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8.お忍びの皇帝

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「困ります。おろして下さい」 
 藍珠は懸命に訴えたが、男は涼しい顔で聞き流している。

「困っているところを私が助けてやったんだろう。礼くらいしてくれてもいいんじゃないのか」

 藍珠は困り果てた。
「お礼と言われても、私には差し上げられるようなものは何もありません」

「そうだろう? だったら礼のかわりに一晩くらい私に付き合ってもいいじゃないかと言っているんだ」

 藍珠は青ざめて、唇を噛んだ。
 せっかく助けて貰ったと思ったのに、これではやっていることは東風ドンフォンと変わらないではないか。

(これだから、涼雲以外の男なんて大嫌いよ。皆、乱暴で意地悪でいやらしくて……)

 藍珠はきっと男をにらみつけた。

「冗談はやめて下さい。私をすぐに下ろして。さもないと大声を出しますよ」
「構わないよ。私は何をしても許される身なのだからな」

 なんて傲慢な男だろう。
 どこの富豪の放蕩息子か知らないけど、東風から逃れたと思ったら今度はこんな男に目をつけられるなんて。
 つくづく自分の運のなさが情けなくなる。

 藍珠の顔をみて、男は小さく笑った。

「そんな今にも噛みつきそうな目で睨まなくてもいいだろう。何もとって食おうってわけじゃないんだ。ただ、私の家で足を手当てしてやる間、ちょっと話し相手になってくれればそれでいい」

「どこのどなたか知らない方のお家に伺うわけには参りません」

「これはなかなか情が怖い。そうだな。私は……小鷹シャオインという。この王都に住んでいる。君の名は?」

「……」
 藍珠が黙って顔を背けると、男は
「人の名を聞いておいて自分は名乗れないのか。失礼な女だな」
と言った。

「あなたが勝手に名乗ったのでしょう?」
「何? 君が私の名を聞いたからだろう」

「別にお名前なんて聞いてません。知らない方のお家には伺えませんといっただけです。いいから下ろして下さい」
「嫌だ。名前を聞くまで帰さない」


「何ですって?」
「名前と身分を教えてくれ。次に会う約束をしてくれたら帰してやろう」

「いい加減にして!」
 藍珠は腹を立てて叫び、無理矢理馬車から降りようとした。

「おい、危ないぞ」
「ほうっておいて!」

 藍珠が飛び降りようとするのを見て、男は慌てて馬車を止めさせた。

「どうなさいました?」
 寄ってきた従者らしい男を藍珠は睨みつけた。

「どうなさいましたじゃないわ。あなたたちもお供ならちゃんとご主人を諫めて下さい!」

 呆気にとられている男たちをよそに、藍珠は痛めた足を引きずるようにして歩き出した。

「おい。無茶をするな。悪かったよ。家まで送ってやるから乗れ」

 小鷹が馬車から身を乗り出していったが、藍珠は顔だけで振り向いて言い返した。

「結構です。もう私のことは放っておいて下さい」
「なんだよ、せっかく助けてやったのに」

「それについてはお礼を申し上げます。でも、夫のいる身で夜更けに他の殿方のお話相手をつとめることは出来ません!」

「夫?」
 小鷹が、驚いたように言った。

「君は結婚してるのか? まさかさっきの男がそうなのか?」

「違います!」 
 藍珠は腹を立てて言った。

「あんな嫌らしい痴漢とは似てもにつかない素敵な人よ。もちろんあなたともね。ですから私のことはもう放っておいてちょうだい!」

 言いながら藍珠は、痛む足で懸命に歩き続けた。

 少しでも馬車から遠ざかりたかった。


 茫然とその後ろ姿を見送る小鷹に、従者の一人が苦笑していった。

「残念でしたね。皇上」
「外では若様と呼べ」

「さすがの若様も人妻に手を出すわけにはいきませんよね。それでは古の暴君、魁陽帝と一緒になってしまう」
「うるさいぞ」

 小鷹はいまいましげに従者を睨みつけた。

 それは時の皇帝──天鷹帝、飛鷹__フェイイン__#と、幼馴染でもある侍衛の永峻ヨンジュンだった。

「あの若さで人妻だと? せいぜい十六、七くらいだろう」

「庶民には生活がありますからね。さっさと身を固めて家業にせいを出さないと暮らしていけないんですよ。いつまでもフラフラしている誰かさんとは違います」

「何だと」
 飛鷹が睨みつけても、永峻は涼しい顔をしていた。

「そんなことより、本当にもう皇宮に戻りますよ。今夜は新しい妃たちのお披露目の席なんですから。肝心の皇帝陛下がお留守では話になりませんよ」

 永峻はそう言うと、飛鷹の返事も待たずに馬車を出すように命じた。


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