夕映え~武田勝頼の妻~

橘 ゆず

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落日

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 日が傾いてきた。時があまりなかった。

 人家もないこのような山中で夜を迎えるのはあまりにも危険で、またいたずらに兵の消耗を招くことでもあった。
一行の数はすでに百人を切っていた。そのうちの十余名が女と子供であった。

 勝頼は家臣の一人を呼び、武田家重代の御旗と『楯なしの鎧』を託しひそかに落ち延びさせた。
 嫡子の信勝は十六歳の若さであった。
 勝頼は相伝の家宝とともに信勝をも落ち延びさせたかったが、信勝はそれをきっぱりと拒んだ。

「この甲斐の地にもはや武田の誇りはありませぬ。譜代の家臣や御親類衆でさえも時勢を伺って裏切ったり、逃げ散ったりする者ばかり……。そのような場所にひとり生残って何の望みがありましょう。私は父上のお側で、最期の槍働きをお目にかけて武田家最期の当主として恥ずかしくないよう見事に散ってみせる所存にございます!」

「そうか」
 勝頼は重ねて落ち延びよとは云わなかった。

 亡き父、信玄から武田家直系の証である「信」の一字を授けられた我が子がそれに相応しく育っていることが誇らしく嬉しく、また、それだけに哀しかった。


 佐奈は勝頼がやって来るのを見るとくず折れるようにその場に平伏した。

「御館さま……申し訳ございませぬ……」

 か細い声はそのまま嗚咽となった。
「姫」
 勝頼は嫁いできた当初の呼び名で佐奈を呼び、やさしく抱き起こした。
 佐奈の黒目がちの瞳には涙が溢れていた。

「何を泣くことがある。詫びねばならぬのは余の方だというのに」
「なれど……」

 勝頼は、手を伸ばして指先で佐奈の涙を拭った。

「そなたの兄を恨んではおらぬ。自国の利益を考え、その時々で手を結ぶ相手を変えてゆくのは世の習いだ。現に余とて上杉の乱の折にそなたの兄、景虎どのを見捨てた」
「いいえ、あのときは……」

「そうだ。あの時も、そなたは武田の国を思うて決めたことだと余のしたことを責めなかった。一国の将としてやむをえないことだったのだと分かってくれ、余のそばに残ると云うてくれた。此度もそれと同じだ。氏政どのは相模の国を守るために決断されたのだ。恨んではならぬ」
「御館さま……」

 喉を震わせて泣き出した佐奈のからだを勝頼はそっと抱き寄せた。

「ただ、惜しむらくはこうなった今、そなたを故郷まで送っていってやることが出来なくなったことだ。物見の知らせでは、もう数刻もせぬうちに滝川一益率いる織田の軍勢がこの一帯を囲むであろう。そうなってはもうどこにも逃げ場はない。今ならばまだ囲みが手薄なところもあろう。北条からそなたに従ってきた早野内匠守はやのたくみのかみ剣持但馬守けんもちたじまのかみらに一隊をつけるゆえ、今すぐにこの場を発て。人数が多ければ人目につく。他の女子どもは置いて、藤野ひとりを連れて発て」

「嫌です!」
 勝頼の言葉が終らぬうちに佐奈は叫んだ。

「姫」
「嫌です! 嫌っ!!」
 云うなり佐奈は人目もはばからず勝頼の胸に縋りついた。

「分からぬことをいって困らせるな。もう本当に時がないのだ。こうして言い争っている時間も惜しい。敵はすぐそこまで迫っているのだぞ」

「分からないことを仰っているのは御館さまの方にございます。今になってそのようなことを仰せになるくらいなら何故私をここまでお連れになりました? ここで御館さまとお別れして、小田原へ帰りつけたとしてもそれで佐奈がのうのうと一人で生きてゆかれるとお思いなのですか!」

「分かっている! 余とてそなたと別れたくはない。しかし、我らを追っているのは織田方の兵だけではない。麓の集落の土民たちをもが落人狩りと称して手に手に鎌や鋤鍬を持ち山へ入って来ているという。軍律の厳しい織田の正規軍ならばいざ知らずそのような者どもの手に、万が一、そなたが落ちるようなことがあらば……」

 勝頼は佐奈をみつめると言葉を詰まらせた。

 佐奈はじっと勝頼を見つめ返した。

 絶世の美女だといわれた亡き信玄公の側室、諏訪御寮人。
 その生母にそっくりだという切れ長で涼やかな瞳が切なさを湛えて佐奈をみつめていた。

(御館さまはお優しい……)

