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第1章 わたしの師匠になってください!

不安な気持ち 2

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 昨夜は早々と部屋に引きこもりベッドにもぐりこんだツェツイであったが、一睡もすることもできず、とうとう朝を迎えた。
 一晩中、お師匠様が部屋に戻ってくるのを耳をそばたてて待っていたが、結局、帰ってくることはなかった。
 まだ朝靄けむる早朝。
 吐く息が白く肌寒い。
 することもなく、それ以上にじっとしていることもできず、部屋から抜け出したツェツイは、階段のなかばでふと足を止めた。
 ソファーの背もたれに両ひじをついて座り、天井を仰いで目を閉じているイェンの姿を見つけたからだ。
 お師匠様が帰ってきている!
 嬉しさに表情を明るくさせたツェツイだが、すぐにその顔が強ばる。
 しわのよったシャツ、髪はきちんといつものように首の後ろで束ねられていたが、ほんの少し前髪が乱れているような気がした。
 どこか気怠そうな雰囲気。あきらかに、たった今帰ってきたという様子であった。
 ちくりと突き刺す痛みが胸に広がっていく。
 さざ波立つ感情を抑え、ツェツイは静かに階段を降りる。
 足音に気づいたイェンがゆっくりと目を開けた。
「もう起きたのか? 相変わらず早起きだな」
 階段の下に降り立ったツェツイの姿に気づいたイェンは問いかける。
「術はどうだ? 何かつかめたか?」
 初めて聞くような低く囁く物憂げな声音。
 大きくはだけたシャツからのぞく胸元に視線がいってしまい、ツェツイはうろたえ慌てて目をそらした。
「昨夜は、何もしていません……いえ、できませんでした」
 視線を合わせることなく答える。しらずしらず棘の含んだ口調になる。
「そうか」
 不意に、ツェツイの頭に昨日、路地裏で見かけた女性の姿が過ぎる。
 女性の顔はあまり見えなかった。
 けれど、きっとお師匠様とつりあう綺麗な大人の女の人だったのだろう。
 お師匠様があの女の人と一晩いっしょだったと考えただけで……。
「お師匠様が帰って来なかったから、修行につき合ってくれなかったから、だから……」
 イェンは立ち上がり悪かったな、と静かな声を落とした。そして、テーブルの上の一輪挿しからすみれの花を抜きとり、ツェツイの手に握らせた。
「今日はいくらでもつきあってやるぞ。おまえの気のすむまで」
 目元を和らげ、伸びたイェンの手がツェツイの頭をなでる。
 微かに鼻の奥をくすぐる香水の香りに、ツェツイは顔をしかめる。かいだことのない甘ったるい香り。
 胸の奥がぎゅっとしめつけられ、思わず頭に乗せられた手を払いのけた。
「子ども扱いしないで!」
 予想もしなかったツェツイの行動に、イェンは驚いたのかわずかに眉を上げた。
「……ずっと女の人と一緒だったんでしょう。あたしの修行よりも、その女性ひとと一緒にいたほうがいいんでしょ!」
 足下が震えて立っていられない。こんなこと言うつもりなどなかったと、言ってしまって後悔するが、取り消すことはもうできない。
「ごめんな」
 ツェツイは不安げに瞳を揺らして視線を上げたが、すぐにそらしてしまう。目の前に立つお師匠様の胸元が目に飛び込んできたからだ。
「どうせ……」
 ツェツイは寝間着の裾をぎゅっと握りしめた。
「どうせ、あたしには何もできないもの。どんなに頑張って修行しても魔術なんて使えない。時間のむだだから、才能がないから、お師匠様はあたしに嫌気がさしたんでしょ。だから、あたしのことなんか放って、どこかに行ったんでしょ!」
 ややあって頭の上で深いため息を聞くのを耳にする。
 その重いため息が、さらにツェツイの胸を深く抉った。
「修行なんかもうやらない! 魔道士になんてならない! こんな花ももういらない……お師匠様なんか……大っ嫌い!」
 手渡されたすみれの花を床に叩きつけようと手を振り上げた。が、その手がそのまま頭の上で止まる。
 ツェツイは小さな肩を震わせた。
 言葉もなく目を細めるイェンに顔を引きつらせる。
 目に涙が浮かんだ。何も言ってくれない。
 ひどいことを言ったのに、怒ってもくれない。
 ため息をつかれた。
 唇を引き結び、ツェツイはイェンに背を向け家を飛び出した。
 再び訪れる静寂。
 その時。
「へえ」
 階段の途中の壁に寄りかかり、腕を組みこちらを見下ろすアリーセの姿があった。
「朝帰りとは、ずいぶんといいご身分だね」
 階段から降りたアリーセはにこりと笑う。
 大股で近寄ってきたかと思うと、いきなり頬を平手で叩かれた。
 それも手加減なくおもいっきり。
「い、いきなり何だよ!」
 さらに、伸びてきたアリーセの手に、シャツの襟元をつかまれ首を締め上げられる。
 凄みをきかせた目つきで、黙れといわんばかりに。
「あたしはあんたのやることに、今までうるさいことは言わなかったつもりだし、これからもいちいち口を出すつもりはない。だけど、あの子の、ツェツイの師匠を引き受けたのなら、きちんと最後まで面倒を見るべきじゃないのかい? なのにツェツイを放って女遊びで朝帰り? 中途半端なことしてんじゃないよ!」
 アリーセにどんと突き飛ばされ壁に背を打ちつける。
 力なくイェンはその場に座り込む。
「それに何? ツェツイの前であんなため息をついて。見ていたこっちがため息もんだよ」
 イェンは違うのだと緩く首を振る。
「あいつに、あんな顔をさせた。泣かせた俺自身が情けないと思ったからだよ」
「だったら、どうするべきかわかってるね」
 突然、アリーセの片足がどんと壁を蹴る。
 その足がイェンの顔のすぐ横の壁に置かれたまま。
 見上げると、腰に手をあて厳しい眼差しでこちらを見下ろすアリーセの顔。
「こんな寒空にツェツイは寝間着姿だったよ。かわいそうに。あの子に風邪でもひかせたら、あんた、ただじゃおかないからね。覚悟しな!」
「覚悟しなって」
「泣かすよ」
 まなじりを細めて凄むアリーセは、羽織っていた肩掛けをイェンの顔めがけて投げつけた。
「追いかけるんだよ」
 無言のイェンに、アリーセはぴしりと扉に向かって指を突きつけた。
「何、もたもたしてんだ。さっさと行きな!」
 のろりと立ち上がり歩き出すイェンに。
「ツェツイを連れて帰ってこない限り、あんたを家にいれてやらないよ」
「俺は子どもかよ……」
「あたしから見れば、じゅうぶん子どもだね」
 そんな今までのやりとりを、階段の子柱を両手で握りしめ、その隙間からしゃがみ込んで顔を突き出し階下を見下ろしていた双子たちは。
「……久しぶりに、母ちゃんのまじギレ見た気がするな」
「母ちゃん、若い頃はかなりの悪だっていってたからな」
「ツェツイ、泣いてたな。修行もやめるって言ってたぞ」
「だけど、俺、今回ばかりは兄ちゃんが悪い気がするな」
「そうだな」
「たぶんな」
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