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第五章 保元の乱

追憶

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 蜻蛉が飛んでいる。
 空は茜色に染まり、もう数刻であたりには宵闇がおりてくる刻限だ。
 そろそろ館に戻らないと母に叱られる。
 分かっているけれど、秋のはじめのこの時期に里に下りてきた蜻蛉はびっくりするほど立派な羽根をした大きなやつばかりで、少年たちはそれを追いかけるのをなかなかやめられない。

「つかまえた!」
 水辺の木の細い枝先にとまった大きなのをぱっと袖で覆った小鷹が声をあげるとまわりから歓声があがった。
「また小鷹がつかまえた!」
「すごい、すごい」
「俺にも見せてくれよ」
 そう言って集まってくる仲間たちに、小鷹は気前よく戦利品を分けてやる。
 同じ年頃の少年たちのなかで、背も高く力も強い小鷹は大将的な存在で、駆けくらべも、水泳も相撲も木登りも、何をしても仲間内では一番だった。
 それでいて威張ったり弱い者いじめをしたりしないので誰からも好かれていて人気があった。
 何をしていても楽しくて、一日じゅう土や泥や砂ぼこりや太陽の光を浴びてそこらじゅうを転げ回って遊んだ。

「小鷹、小鷹。どこにいるの?」
 母の呼ぶ声がする。
 まだ遊んでいたいのに。見つかったらきっと叱られて連れ戻される。
 慌てて近くにあった楡の木の枝にのぼって隠れようとしたのに、あっという間に見つかってしまった。
「危ないわよ、降りていらっしゃい」
 いつもなら目を吊り上げて怒る母が、苦笑しながら手をさしのべてくれる。
「平気だよ。こんなの。もっと高くにだって登れるんだ」
「いいえ、いけません。もう暗くなるわ。家に帰りましょう」
「嫌だよ。もっとここにいる」
 日頃、養い君の武者丸ぎみの世話にばかりかまけて、小鷹のことは叱りつけてばかりの母が珍しくおだやかな顔をしているのが嬉しくて、つい我儘をいってしまう。
 それでも母は怒らずに、困ったように笑って
「頬に擦り傷が出来ているじゃないの。母さまに見せてごらんなさい」
 と気遣わしげに言う。
 仕方なく小鷹が下りていくと、母の白い指先がふわりと両頬を包み込んだ。
 萩色の小袖の懐から手布を取り出してそっと頬を拭ってくれる。
「可哀想に。痛むでしょう」
「こんなのちっとも痛くないよ。もっとひどい怪我だって何度もしたけど泣いたことなんてないんだから」
 藍色の水干の胸を反らして言う小鷹を母がぎゅっと抱き寄せた。
「いさましいこと。でもあまり無茶をしないでちょうだい。あなたに何かあったら母さまは悲しくてたまらないから」
 くすぐったく思いながら、母の腕のなかは心地よくてそのまま体を預けるようにして抱きついた。母がその背を優しく撫でる。
「さあ、母さまとお家に帰りましょうね」
 頷きかけたそのとき。

「小鷹、小鷹!」
 名を呼ぶ大きな声がした。
「殿」
 母が小鷹を袖の内に抱きしめたまま振り返る。
 父の通清がよく日に灼けた顔を綻ばせて、手を振りながらこちらへ歩いてきていた。
「父上」

「こんなところにおったのか。探したぞ」
 通清は小鷹の頭を大きな手でごしごしと撫でた。
「武者丸ぎみがおまえを探しておられる。はよう戻ってさしあげろ」
「武者丸さまが?」
「ああ。小鷹がおらぬと言って大変なおむずがりようだ。他の者ではどうにもならん。はようお側へ戻れ」
「はい」

 母が乳母としてお育てしている武者丸ぎみは主家である源家の御曹司だ。
 生まれ年は小鷹と同じだが、小柄で体が弱く、物心ついたときから側にいる乳母子の小鷹のことを実の兄のように慕いきっている。
 母の関心と愛情を奪われてしまっているのが寂しくないと言ったら嘘になる。
 だが、小鷹は自分がいなくては夜も昼も明けないといったありさまで懸命にあとを追ってくる武者丸のことが好きだった。
 幼な心に「自分がお側にいて、お守りしなくては!」という使命感を抱いてもいた。

