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第五章 保元の乱
義父上
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白河北殿がおちて後、消息が知れなかった新院が御室の仁和寺に入られたとの知らせが届いた。
一時は近江の三井寺を目指して、山中に身を潜められたものの断念され、弟宮の法親王を頼られてのことだということだった。 新院はすでに山中でさまを変えられて、墨染のお姿だったという。
逃亡の途中、矢傷を負ったという左大臣さまは恐らく南都の父君を頼っていかれるだろうということで、そちら方面に大量の追捕史が遣わされた。
新院にしても左大臣さまにしても、つい先日までは雲上人として人々に仰ぎ見られる尊い存在であったはずなのに、それが一夜あけたら「朝敵」「賊軍」と呼ばれ、罪人として追捕される御身になるなんて……。
無常は世の常とはいえあまりにもお労しいと人々は囁き合った。
私は日がな一日、東の対の怪我人の収容所で働いていた。
仕事はいくらでもあり、人手は足りなかったので目の回るような忙しさだったけれど、今はそれがありがたかった。
由良の方さまは心配して、しきりと「少し休みなさい」と言って下さる。
けれど、下手に部屋に一人でいたりするとどうしても悪い方へと考えがいってしまう。
かと言って御前の間にいると、夫や家族が無事だった人たちが私の前ではあまり嬉しそうな様子を見せてはいけないと、気遣ってくれているのがわかって申し訳なく、かえってつらい気持ちになってしまう。
朝早くから座る暇もなく忙しく働いて、夜になったらくたくたになって寝床に転がり込む、という今の状態が結局のところ一番楽なのだった。
それでも眠りの合間を縫うように忍び込んでくる夢にうなされて夜中に何度も目を覚ました。
戦場を正清さまを探してさ迷うような夢も恐ろしいけれど、もっと怖いのは過去の、なんでもない平穏な日常の夢を見ることだった。
夢のなかで朝のお支度の手伝いをしたり、夕餉のおかわりのお椀をお注ぎしたりしながら他愛のないお話をして笑いあって。
目が覚めたときに、すべてを思い出す瞬間はたまらなかった。そのうちには眠るのが怖くなった。
私が負傷兵の手当や看病をしたいと申し出ると、父さまは最初、
「何もおまえがそんなことをせずとも」
と渋い顔をされた。
けれど槙野が、
「私がお供いたしますゆえ。姫さまのなさりたいようにさせて差し上げて下さいませ」
と説得してくれたので、渋々許して下さった。
その槙野は朝から晩まで誰よりもきびきびと忙しく立ち働いている。
正直、槙野が正清さまのことで言ったことはまだ許せない。
けれど、血と汗のむせ返るような臭いのなかで、すぐ側で働いている槙野の存在だけが元の私のいた日常に繋がっているようで。
私は内心、槙野に感謝していた。
私ひとりでここに来たところで、正直何をしていいのか分からなかったし、それ以前にこの状況に体がすくんでしまっていたと思う。
戦から二日が過ぎた七月十三日の昼頃。
義朝さまの使いだという金王丸という童が訪ねてきた。
「鎌田正清どののご妻女は、こちらにおいでですか?」
「私、です……」
庭先で金王丸と対面しながら、私は不安で目も眩みそうな思いだった。
「頭の殿からお言伝を預かって参りました」
私はその場に跪いた。
「……つつしんで承ります」
金王丸は表情を改めた。
「鎌田権守通清さまが、一昨日の白河北殿の戦いでお討ち死になさいました。亡骸が堀河の邸へ届いており、正清どののご妻室にお越しいただきたいと、殿が……」
その言葉を聞いた瞬間。
一瞬。
一瞬だけれど、私は。
安堵した。
(正清さまじゃ、なかった……)
次の瞬間、そんな自分を激しく嫌悪した。
言葉を失って立ち尽くす私を気遣うように見ながら、金王丸は言葉を続けた。
