというのか」
 クルト氏の行方を掴むために利用された。
 コンツェットはぎりっと奥歯を噛みしめた。
 だが、それはあり得ない。
 自分がエスツェリア軍に入るのと引き替えに、ファンローゼのことは追跡しないとヨシア大佐は約束してくれた。
 その約束は守られていた。事実、ファンローゼは三年前に亡くなったことになっている。
 それは間違いない。
 ならば、エスツェリア軍にいる他の何者かが、ファンローゼの行方を探していたことになる。
「三年……」
 決して短くはない期間だ。もし、クルトの存在を突き止めようとしているのなら、その三年の間に、何か他の方法で探すこともできた。
「私が記憶を取り戻すのを、クレイは根気よく待っていた」
 だが、失った記憶をいつ取り戻すか分からない状態で待ち続けるとは、あまりにも計画性がなさすぎる。
 クレイという男は何者なのか。
 何を考えているのか。
 ファンローゼを本当はどうしたいのか。
 分からない。
「私、こうしてコンツェットが生きていてくれただけで本当に嬉しかった。コンツェット……ありがとう。最後にコンツェットの気持ちを知れてよかった」
 コンツェットの腕からするりと抜け、ファンローゼは扉へ向かって歩き出す。
「どこへ行く」
「組織のあったアジトへ。私、キャリーの元に行くわ。これ以上、コンツェットを困らせたくない。本当にありがとう、コンツェット」
 コンツェットの本音を聞けただけでよかったと思った。しかし、コンツェットは大股で近寄りファンローゼの腕を掴んで再び胸に引き寄せた。
「行かせないと言った。もう、二度と君を離さない」
「コンツェット、私を逃しては咎められるわ」
「ファンローゼが心配することではない。君には途中で逃げられたとでも言えばいい。それに、元々ファンローゼは〝キャリー〟から送られた組織のリストに名前は載っていなかった。だから、すぐ解放するつもりだったし、いずれこの国から逃がすつもりでいた」
「私……」
「とにかくしばらくの間、ここに泊まるといい。これからのことは、俺が必ず何とかする」
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