春恋ひにてし~戦国初恋草紙~

橘 ゆず

文字の大きさ
5 / 11
第二章 花の廓

しおりを挟む
 躑躅ヶ崎。

 その名が示すとおり、武田家の本拠躑躅ヶ崎の館の内には、白、桃色、紅色、さまざまな色の躑躅の花が
溢れていた。

 佐奈姫が住まう新館は本殿の西側、いくつかの棟が連なりあう「花のくるわ」と呼ばれる一角にあった。

 呼び名の通り、それぞれの棟の前や、渡り廊下の途中から見える壺庭には常に色とりどりの季節の花が咲き乱れ、特に今のような春の盛りともなると梅や桜、山吹に藤などが次々と満開を迎え、目にも綾な光景が広がっていた。
 
 勝頼は、婚礼以来毎晩欠かさずに佐奈姫のもとを訪れたが、床に入っても相変わらず姫を抱きしめたり、髪を撫でたりするだけで、容易にその行為に及ぼうとはしなかった。

 彼の脳裏には十五歳で甲斐に嫁いで来て間もなく身ごもり、その子を産み落としたものの産褥から起き上がることなく逝ってしまったたえ姫のことが常にあった。

 妙姫は、輿入れ前に乳母たちに言い含められていたのだろう。
 夜の床ではいつも勝頼に従順過ぎるほど従順だった。

 その間は決して目を開けず、夫が自分の上を慌しく駆け過ぎてゆくのを辛抱強く待っているようだった。

 妙姫はいつも慎み深く、勝頼が訪れると柔らかな笑顔で迎えてくれたが、時折、放心したように庭先に視線を遊ばせ、ぼんやりと花や庭木を眺めていることがあった。

 そんな時の妙姫はひどく悲しげで、今にも縁先の光に淡く溶けていってしまいそうで、そんな姿を見る度に、勝頼は姫を腕をなかに引き寄せ、強く抱きしめずにはいられなかった。

 そんな時も妙姫はかすかに微笑むだけで、抗うこともしないかわりに
「何かあったのか?」
 と尋ねても、決してその理由を話したりもしなかった。

 若い勝頼は、毎夜、妙姫を熱愛することで彼女との間に存在している隙間のようなものを埋めようとした。
 それ以外に方法が分からなかったのだ。
 けれど、どんなに愛しても姫の顔からその寂しげな陰が消えることはなかった。

 そのか細いからだを強く抱きしめれば抱きしめるほど、姫の心は勝頼の腕をすり抜けてさらに遠くにいってしまうようだった。

 結局、その心のなかを一度も触れさせることのないまま妙姫は十六歳の若さでいってしまった。
 産褥の床で高熱に連夜、うなされながら妙姫は我慢強くどんな弱音も泣き言もこぼさなかった。

 そして、その床の中から姫が勝頼の名を呼ぶことはただの一度もなかった。



「あ」
 腕のなかの佐奈姫が小さく声をあげた。
「何だ?」
「うぐいす」
 そう言って、勝頼の膝から立ち上がった佐奈姫は
「ほら、あそこに」
 と庭先の紅梅の木の枝を指さした。
「ああ」
「小田原の館の庭にもよく春になるとうぐいすがやって来ました」

 佐奈姫は、縁先まで出て梅の枝を見上げながら嬉しそうに言った。

「もしかして同じ子だったりするのかしら」
「まさか」
「いいえ。分かりませんわ。だってこの子には羽根があるのですもの。小田原から私の駕籠について来たのかも」

 そう言って眩しげに鶯を見ている佐奈姫が、 一瞬遠くをみるような目をしたのに気がついた勝頼は、
「おいで」
 と姫を手招いた。
 姫はすぐに戻ってきて手を引かれるままにおとなしく勝頼の膝に座った。

「実家が恋しくなったか?」
 尋ねると、
「まあ、いいえ」
 佐奈姫はわずかに頬を染めてかぶりを振った。
「隠さずとも良い。そなたの年で故郷を離れこのような山深い土地に嫁いできたのだ。里が恋しくなって
 当り前だ。余とて十六の年に高遠の城主に任ぜられその地に赴いたときはしばらくは諏訪の地が懐かしくて空ばかり見ていたものだ」

「まあ」
 佐奈姫は、黒目がちの大きな瞳をぱちぱちと瞬いた。
「なんだ?」
「御館さまのようなご立派な御方がそのようなことを仰せになられるなど、なんだか不思議な気が致します」

 勝頼は笑った。
「余だとて生まれたときから今のようだったわけではない。姫の年頃にはつまらぬことで腹を立てたり、沈んだりしておったし、もっと小さい時には亡くなられた母上に会いたいと駄々をこねて守り役たちを困らせたこともあったぞ」
「まあ」

 姫は、大きな瞳をみはってじっと勝頼をみつめていたが、やがて悲しげに睫毛を伏せた。
「どうした?」
「私も…」
「うん?」
「私も、その頃の御館さまにお会いしてみとうございました。母上さまにお会いしたいとむずがっていらっしゃる小さな御館さまを私がそばにいて
 お慰めしとうございました」
「余が幼い頃など、姫はまだこの世に生まれてもおらなんだであろう」
 勝頼が声を立てて笑うと、
「そういうお話ではございません」
 姫は頬をふくらませて勝頼を見上げた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

処理中です...