「このような時に恐縮なのですが……。通清どののお身内は正清どの以外は皆、今回の戦で敵方についた者か、領国の相模におられる方ばかりで……。今、亡骸をお引き取り頂けるのはあなた以外におられなくて……。来ては貰えぬかとの殿の仰せにございます」
「分かりました。すぐに参ります」
私は頷いた。
「槙野」
心配そうに後ろに控えていた槙野に声をかける。
「義父上をお迎えに参ります。四条の邸へお連れすることになると思うので、先に戻って支度をお願い」
「六条へは…」
「私がひとりで行きます」
「はい。畏まりました」
余計なことは言わずに槙野は退がっていった。
私は、手早く身支度を整えると金王丸に案内されて六条のお邸へと向かった。
義父上は、他の戦死者とは別に東北の対屋の一室にいらっしゃるとのことだった。
「佳穂」
寝殿で出迎えて下さった義朝さまのお姿をお見上げした瞬間。
その傍らに正清さまがいらっしゃらないことに、改めて打ちのめされた思いがして私は黙って平伏した。
「このような時にすまぬな。少しは眠って、食べておるか?」
「はい……」
いたわりの滲んだお声に涙が零れそうになる。
「正清は、俺の許しなくどこかへ行ったりは決してせぬ。きっと戻って来る。それまで通清のことを頼むぞ」
「……はい」
こみ上げてくる嗚咽を堪えてじっとひれ伏していると大きなお手がぽん、と頭にのった。
そのまま、よしよし、と子供をあやすように髪を撫でられる。
「通清は俺にとっても父同然の存在だった。此度の戦では敵味方に別れて戦ったが大切に想う気持ちに変わりはない。手厚く弔ってやってくれ。それから……」
そこで義朝さまは言葉を切って、それからゆっくりと続けられた。
「正清はまだ連れてゆくな、と。浄土へ行く途中で見かけたらはよう追い返せと重々言っておいてやってくれ」
「はい……」
こらえきれずに涙が零れた。
東北の対屋の室内には香が焚かれていた。
部屋の隅に控えていた侍女は、私の姿を見ると黙ってお辞儀をして退がっていった。
義父上は褥に横たわっておられた。
すでに鎧も取り去られた直垂姿で、お顔も手足も、拭われたあとなのかお綺麗だった。
ただ、額の右上に矢が掠めたあとなのか傷跡が残っているのが痛々しかった。
私は枕元に座った。
お顔の色は青黒く変わっていたけれど、目を閉じたそのお顔は穏やかでまるで眠っておられるようで。
今にもお目を開けて
「わしが死んだと聞いて本気にしたか? 驚いたであろう?」
と悪戯っぽく仰りながら、起き上がられそうな気がした。
私は黙って義父上のお顔をみつめた。
なぜか、婚礼の前の夜。厩で正清さまと出逢った時のことが思い出された。
「なんと勇ましい娘御じゃ!」
「良き嫁を得て、我が家は末永く安泰じゃ!」
義父上の快闊な笑い声が耳に甦ってくる。
思えばあの時からずっと義父上は私にお優しかった。
婚礼の前夜に婿君を馬泥棒と間違えるような私に、浮気相手のことで喧嘩をしてお邸に逃げていったような私に。
いつまでたっても跡継ぎの一人も産むことの出来なかった私に。
ずっと、ずっと、お優しかった。
「申し訳ありません……」
呟きが嗚咽になって膝に落ちた。
私は義父上に何もして差し上げられなかった。
ずっと優しくして頂いたのに。
為義さまと、義朝さまとの間に立って悩んでおられた義父上のお力になることが出来なかった。
私が由良の方さまのようにもっと聡明だったなら。
義父上のお悩みが少しでも軽くなるようお手伝いが出来たかもしれないのに。
そうでなくとも、せめて、正清さまによく似た可愛い男の子でも私が産んでいたなら、気苦労の多い日々のなかどんなにかお慰めになっただろうに。
それすらして差し上げられなかった。
亡くなった知らせを受けた時ですら、咄嗟に頭に浮かんだのは正清さまの訃報でなかったことに安堵する思いの方だった。
「ごめんなさい……ごめんなさい…」
義父上の枕元にうずくまって私は泣いた。
浮かんでくる義父上の面影は、こんな時でも楽しげに笑っていらっしゃるお顔ばかりだった。
(佳穂は本当に可愛いのう)
(正清に苛められたら、この父にいつでも言うのだぞ)
