夢の雫~保元・平治異聞~

橘 ゆず

文字の大きさ
上 下
100 / 123
第五章 保元の乱

明け方の夢

しおりを挟む
──いつもの朝の光景だった。
お目覚めになった正清さまにお手水をさしあげて、お召替えのお手伝いをして朝餉の御膳をさしあげる。

 朝餉をとりながら、給仕をしている私の方をちょっとご覧になって、「今宵は宿直になる」だとか「夕刻に一度もどる」だとか、みじかくその日のご予定をつたえてくださるのが正清さまのいつもの習慣だった。

 お出かけになる正清さまに、太刀置きから太刀をとってきてお渡しするのは私の役目だった。
「お気をつけていっていらっしゃいませ」
 そういって、両手で捧げるようにお渡しすると、小さくうなずかれて太刀を受けとり、
「では行ってくる」
と、仰せられてお出かけになるのがいつものことなのに。

 正清さまは私の捧げもつ太刀に手を伸ばさずに、こちらに背を向けてしまわれた。

「殿?」
 お声をかけても振りむかずに歩きだしてしまわれる。

「殿、あの、太刀をお忘れにございます」
 呼びかけても、返事もなくどんどん遠ざかっていってしまうお背中をみて、私は慌てて追いかけた。

「殿、お待ちくださいませ。殿!」
 けれど、どんなに懸命に走っても、ゆっくりと歩いている正清さまのお背中がいっこうに近づいてこない。

「殿、お待ちください。待って……!」
 声をかぎりに叫んでも、振り向いてくださらない。
 腕の中の太刀が重い。追いつきたいのにうまく走れない。

 はらはらと雪が舞い始めた。

 秋のはじめの今ごろに雪なんて……。

 いぶかしく思ううちに、舞い散る雪にまぎれて正清さまの背中が見えなくなってしまう。
 途方に暮れながらとぼとぼ歩いていた私は、なにかに躓きそうになっておどろいて立ち止まった。

 足元に目をやった私は息をのんだ。

 割れた食器や折れた高坏、壊れた御膳が転がっている。
 その下に、赤黒い染みが広がっている。
 生臭い匂いが鼻をつき、それが血だまりだと気がついた私は小さく悲鳴をあげた。

 腕のなかの太刀を抱きしめて後ずさる。
 けれど、血だまりはどんどん広がっていき、あっという間に私の足元にまでたどりついた。
 裸足の指先を赤く染めたそれは、なおも流れ続けて、私の足首まで呑み込もうとしている。

「いや……」
 逃げ出したいのに、足をとられて動けない。
 雪はどんどん激しくなってくる。
 目の前が真っ白になり、どこへ行けばいいのか、どこから来たのかももう分からない。

 真っ白な世界のなかで、じわじわと広がっていく血だまりで、私は正清さまの太刀を抱きしめたまま呆然と立ち尽くしていた。

 気がつくとあたりは真っ暗で、私は褥のうえに寝かされていた。
 一瞬、今がいつで、ここがどこなのか分からなくなったがすぐにいまの状況を思い出した。

「正清さま……っ」
 そうだ。
戦場で正清さまが行方知れずになったという知らせを七平太からきいて、そのままきっと気を失ってしまったんだわ。
起き上がろうとして、薄い板戸をへだてた隣りの部屋でぼそぼそと人の話し声がするのに気がついた。
低くひそめてはいるけれど、ひとつは紛れもなく槇野の声だった。

どうして四条の家にいるはずの槇野が三条坊門ここに? やっぱりまだ夢の中なのかしら。
もうひとつは男の人の声だった。

(致高さま……?)
 そういえば今回の戦のために上洛なさっていたんだっけ。
 槇野らしき声がぼそぼそと何か話している。

「もし……さまが……この先……」
 話のなかに正清さまのお名前が聴こえた気がして、私は半身を起こした。
 くらりと眩暈がして、もう一度倒れ込みそうになったけれど何とか手をついて支える。

 板戸のむこうのふたりは、しきりに何か話し合っている。
 膝でいざるようにして戸に近づいてみると、ふたりの話し声が聞こえてきた。

「私はねえ、これも宿世というものではないかと思うのですよ」
 女の声はやはり槇野のものだった。幼い頃からずっとそばで聞いて育ったのだもの。間違えるはずがない。
 
「姫さまにはねえ、それはもうおいたわしいこととは存じますが、それもねえ……。武家の妻となられた以上は仕方のないことではありますし」

 ──え……。

 全身からすうっと血の気がひいていく。
 それって……。

「姫さまは殿のことをそれはもう、どこが良くてそこまで、と不思議なほどお慕い申し上げておりましたからねえ……。しばらくはお気落ちなさいますでしょうねえ……」

──正清さま……!

