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第三章 悪人たちの狂騒曲

45.眠れる森の公爵令嬢

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 アドリアンが別荘につくと、待ち受けていた侍女が恭しく馬車を出迎えた。
 もちろんこの侍女もマリエッタが手配した偽の侍女である。

「お待ちしておりました。お嬢さまが中でお待ちでございます」
 そう言って頭を下げる侍女を見て、アドリアンがちょっと眉を上げた。

「クレヴィング家の者か? 見ない顔だが。今日はシェリルは一緒ではないのか」

 アマーリアとは、十年近く婚約者として過ごしてきたアドリアンである。
 アマーリアのそば近く仕えている公爵家の従者や侍女たちとは、一通り面識があったが出迎えた侍女は見たことのないものだった。

 こういったお忍びのときなどは、必ず乳母の娘であるシェリルが付き添っていたものだったが……。

 侍女はそれには答えずに曖昧に微笑むと、

「さあ、それより早くお嬢さまのもとへ」
 とアドリアンを促した。

 
 案内された部屋に一歩足を踏み入れたアドリアンは驚きに立ちすくんだ。

 その部屋は、中央のローテーブルを挟んでソファが置かれている貴族の家によくある応接間だったが、そのソファの背にもたれかかるようにしてアマーリアが眠っていたのだ。

 案内してきた侍女が、
「お嬢様は殿下のことを想って眠れない日々が続いていたのでお疲れが出たようです」
と申し訳なさそうに言った。

 アドリアンの胸にアマーリアへの愛おしさがこみ上げてきた。

「お嬢さま。殿下がお着きになられました。お嬢さま」

 侍女がアマーリアを起こそうとする。
 もちろん、本当に起こしては元も子もないので声をひそめたまま、体には触れずに揺り動かす振りだけをする。

 エリザベートが用意した眠り薬は、数時間の間なら多少動かしても、物音をたてても目が覚めないほどの効果があるとは聞いているが、念を入れるに越したことはない。

「よい。寝かせておけ」
 アドリアンが言った。

「せっかくよく眠っているのだ。起こしては可哀想だろう」

「でも、このようなところでお休みになられてはお風邪を召されてしまいます」

「毛布か何かを持ってきてかけてやればいい」
 アドリアンが言うと、侍女はぱっと顔を輝かせて微笑んだ。

「それよりも殿下。恐れ入りますがお嬢さまを寝台までお連れしていただけないでしょうか? すぐそこになりますので」

 王子であるアドリアンに対して、本来ならば考えられないくらい不躾な申し出である。

 アドリアンは驚いたが、それだけクレヴィング家の使用人たちは今でもアドリアンをアマーリアの未来の夫だと、親しみをもって接してくれているのかもしれないと思い直す。

 アドリアンは眠っているアマーリアに歩み寄り、抱き上げた。
 小柄なアマーリアの体は重たくはなかったが、ぐっすりと眠っていて力を抜き切っているので抱え上げるのに少し苦労した。

「こちらでございます」
 侍女が先導したのは、応接間のすぐ隣りの部屋だった。

(応接間の隣りに令嬢の寝室……?)

 いぶかしく思う気持ちは、アマーリアを抱いて部屋に入った途端にさらに強まった。

「う……なんだ。この香りは」
 アドリアンは眉をひそめた。

 部屋のなかにはむせ返りそうになるほど強い、甘い香りが充満していたのだ。

「イスナーンから取り寄せた香木にございます。お嬢さまの最近のお好みで」
「アマーリアは、あまり強い香りは好まなかったはずだが……」

「それは殿下とお別れになったあと、お嬢さまには色々とお悩みが深くていらっしゃいまして。お心を紛らわせるために色々と」

「そ、そうか」
 確かにこの香木の香りは悩み事どころか、思考力を丸ごと吹き飛ばされて朦朧としてきそうな強烈さだった。

 アドリアンはアマーリアを寝台に寝かせた。
 乱れたドレスの裾を繕ってやり、顔を上げると案内してきた侍女の姿がない。

 先ほどの部屋に戻ろうとしたアドリアンは、ドアに鍵がかかっていることに気がついた。

「どういうことだ?」

 アマーリアを起こさないように軽くドアを叩くと、それを待っていたようにドアのむこうで侍女が応える声がした。

「なぜ、鍵をかけた? すぐにここを開けろ」
「申し訳ございません。なにぶん古い屋敷ですのでドアが壊れてしまったようで。今、助けを呼んでまいりますので、そちらでお待ち下さい」