 佐奈は胸が痛いほどそう思った。

 この期に及んでもただひたすらに佐奈の身を案じてくれている。
 その優しさが嬉しくて、哀しかった。

 佐奈の胸に今まで感じたどの瞬間よりも強い、勝頼への思慕が湧き上がってきた。

 こんな風に想われたらもうそれだけでいい。
 何もいらない。

 このからだも、命も。しっかりと胸に確かめたばかりの幸福も、愛しさも。
 すべてを手放して、運命の手に委ねることが出来る。

 もう何もいらない。

「御館さま…」
 静かに佐奈が懐から取り出したものを見て勝頼は目をみひらいた。
 それは一振りの懐剣であった。

 嫁いでいく佐奈に、兄の氏政が贈ってくれた亡き正室──勝頼には異母姉にあたる黄梅院の形見の品であった。紫苑色の絹に包まれたその紐を佐奈はするすると解いた。

 中から繊細な装飾を施した美しい鞘が現れた。
 佐奈は、その鞘を払うと黒髪をひと房つかんでためらいもなく切り落とした。

 声を失ってそれを見ている勝頼の面前で佐奈は、
「これへ」
と声をかけて離れた場所で控えていた早野内匠守以下、小田原から従ってきた家臣四人を側へ呼んだ。

 佐奈は、髪の束を四つに分けて、それぞれ男たちに渡した。
「今日までよく仕えてくれました。でもここでお別れです。あなた達は今すぐにここを発ち小田原を目指しなさい」
「御台さま……」

「最後に私の願いをもう一つだけ聞いて欲しいのです。この髪を小田原の兄上にお届けして。佐奈は父上の娘として──兄上の妹として恥ずかしくない立派な最期を遂げましたとお伝えしてちょうだい。……お恨みはいたしません、と……そうお伝えして」

 最年長の剣持但馬守は、
「姫さまをお一人残して帰ったとあっては、御館さまの御前に出る顔がございませぬ。どうかお供をお許し下さいませ」
と申し出た。佐奈はそれを小さく頷いて許した。

「髪はそのまま持っていて。本当は貴方にこそ小田原に戻って欲しかったのだけれど。あちらに待っている家族もいるでしょうに」

「本当に会いたいと願う者は皆、あちらにいるような年になってしまいました。このうえ姫さまにまで遅れをとったとあっては亡き御本城さまに会わせる顔がございませんからな」

 そう言って低く笑った剣持但馬守は、父、氏康が重用していた家臣であり、佐奈にとっても幼い頃から愛情深く仕えてくれた実の伯父のような存在だった。

 男たちは佐奈の髪を押し頂くようにして受け取るとそれぞれ懐紙に包んで丁寧に懐に入れた。

 剣持以外の三人は、
「では御前、失礼致します」
と短く云うと勝頼に深く一礼した後、佐奈に頭を下げて退がっていった。

 佐奈はその後ろ姿に深々と頭を下げた。

 周りじゅうを敵に囲まれた山中を脱出するのはいかに手練れの男たちとて命懸けのことであろう。
 それでも佐奈は自分の意志を、こうなったのは他の誰でもない佐奈自身が選んだ道で誰かに強いられたわけではないこと、決して後悔などはしていないことを故郷の者たちに知っておいて欲しかった。

 佐奈は勝頼を振り返った。

「北条の姫はたった今、小田原へ向けて発ちました。今、ここにいるのは武田家当主の正室。御館さまの妻にございます。決してあなた様の御名を穢すような真似は致しません。最期までお供させて下さいませ」

 声は静かだったが一歩も退かない気迫に満ちていた。

 佐奈が胸元でかざした懐剣が夕陽を浴びてきらきらと光った。

「まったく……強情な」

 勝頼は溜息を洩らした。

 佐奈の我儘を困りながらも最後には聞き入れてくれる時の顔だった。

「勝手にせよ」
呟くように云った声音には愛しさが籠もっていた。

 佐奈は勝頼に縋りついた。

「……ありがとうございます」

 新府を出て以来、怖いのは勝頼を失うことだけであった。
 顔を見る度抱きしめられる度ごとにこれが最後になるのではないのかと。

 部屋を出てゆく背中を見送ったきり、離れ離れになってもう二度と会うことが出来なくなるのではないのかと。

 死ぬのは怖くない。
 けれど、勝頼のいなくなった後の世にひとり残されることを思うとそれだけで全身の血が凍りついてしまいそうなほど怖かった。

 勝頼は最期まで側にいることを許してくれた。
 これでどこまでも一緒にゆける。

 もう二度と、一人取り残されることに脅えることはないのだ。
 だったらもう何も怖くない。
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