夢の雫~保元・平治異聞~

橘 ゆず

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第四章 動乱前夜

高陽院(二)

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情勢が一変したのは、大治四年(1129年)のことだった。
忠実が都を追われてから実に十年近い歳月が流れていた。
白河法皇が亡くなったのだ。

十歳の天皇にかわって新たな治天の君の座についた鳥羽上皇の治世は、祖父の喪が明けるか明けぬかのうちにその政策を片端から否定することから始められた。
忠実は宇治から呼び戻され、再び内覧の地位に返り咲いた。

長承元年(1133年)六月二十九日。
泰子は鳥羽上皇のもとへ入内した。
時に上皇は三十一歳。七つ年上の泰子は三十八歳だった。

嫁き遅れなどというものをとっくに超越した、「初老」に近い年の女の入内を人々が蔭でどんな風に嘲笑したとしても、当の泰子がそれにどれだけ恥ずかしい思いをしたとしても関係なく、入内の儀式は厳かに、滞りなく行われた。

 その翌年には、「先例がない」という廷臣たちの反対を押しのけて院の妃としては異例の女御の宣旨が下された。さらにその同じ月のうちに、泰子は「皇后」として冊立される。
 その時すでに摂関家からは、弟、忠通の一の姫、聖子が今は新院と呼ばれている崇徳天皇のもとへ入内して、中宮として立后していたのにも関わらずだ。

たった十二歳の姪と、中宮、皇后として並び立たされる四十路近い自分の滑稽さを泰子は自信で嗤った。
それもこれも院の姫さまへのご愛情ゆえ、などという女房たちの世辞を真に受けるには泰子は年を重ね過ぎていた。
 すべては亡き白河院の遺した影響を拭い去るため。
 白河院、「ご鍾愛のご養女」──その時、崇徳天皇の生母として国母として崇められていた待賢門院璋子を凌ぐには、前関白忠実の娘である泰子の存在が必要だっただけだ。

 皇后として改めて鳥羽の院御所へ参上して間もなく、泰子は院が権中納言藤原長実の娘をご寵愛になっていることを知った。
 それでも心にはさざ波ひとつ立たなかった。
 関白殿下の一の姫君としてあまりにも長い年月を暮らしてきた泰子にとって、院であれ、帝であれ、男の側近く仕えて、その視線や機嫌を気にして生きる生活は息苦しく、煩わしいものでしかなかった。
 入内当初だけ、しばらくの間続いた「熱心なお渡り」がぱたりと止んだことを泰子はむしろ喜んだ。

 皇后になった翌年、長実の娘が皇女を生んだ。
 身分の低い母から生まれたその子は、皇后である泰子の猶子となることで内親王の称号を得た。叡子内親王である。
 端正な顔立ちで教養、学識ともに深く音楽もたしなむ上皇の御子にしては、容貌、才ともに平凡としか言いようのないその少女をそれでも泰子は慈しみ、可愛がった。

  二年後に二人目の皇女が生まれると、上皇とその寵姫の関心はその第二皇女、暲子内親王にばかり専ら向けられるようになった。
 今度はその生母の出自を理由に、内親王宣下に否を唱える者はいなかった。
 二年の間に、長実の娘──藤原得子の力はそれだけ増していた。
 
それからさらに二年後。
 得子は上皇には九の宮となる男皇子を産んだ。
 両親にほとんど顧みられることのなくなった叡子内親王を不憫に思う気持ちもあって、泰子はそれまで以上に可愛がった。
「高陽院の姫宮」と呼ばれていたその少女も今から七年前。
 十四歳の若さで、養母の自分を置いていってしまった。

 その頃すでに上皇の出家にともなって、落飾していた泰子は若すぎる皇女の死を、どこか羨むような気持ちでぼんやりと見つめていた。
 自分は叡子の何倍もの歳月を生きてきた。
 けれど、それが何であろう。
 重ねてきた年月は泰子に何ももたらさなかった。
 いっそ、自分も叡子くらいの年頃に死んでいたらどうだっただろう。その方が幸福な人生だったのではないだろうか。そんな事すら思った。

 その後は、公の場に出ることもほとんどなくなり、この高陽院の奥深くで女房たちにだけ囲まれて、静かに穏やかに生きてきた。
 このままひっそりと生涯を終えるものだとばかり思っていたのに、何故だろう。
 このところ、また妙に身辺が騒がしいのだ。
 経机の上には、父、忠実からの。そして父が宇治に蟄居中に産ませた異母弟、頼長からの文が広げたまま載せられている。

 弟の忠通とこの頼長は、兄弟だというのに呆れるほどに仲が悪い。
 上皇の寵姫──今は美福門院という女院号で呼ばれている得子も頼長のことを毛嫌いしているらしい。
 けれど泰子はこの異母弟の潔癖過ぎるほど潔癖なところが嫌いではなかった。

