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第四章 諏訪の湖

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 諏訪大社は、信濃の国の一の宮で全国に存在する無数の諏訪神社の総本山であった。
 落慶供養の儀式が終ったあと、勝頼は神職らと対面したり、土地の有力者たちと歓談の座をもったりせねばならなかった。

 その間、佐奈姫と信勝には「せっかくだ。このあたりは風景が美しい。少し散策してくるが良い」とすすめた。
 佐奈姫は、子供のように喜び、信勝を促して連れだって出て行った。
 その様子はやはりどう見ても、母子というより姉と弟であった。
 
 一刻ほどして人々との対面を終えた勝頼が外に出ると、すでに日は傾きかけていた。
 佐奈姫と信勝はまだ戻っていないという。
「少々、遅うございますな。お迎えに行って参りましょう」
 近習の一人が申し出るのを

「良い。散策がてら余が行こう」

 制して、数人の供を連れて勝頼は館を出た。
 湖畔は、折りしも桜の花ざかりであった。
 岸辺には桜だけでなく連翹、躑躅、木蓮なども色を添え、若々しい青柳の枝が湖を渡ってくる風に吹かれて揺れていた。

 湖岸をめぐっている散策路をしばらく歩いていくと、佐奈姫たちの一行がいるのが見えた。
 水辺に近いところで石を投げたりして遊んでいるらしい。

 ちょうど、信勝が藍色の直垂の袖を大きく振りあげて投げるところだった。
 石は大きく数回、水面で跳ねて飛んでいった。
「まあ、お上手だこと」
 はしゃいだ声を出しているのは佐奈姫だ。

 信勝は、もう一つ石を拾い
「いつもならあちらの岸に届くくらい跳ねてゆくのだけど、今日はどうも調子が悪い」
 などと言っている。

「うそ。あちらの岸までなんてゆうに一里はありますわよ。届くわけありませんわ」
「うそではありません。本当です。なあ、小萩?」

「さあ、私は存じませんよ」
 信勝に言われた乳母も楽しげに笑っている。
「あら。小萩どのはご存じないって」

「じゃあ見てて下さいよ。今度こそ、向こう岸まで届かせてみせるから」
「はい」

 佐奈姫がくすくす笑っていい、まわりの侍女たちも信勝に従っている近習の若者や乳母たちも皆笑いさざめいている。
 信勝はむきになったように振りかぶって石を投げ、投げられた石は今度は、幾度も水面を跳ねながら先ほどよりもよほど遠くまで飛んでいった。
 女たちの間から拍手と喝采があがった。

 一番に手を打ってはしゃいだ声をあげたのが信勝の乳母の小萩で、それを見た人々からまた笑い声があがる。

 佐奈姫もいかにも楽しげに胸の前で小さく拍手をしている。

「どうです?ご覧になられましたか、母上」
 信勝が得意げに言う。
 その様子には、先ほどまでのよそよそしさは微塵もなかった。

「ええ。見ましたとも。本当に向こうの岸に着くくらい飛んでゆきましたわね」
「言った通りだったでしょう」
「ええ。本当に。疑って申し訳ございませんでした」
「お分かりになれば 良いのです」

 二人は顔を見合わせて声をたてて笑った。

 勝頼は、信勝がそんな風に年相応の少年らしいいきいきとした様子を見せていることに驚いた。
 生まれて間もなく生母を亡くした信勝は、それを不憫に思った周囲が真綿でくるむように大切に育て過ぎたせいか、武家の男子にしては繊細で気が優しすぎ、新しい場所や人に馴染むのに時間がかかるようなどちらかと言えば内気な子供であった。

 勝頼や乳母たち以外の人間の前で、あんな風にはしゃいだり素のままの顔を見せるのはひどく珍しいことだった。
 佐奈姫は、明るい気立ての少女で勝頼は彼女が嫁いできた最初の夜に涙を見せた時を除いて、彼女が泣いたり、塞ぎこんだりしている顔を見たことがなかった。

 けれど、いま信勝に向けているような屈託のない笑顔で、年相応にはしゃいでいる姿を見たのもこれが初めてであった。
(良かったではないか。気が合ったようで)

 年若すぎる継室の佐奈姫と嫡男の信勝の仲がうまくゆくかどうかというのは、今回の縁談にあたっての懸念のひとつであった。
 その心配が杞憂に終わりそうなのは喜ぶべきことなのだろうが、勝頼はなぜか胸に引っ掛かるものを感じていた。
 彼はそれを振り払うように二人のいる方へ歩いていった。

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