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第二章 花の廓

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 躑躅ヶ崎。

 その名が示すとおり、武田家の本拠躑躅ヶ崎の館の内には、白、桃色、紅色、さまざまな色の躑躅の花が
溢れていた。

 佐奈姫が住まう新館は本殿の西側、いくつかの棟が連なりあう「花のくるわ」と呼ばれる一角にあった。

 呼び名の通り、それぞれの棟の前や、渡り廊下の途中から見える壺庭には常に色とりどりの季節の花が咲き乱れ、特に今のような春の盛りともなると梅や桜、山吹に藤などが次々と満開を迎え、目にも綾な光景が広がっていた。
 
 勝頼は、婚礼以来毎晩欠かさずに佐奈姫のもとを訪れたが、床に入っても相変わらず姫を抱きしめたり、髪を撫でたりするだけで、容易にその行為に及ぼうとはしなかった。

 彼の脳裏には十五歳で甲斐に嫁いで来て間もなく身ごもり、その子を産み落としたものの産褥から起き上がることなく逝ってしまったたえ姫のことが常にあった。

 妙姫は、輿入れ前に乳母たちに言い含められていたのだろう。
 夜の床ではいつも勝頼に従順過ぎるほど従順だった。

 その間は決して目を開けず、夫が自分の上を慌しく駆け過ぎてゆくのを辛抱強く待っているようだった。

 妙姫はいつも慎み深く、勝頼が訪れると柔らかな笑顔で迎えてくれたが、時折、放心したように庭先に視線を遊ばせ、ぼんやりと花や庭木を眺めていることがあった。

 そんな時の妙姫はひどく悲しげで、今にも縁先の光に淡く溶けていってしまいそうで、そんな姿を見る度に、勝頼は姫を腕をなかに引き寄せ、強く抱きしめずにはいられなかった。

 そんな時も妙姫はかすかに微笑むだけで、抗うこともしないかわりに
「何かあったのか?」
 と尋ねても、決してその理由を話したりもしなかった。

 若い勝頼は、毎夜、妙姫を熱愛することで彼女との間に存在している隙間のようなものを埋めようとした。
 それ以外に方法が分からなかったのだ。
 けれど、どんなに愛しても姫の顔からその寂しげな陰が消えることはなかった。

 そのか細いからだを強く抱きしめれば抱きしめるほど、姫の心は勝頼の腕をすり抜けてさらに遠くにいってしまうようだった。

 結局、その心のなかを一度も触れさせることのないまま妙姫は十六歳の若さでいってしまった。
 産褥の床で高熱に連夜、うなされながら妙姫は我慢強くどんな弱音も泣き言もこぼさなかった。

 そして、その床の中から姫が勝頼の名を呼ぶことはただの一度もなかった。



「あ」
 腕のなかの佐奈姫が小さく声をあげた。
「何だ?」
「うぐいす」
 そう言って、勝頼の膝から立ち上がった佐奈姫は
「ほら、あそこに」
 と庭先の紅梅の木の枝を指さした。
「ああ」
「小田原の館の庭にもよく春になるとうぐいすがやって来ました」

 佐奈姫は、縁先まで出て梅の枝を見上げながら嬉しそうに言った。

「もしかして同じ子だったりするのかしら」
「まさか」
「いいえ。分かりませんわ。だってこの子には羽根があるのですもの。小田原から私の駕籠について来たのかも」

 そう言って眩しげに鶯を見ている佐奈姫が、 一瞬遠くをみるような目をしたのに気がついた勝頼は、
「おいで」
 と姫を手招いた。
 姫はすぐに戻ってきて手を引かれるままにおとなしく勝頼の膝に座った。

「実家が恋しくなったか?」
 尋ねると、
「まあ、いいえ」
 佐奈姫はわずかに頬を染めてかぶりを振った。
「隠さずとも良い。そなたの年で故郷を離れこのような山深い土地に嫁いできたのだ。里が恋しくなって
 当り前だ。余とて十六の年に高遠の城主に任ぜられその地に赴いたときはしばらくは諏訪の地が懐かしくて空ばかり見ていたものだ」

「まあ」
 佐奈姫は、黒目がちの大きな瞳をぱちぱちと瞬いた。
「なんだ?」
「御館さまのようなご立派な御方がそのようなことを仰せになられるなど、なんだか不思議な気が致します」

 勝頼は笑った。
「余だとて生まれたときから今のようだったわけではない。姫の年頃にはつまらぬことで腹を立てたり、沈んだりしておったし、もっと小さい時には亡くなられた母上に会いたいと駄々をこねて守り役たちを困らせたこともあったぞ」
「まあ」

 姫は、大きな瞳をみはってじっと勝頼をみつめていたが、やがて悲しげに睫毛を伏せた。
「どうした?」
「私も…」
「うん?」
「私も、その頃の御館さまにお会いしてみとうございました。母上さまにお会いしたいとむずがっていらっしゃる小さな御館さまを私がそばにいて
 お慰めしとうございました」
「余が幼い頃など、姫はまだこの世に生まれてもおらなんだであろう」
 勝頼が声を立てて笑うと、
「そういうお話ではございません」
 姫は頬をふくらませて勝頼を見上げた。
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