 頼長からの文には、昨今、都に先年亡くなった近衛天皇の死は頼長による呪詛が原因だという噂が流れているらしい。
 そのせいで今、頼長は上皇に目通りも叶わない状態にあるのだそうだ。
 二通の文は上皇へのとりなしを頼むものだった。
「煩わしいこと」
 泰子は形の良い眉を潜めながら、それでも女房に墨を摺らせ筆を手にとった。
 何が呪詛なものですか。馬鹿馬鹿しい。
 上皇も得子も、これまで散々、物の怪にも劣らぬ浅ましい所業をし尽くしてきたくせに。
 その結果、帝位についた身分低き女の子が早世したからと言って、今さら何を驚き、嘆いているのか。
 こうなったのはすべてあなた達が招いたこと。自業自得の何者でもないではありませんか。

 もちろん、文にそんなことを書いたりはしない。
 前の関白の総領姫として。
 真に后の位に相応しい藤家の娘として。諸大夫の娘などには及びもつかない教養と学識、それらをひけらかさない慎み深さをもって、弟の身の上に着せられた忌まわしい濡れ衣を心から嘆き、上皇のご厚情を願うような文面を、水茎のあとも麗しいと称えられた筆跡で、さらさらと認めていく。
書き終えたあと、疲れをおぼえて脇息に寄りかかった泰子を女房たちが気遣った。
「女院さま、少しお休みあそばされては」
「果物なりとお持ちしましょうか」
「そうね」
 泰子は頷いた。この頃、妙に疲れがとれない。院からのお声がかりで、たまに鳥羽の離宮へ赴いたりするとその後数日も寝込まなくてはならないこともある。
 もう六十を超えているのですもの、無理はないわ。
 そう思う一方で、自分がもう六十過ぎの老女などというのはおかしな冗談のようにも感じる。摂関家の姫、院の女御、皇后、そして女院。
 呼び名や立場を次々と変えながらも、自分がしてきたことはずっとこうして邸の奥の御簾の内で、女房たちを相手に過ごすことだけだった。
 それはもしかしたら、ものすごく幸福な、得難い人生だったのかもしれない。
 そんなことをふと思った。


久寿二年(1155年)の暮れ。
前左大臣──藤原頼長のもとに異母姉である高陽院泰子の逝去の知らせがもたらされた。
(よりにもよってこんな時に)
というのが真っ先に浮かんだ感想だった。

近衛院を呪詛したというとんでもない嫌疑をかけられて、鳥羽院の身辺から遠ざけられている今、頼れるのは院の后であった泰子だけだった。
美福門院得子をならびなく寵愛している鳥羽院だったが、摂関家の総領姫として入内した泰子には常に一目おいていた。
またあの異母姉には、そうされるに相応しい気品と威厳があった。
泰子が、持ち前の柔らかな声と落ち着き払った口調でゆるゆると言い出す言葉には、父の忠実や、兄の忠通──そして夫の鳥羽院も注意を払わずにはいられない力があった。

「先帝の呪詛」の濡れ衣を着せられていると訴えに上がった頼長を、泰子は御簾の内に招じ入れてねぎらってくれた。
「貴方がそのようなことをするわけがない事を私はよう存じておりますよ」
 敵対する忠通の同母の姉でありながら、泰子は頼長にも常に、おおらかな優しさをもって接してくれた。
 その泰子が亡くなった。
 頼長は、貴重な鳥羽院へとつながる糸を失ってしまったのだ。
 もう一つの頼みの綱である父の忠実は、愛娘に先立たれるという老境になって訪れた悲劇に打ち萎れてしまっていた。

 世は新帝の世とは名ばかりで、兄の忠通と美福門院得子の思うがままに動かされているようだった。 昨今、しばしば不調を訴えている鳥羽院がもしもこの先、崩御するようなことがあればその傾向はいっそう強まるであろう。そうなればもう自分など出る幕もない。

 つい先ごろまで、自分は摂関家の長者として、帝の后の父として輝かしい未来を約束されていたはずだった。
 それがどうしてこうなってしまったのか。 いったい、どこから道は間違った方向に進んでしまったのか。
 自分の学識、才能に絶対の自信を持ってきた頼長はやがて一つの結論にたどり着く。
 自分は、間違いを犯してはいない。
 けれど今の自分は、以前いた輝かしい場所から転落しようとしている。
 何が悪いのか。
 それはこの世の中自体が過ちを犯したからだ。
 進むべき道を間違えたからだ。 だったら、その分岐点まで戻って正しい道をたどり直せばいい。
 
 今、自分に呪詛という忌まわしい汚名を着せているその張本人──もとは諸大夫の娘に過ぎない、本来ならば院の妃どころか自分の足元にも寄れない身分の女が居丈高に権力を振り回しているのは何故か。 それはその女の産んだ子が御位についたからだ。
 そもそもそれが間違っていたとしたら?
 先帝は、兄である新院の猶子となりながらそれを追いやるような形で帝位に昇った。
 それが間違いだったとしたら。
 頼長の瞳に暗い光が浮かび、きらりと光った。

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