思い出のなかの義父上の明るい笑顔が、お優しいお声が私をますます泣きたくさせた。
涙はあとからあとから溢れてきて、尽きることがなかった。
一時は近江の三井寺を目指して、山中に身を潜められたものの断念され、弟宮の法親王を頼られてのことだということだった。 新院はすでに山中でさまを変えられて、墨染のお姿だったという。
逃亡の途中、矢傷を負ったという左大臣さまは恐らく南都の父君を頼っていかれるだろうということで、そちら方面に大量の追捕史が遣わされた。
新院にしても左大臣さまにしても、つい先日までは雲上人として人々に仰ぎ見られる尊い存在であったはずなのに、それが一夜あけたら「朝敵」「賊軍」と呼ばれ、罪人として追捕される御身になるなんて……。
無常は世の常とはいえあまりにもお労しいと人々は囁き合った。
私は日がな一日、東の対の怪我人の収容所で働いていた。
仕事はいくらでもあり、人手は足りなかったので目の回るような忙しさだったけれど、今はそれがありがたかった。
由良の方さまは心配して、しきりと「少し休みなさい」と言って下さる。
けれど、下手に部屋に一人でいたりするとどうしても悪い方へと考えがいってしまう。
かと言って御前の間にいると、夫や家族が無事だった人たちが私の前ではあまり嬉しそうな様子を見せてはいけないと、気遣ってくれているのがわかって申し訳なく、かえってつらい気持ちになってしまう。
朝早くから座る暇もなく忙しく働いて、夜になったらくたくたになって寝床に転がり込む、という今の状態が結局のところ一番楽なのだった。
それでも眠りの合間を縫うように忍び込んでくる夢にうなされて夜中に何度も目を覚ました。
戦場を正清さまを探してさ迷うような夢も恐ろしいけれど、もっと怖いのは過去の、なんでもない平穏な日常の夢を見ることだった。
夢のなかで朝のお支度の手伝いをしたり、夕餉のおかわりのお椀をお注ぎしたりしながら他愛のないお話をして笑いあって。
目が覚めたときに、すべてを思い出す瞬間はたまらなかった。そのうちには眠るのが怖くなった。
私が負傷兵の手当や看病をしたいと申し出ると、父さまは最初、
「何もおまえがそんなことをせずとも」
と渋い顔をされた。
けれど槙野が、
「私がお供いたしますゆえ。姫さまのなさりたいようにさせて差し上げて下さいませ」
と説得してくれたので、渋々許して下さった。
その槙野は朝から晩まで誰よりもきびきびと忙しく立ち働いている。
正直、槙野が正清さまのことで言ったことはまだ許せない。
けれど、血と汗のむせ返るような臭いのなかで、すぐ側で働いている槙野の存在だけが元の私のいた日常に繋がっているようで。
私は内心、槙野に感謝していた。
私ひとりでここに来たところで、正直何をしていいのか分からなかったし、それ以前にこの状況に体がすくんでしまっていたと思う。
戦から二日が過ぎた七月十三日の昼頃。
義朝さまの使いだという金王丸という童が訪ねてきた。
「鎌田正清どののご妻女は、こちらにおいでですか?」
「私、です……」
庭先で金王丸と対面しながら、私は不安で目も眩みそうな思いだった。
「頭の殿からお言伝を預かって参りました」
私はその場に跪いた。
「……つつしんで承ります」
金王丸は表情を改めた。
「鎌田権守通清さまが、一昨日の白河北殿の戦いでお討ち死になさいました。亡骸が堀河の邸へ届いており、正清どののご妻室にお越しいただきたいと、殿が……」
その言葉を聞いた瞬間。
一瞬。
一瞬だけれど、私は。
安堵した。
(正清さまじゃ、なかった……)
次の瞬間、そんな自分を激しく嫌悪した。
言葉を失って立ち尽くす私を気遣うように見ながら、金王丸は言葉を続けた。
「このような時に恐縮なのですが……。通清どののお身内は正清どの以外は皆、今回の戦で敵方についた者か、領国の相模におられる方ばかりで……。今、亡骸をお引き取り頂けるのはあなた以外におられなくて……。来ては貰えぬかとの殿の仰せにございます」
「分かりました。すぐに参ります」