 ドアが壊れて人が閉じ込められたという突発的な事故が起こったわりに、妙に落ち着き払った侍女の声がする。

 しかも、助けを呼んでくると言うわりには人を呼ぶ声も走っていく足音もしない。

(いったい、どうなってるんだ……)
 困惑しながらも、助けを呼ぶというのならそれが来るまで待っていようと、アドリアンは溜息をついた。

 もともと、物事を深く考えるたちではないし、何かにつけて人任せで育ってきているのでこういった状況に陥っても自分でなんとかしようという発想がないのだ。

 アドリアンは室内をみまわした。

 ベッドの他には小さな椅子もない。

 仕方なくアドリアンはアマーリアが眠っているベッドの端に腰を下ろした。
 
 質素な調度類のなかで、そこだけ妙にけばけばしく飾り立てられた寝台の中央でアマーリアはすやすやと眠っていた。

 淡いピンク色のドレスの胸が呼吸に合わせて規則正しく上下している。
 淡い金色の髪が、結い上げられずにそのまま枕のまわりに広がっているのが少女のような愛らしさだった。

 アドリアンは思わず吸い寄せられるように、枕元の方へと移動した。

 長い睫毛が、柔らかそうな頬に影を落としている。
 白いミルクのような肌は、頬のあたりだけがピンクに上気していかにも健やかそうだ。

 花びらのように色づいた可憐な唇が、うっすらと開いてかすかに寝息を立てているのを見て、アドリアンは無意識に、ふうっと吐息を漏らした。

(なんだろう。この胸の高鳴りは……。久しぶりにリアに会ったせいだろうか。動悸が激しくて、なんだか胸が苦しい……頭がくらくらするみたいだ)

 それに体の中心が燃え上がるように熱い。
 
(なんだ。これは。俺はこんなに、顔を見ただけで胸が苦しくなるほど、リアのことが恋しかったのか。確かに、会えて嬉しい気持ちはあるけれど……でも、これは恋というよりまるで……)

 アドリアンは戸惑った。

 体の奥底から湧き上がってくるそれは、恋の情熱というよりもそれははっきりと情欲だった。

 マリエッタと二人きりで過ごしていた時。
 甘えて膝にのってくる彼女にしなだれかかられ、幾度もキスを繰り返すうちに湧き上がってきた体を内側から炙られるようなじりじりとした熱さ。

 それに心身を揺すぶられるような誘惑を感じながら、アドリアンは懸命に自分を制してきた。

 未婚の令嬢とそのような淫らな行為を交わすことは、彼女の名誉を傷つけるだけでなく自分の王子としての品位を損なうものだと信じていたからだ。

 その時に感じたのと同じ熱が、今、アドリアンの身体を内側から焦がすような勢いで突き上げてきている。

 しかもその情欲が向かおうとしている先は、色っぽく身をくねらせ、口づけや愛撫をねだるマリエッタではない。
 子どものような汚れのない寝顔で、無防備に眠っているアマーリアなのだ。

 今すぐにでも彼女に覆いかぶさり、その柔らかな体を抱きしめて、ところかまわずキスを雨を降らせたい衝動が抑えようもなく湧き上がってくる。


(どうなっているんだ、俺はいったい……)

 アドリアンは、大きく頭を振った。

(この香りがいけないんだ。これを嗅いでいると頭がぼんやりしておかしくなる。どこか窓はないか。窓を開けて、外の空気を……)

 眠るアマーリアから吸い寄せられたように離れない視線を無理矢理に引きはがし、よろめくようにベッドを降りる。

 なんとか窓辺に辿り着いたが、窓にもすべて鍵がかかっている。

  アドリアンはぼんやりとした目で周囲を見回して、ふらふらとベッドに歩み寄った。

  隣室の壁に作った隠し窓から覗いていたマリエッタがほくそ笑む。

 が、次の瞬間その笑みが固まった。

  ベッドに歩み寄り、そのままアマーリアに覆い被さるかに見えたアドリアンが、枕元の台に置いてあった花瓶を持ち上げ、花を抜き捨てると、叩きつけるようにして頭から水をかぶったのだ。

  水飛沫があたりに飛び散った。
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