 ふたたび気が遠くなりかけたその時。

「いや、まだ死んだって決まったわけじゃないだろ。遺骸が見つかったわけじゃないんだし」
 致高さまの声が私の意識を引き戻した。

「たしかに戦場のどこを探しても今のところ見つからないみたいだけどさ。逆にあれだけの人数が参加した戦の最中で死んでたら見つからないわけがないと思うんだよな。敵に討ちとられたんだとしたら、一応は名のある武将なわけだし。討った相手も名乗りのひとつも挙げるだろう。それを聞いた者もいないってことは……」

「でも、鴨川に転がり落ちて流されておしまいになったという話も聞きましたけれど……」

 致高さまのお声が槇野をさえぎる。

「ああ。だからあっちの郎党だとか、こっちも一応、姻戚なわけだからさ。川べりとかずっと探したんだよ。でも見つからなかったし」
「鎧の重みで沈んでしまわれたのかも……」

「まあ、それもあり得るけど……っていうか、槇野。おまえ、そんなに佳穂の旦那を殺したいのか」

「まあ、滅相もございません。姫さまの御ためにもどうにかして無事にお戻りいただければと思うております。……けれど、そうでない場合、いつまでも生きておいでか、それとも亡くなっておいでか分からない夫君を待ちつづけて空しく歳月を過ごされるというのも、乳母としては姫さまがおいたわしくて。致高さまはそうは思われませぬか?」

「それはまあ……そうかもな」

「そもそも私はこの縁談には反対だったのです。姫さまはあのようにおっとりと呑気なお育ちです。本来ならば、生まれ育った野間の里で、姫さまおひとりを生涯の妻としてたいせつにして下さる方のもとへ嫁いで、心のどかにお過ごしになるのがふさわしい方なのですわ。なのに、こちらに来てからは北の方さまのご命令だとかで馴れないお邸づとめには駆り出されるわ、あちらのお家のゴタゴタやら、殿の浮気沙汰に悩まされてばかりで上洛以来、お心の休まる暇もない日々……。この槇野はひそかに心を痛めておりました」

「そうだったのか……」
 致高さまの沈痛な声。

「ええ。そうした矢先に今回のこの次第でございましょう。槇野には何やら神仏のお導きのようにも思えてならないのです。ですから、この際、亡き御方の菩提は菩提としてきちんとお弔いをして、折よく……と申しては憚りがありますけれど、ちょうど長田の大殿さま、若殿さまが京にいらっしゃる時だったというのも、思えば奇しきご縁にございます。かくなるうえは、この機会に父君さまがたとご一緒に野間の里にお戻りになって、お心の痛手を癒されて、そうしてまた新たなお暮しを始められるというのも……」
「……まあな。それも一理あるかもな。俺も最初からあの旦那じゃ佳穂は幸せになれないような気がしてたよ」

 私は力まかせに板戸を開けた。
 バアンッという思ったより大きな音がして、「ひっ」「うわっ」槇野と致高さまが目を剥いてこちらを見た。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

【完結】女神は推考する

仲 奈華 (nakanaka)
歴史・時代
父や夫、兄弟を相次いで失った太后は途方にくれた。 直系の男子が相次いて死亡し、残っているのは幼い皇子か血筋が遠いものしかいない。 強欲な叔父から持ち掛けられたのは、女である私が即位するというものだった。 まだ幼い息子を想い決心する。子孫の為、夫の為、家の為私の役目を果たさなければならない。 今までは子供を産む事が役割だった。だけど、これからは亡き夫に変わり、残された私が守る必要がある。 これは、大王となる私の守る為の物語。 額田部姫(ヌカタベヒメ) 主人公。母が蘇我一族。皇女。 穴穂部皇子(アナホベノミコ) 主人公の従弟。 他田皇子(オサダノオオジ) 皇太子。主人公より16歳年上。後の大王。 広姫(ヒロヒメ) 他田皇子の正妻。他田皇子との間に3人の子供がいる。 彦人皇子(ヒコヒトノミコ) 他田大王と広姫の嫡子。 大兄皇子(オオエノミコ) 主人公の同母兄。 厩戸皇子(ウマヤドノミコ) 大兄皇子の嫡子。主人公の甥。 ※飛鳥時代、推古天皇が主人公の小説です。 ※歴史的に年齢が分かっていない人物については、推定年齢を記載しています。※異母兄弟についての明記をさけ、母方の親類表記にしています。 ※名前については、できるだけ本名を記載するようにしています。(馴染みが無い呼び方かもしれません。) ※史実や事実と異なる表現があります。 ※主人公が大王になった後の話を、第2部として追加する可能性があります。その時は完結→連載へ設定変更いたします。  

よあけまえのキミへ

三咲ゆま
歴史・時代
時は幕末。二月前に父を亡くした少女、天野美湖(あまのみこ)は、ある日川辺で一枚の写真を拾った。 落とし主を探すべく奔走するうちに、拾い物が次々と縁をつなぎ、彼女の前にはやがて導かれるように六人の志士が集う。 広がる人脈に胸を弾ませていた美湖だったが、そんな日常は、やがてゆるやかに崩れ始めるのだった。 京の町を揺るがす不穏な連続放火事件を軸に、幕末に生きる人々の日常と非日常を描いた物語。

生残の秀吉

Dr. CUTE
歴史・時代
秀吉が本能寺の変の知らせを受ける。秀吉は身の危険を感じ、急ぎ光秀を討つことを決意する。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

【完結】月よりきれい

悠井すみれ
歴史・時代
 職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。  清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。  純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。 嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。 第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。 表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...