私は頷いた。
「槙野」
心配そうに後ろに控えていた槙野に声をかける。
「義父上をお迎えに参ります。四条の邸へお連れすることになると思うので、先に戻って支度をお願い」
「六条へは…」
「私がひとりで行きます」
「はい。畏まりました」
余計なことは言わずに槙野は退がっていった。
私は、手早く身支度を整えると金王丸に案内されて六条のお邸へと向かった。
義父上は、他の戦死者とは別に東北の対屋の一室にいらっしゃるとのことだった。
「佳穂」
寝殿で出迎えて下さった義朝さまのお姿をお見上げした瞬間。
その傍らに正清さまがいらっしゃらないことに、改めて打ちのめされた思いがして私は黙って平伏した。
「このような時にすまぬな。少しは眠って、食べておるか?」
「はい……」
いたわりの滲んだお声に涙が零れそうになる。
「正清は、俺の許しなくどこかへ行ったりは決してせぬ。きっと戻って来る。それまで通清のことを頼むぞ」
「……はい」
こみ上げてくる嗚咽を堪えてじっとひれ伏していると大きなお手がぽん、と頭にのった。
そのまま、よしよし、と子供をあやすように髪を撫でられる。
「通清は俺にとっても父同然の存在だった。此度の戦では敵味方に別れて戦ったが大切に想う気持ちに変わりはない。手厚く弔ってやってくれ。それから……」
そこで義朝さまは言葉を切って、それからゆっくりと続けられた。
「正清はまだ連れてゆくな、と。浄土へ行く途中で見かけたらはよう追い返せと重々言っておいてやってくれ」
「はい……」
こらえきれずに涙が零れた。
東北の対屋の室内には香が焚かれていた。
部屋の隅に控えていた侍女は、私の姿を見ると黙ってお辞儀をして退がっていった。
義父上は褥に横たわっておられた。
すでに鎧も取り去られた直垂姿で、お顔も手足も、拭われたあとなのかお綺麗だった。
ただ、額の右上に矢が掠めたあとなのか傷跡が残っているのが痛々しかった。
私は枕元に座った。
お顔の色は青黒く変わっていたけれど、目を閉じたそのお顔は穏やかでまるで眠っておられるようで。
今にもお目を開けて
「わしが死んだと聞いて本気にしたか? 驚いたであろう?」
と悪戯っぽく仰りながら、起き上がられそうな気がした。
私は黙って義父上のお顔をみつめた。
なぜか、婚礼の前の夜。厩で正清さまと出逢った時のことが思い出された。
「なんと勇ましい娘御じゃ!」
「良き嫁を得て、我が家は末永く安泰じゃ!」
義父上の快闊な笑い声が耳に甦ってくる。
思えばあの時からずっと義父上は私にお優しかった。
婚礼の前夜に婿君を馬泥棒と間違えるような私に、浮気相手のことで喧嘩をしてお邸に逃げていったような私に。
いつまでたっても跡継ぎの一人も産むことの出来なかった私に。
ずっと、ずっと、お優しかった。
「申し訳ありません……」
呟きが嗚咽になって膝に落ちた。
私は義父上に何もして差し上げられなかった。
ずっと優しくして頂いたのに。
為義さまと、義朝さまとの間に立って悩んでおられた義父上のお力になることが出来なかった。
私が由良の方さまのようにもっと聡明だったなら。
義父上のお悩みが少しでも軽くなるようお手伝いが出来たかもしれないのに。
そうでなくとも、せめて、正清さまによく似た可愛い男の子でも私が産んでいたなら、気苦労の多い日々のなかどんなにかお慰めになっただろうに。
それすらして差し上げられなかった。
亡くなった知らせを受けた時ですら、咄嗟に頭に浮かんだのは正清さまの訃報でなかったことに安堵する思いの方だった。
「ごめんなさい……ごめんなさい…」
義父上の枕元にうずくまって私は泣いた。
浮かんでくる義父上の面影は、こんな時でも楽しげに笑っていらっしゃるお顔ばかりだった。
(佳穂は本当に可愛いのう)
(正清に苛められたら、この父にいつでも言うのだぞ)
思い出のなかの義父上の明るい笑顔が、お優しいお声が私をますます泣きたくさせた。
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