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第三章 四郎勝頼

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 信玄の死を知った他国につけ込まれるのを防ぐ為であったが、これにより武田家中での勝頼の立場は、非常に脆弱なものになった。

 天正三年(1575年)に三河の国、設楽ヶ原で起きた織田・徳川連合軍との戦での大敗は、逍遥軒信廉、穴山信君、武田信豊らの御親類衆が勝頼の指揮に従わず、勝手に退却を始めたことから陣形が崩れたことが大きな要因のひとつであった。

 しかし、当時、現場で戦に参加していた武将の多くが戦死してしまい、生き残ったのは勝頼の命を無視して
早々と退却を開始した者ばかりだったので、敗戦の真相は闇に葬り去られ、あとには、
 
「経験不足な陣代の、功を焦った浅慮な先走りが招いた結果」

 という勝頼に対する悪評だけが残った。
 剣持は、そのような悪評に関しては語らず、ただ、勝頼が「陣代」という一種、特殊な立場にあること。
 佐奈の継子となる信勝が事実上の信玄の後継者であり、もし、佐奈に男児が生まれたとしても即、武田の後継者にたてられるということはないこと。

 かと言って、佐奈の立場が軽んじられているわけではなくこの婚姻が両家の同盟のため、重要な役割を
持っていることなどを話して聞かせた。
 佐奈は、聡明な少女だった。
 人の話をよく聞き、それを砂地が水を吸うような素直さで吸収し、ものごとの本質を理解する能力に恵まれていた。
 
 佐奈は、剣持の話から勝頼の立場のおかれている立場の難しさを感じとり、そのような境遇にある人というのは、不機嫌な気難しい人かもしれないと危惧していた。

 十八も年長だということもあり、厳つい顔をした近寄りがたい男性を想像していた。
 けれど婚礼の夜、はじめて会った勝頼は、佐奈の想像とはまるで違っていた。

 三十二という年齢よりもずっと若々しく、切れ長で涼やかな目と通った鼻筋に、引き締まった口元をした
涼やかな美男だった。

 近寄りがたい威厳があるのは確かだったが、少しも恐ろしい感じはしなかった。
 佐奈はひとめで勝頼に好意をもった。
 ほとんどひとめ惚れと言って良かった。

 婚礼の夜、緊張のあまり泣き出してしまった佐奈を、勝頼は膝に抱いて優しく慰めてくれた。
 夫婦のことも、佐奈を怖がらせないように、心を配ってくれた。
 佐奈が勝頼を慕う気持ちは日増しに大きくなっていった。

 沿道の人々からまた歓呼の声があがった。

 勝頼は、かるく片手をあげてそれに応えた。

 甲斐の人々はいまだに亡き信玄のことを神のように敬い崇めているが、ここ諏訪の人々にとっては諏訪大社の大祝である神氏、諏訪家の血を引く勝頼こそが生ける神であった。

 人々が勝頼を仰ぎ見る目には、崇拝と敬慕、そして、遠い昔に失われてしまった尊いものを懐かしむような切ない慕情に溢れていた。

 人々の想いをこめた視線を受けて悠々と馬を進めてゆく勝頼の姿は、若き軍神のように凛々しく美しかった。

(あの方が私の背の君なのだわ)

 佐奈は、誇らしさと慕わしさで胸が痛くなるほどだった。

 行列が目的地に到着すると勝頼はわざわざ佐奈が輿から降りるのに手を貸してくれた。

「もったいのうございます…」
「良い。足元に気をつけるのだぞ」

 佐奈は頬を染めて勝頼の大きな手のひらに自分の手を重ねた。

 夫婦というよりは、仲睦まじい兄と妹のような姿に周囲から微笑ましげな視線が送られた。

 勝頼が、今回の参詣に佐奈を伴い、公の場でことさら彼女を大切にして見せるのには夫婦仲が睦まじいことを通して、武田と北条の同盟が磐石であることを世間に示すデモンストレーション的な意味合いが多分に含まれていた。

 初恋の最中にいる佐奈に、それは分からない。
 彼女は、夫の優しいいたわりに感謝し、改めて自分の幸せを噛みしめていた。





 

 
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