 そう言えば今日はどうして一緒じゃなかったんだっけ?
 木登りをするのも、虫捕りをするのも大抵はいつも一緒なのに。
 訝しく思いながらも、自分を呼んでいるというのを放ってはおけない。すぐにも駆け出そうとするのを、ぐっと袖をつかんで引き止めたのは母だった。
「もう行ってしまうの? まだ良いではありませんか」
 ますますいつもの母とは思えない。日頃は何があろうと武者丸さまを優先するようにと口酸っぱく言ってばかりいるのに。そう言って小鷹をますます抱きしめようとする。
 嬉しくないはずはない。だが、嬉しさよりも戸惑いが先にたった。

「けれど母上。武者丸さまのところへ戻らないと」
「そうだぞ。武者丸さまはおまえがいなくて、たいへんに心細い思いをしておられる。すぐにお側へ戻って差し上げろ」
「はい。父上」
 通清が母の腕のなかから小鷹を引き取り、高々と抱き上げた。

「父上?」
「重うなったな。いつの間にこんなに大きゅうなったのか」
 そう言って腕の中の息子を見上げる父の目には涙が光っていた。
「父上、どうなさったのですか?」
「いや、なんでもない。大きゅう立派になった。おまえは儂らの自慢の息子だ。はよう義朝さまのもとへ行け。佳穂もさぞや心配しておろう」

(よしともさま……かほ…?)
 知らない、けれどどこか聞き覚えのある名を口にした父が、小鷹を抱き下ろす。
 そうして、ぽんっと頭に手をおいた。
「さ、行って来い。正清」
 大きな手のひらが乱暴に、でも愛情のこもった手つきで頭を撫でる。

「父がついておるからな。何も案ずることはないぞ」
「はい、父上」



「………父上……」
 ぽつりとつぶやいた自分の声で目が覚めた。

 目を開けるとあたりは薄暗かった。
 低い天井。四隅を板で囲っただけの粗末な壁。
 寝かされている部屋のすぐそこはもう土間になっていて、さまざまな道具がところ狭しと置かれている。室内には生臭い匂いが漂っていた。
(なんだ、ここは……)
 正清はぼんやりと視線を巡らせた。
 意識がぼんやりしているせいで、どうにもはっきりしないがそこは見知らぬ小屋の中だった。

 体を起こしてみる。背中と首のあたりに鈍痛が走ったがどうにか半身を起こすことが出来た。その拍子にくらりと眩暈がする。
 ふたたび、倒れ込みそうになるのをこらえて床に手をついて支える。もう片方の手で顔を覆い、眉間のあたりをぐっと抑えた。

 夢を見ていた気がする。
 やけに鮮明な夢で、目覚めた今でも見渡す限りに広がっていた茜色の夕焼け空が瞼の裏に残っている気がする。そのくせ、どんな夢だったのかは少しも思い出せなかった。

(夢の話はいい。そんなことよりここはどこだ。俺はいったい何を──)
 ゆっくりと記憶を手繰り寄せていく。

 意識をはっきりさせようと両手で頬をパシンと叩いた瞬間、頬に痛みが走った。
 指で触れてみると何かで強く擦ったような傷があった。

 その瞬間、溢れるように記憶が戻ってきた。
 そうだ。これは矢傷だ。鎮西八郎為朝の矢がすぐ横を掠め頬に傷を負った。為朝はすぐに次の矢を構えていて、それはまっすぐに眉間に狙いをさだめていて──自分は死を覚悟したはずだ。自分を庇った都筑が死んだ。

 それから、どうなった──?
 ここはあの世なのか?
 それにしては生活感のあり過ぎる小屋のなかを見回していると、ガタガタと入口の戸が揺れて一人の男が姿が顔を覗かせた。
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