夢の雫~保元・平治異聞~

橘 ゆず

文字の大きさ
上 下
84 / 123
第四章 動乱前夜

高陽院(一)

しおりを挟む
思えば数奇な生涯である。
泰子はかたわらの経机の上に落ちた仏花の花びらを見ながらふとそう思った。

高陽院かやのいん、と呼ばれている。
女院号を賜ったのは今から十五年ほども前。四十四歳の時だった。

泰子は、今は宇治の禅閤ぜんこうと呼ばれている藤原忠実の長女として生まれた。
時の関白の一の姫である。
幼い頃より、いずれは宮中に入り后の位に上るものとして育てられた。母譲りの美貌に加えて生来、聡明で和歌にも筝の琴にも人並み以上の才を示した泰子を父の忠実は溺愛した。

泰子が十四歳の時、治天の君である白河院から、まだ当時六歳だった鳥羽天皇のもとへ入内させるように打診があった。
帝が幼少であるのも、泰子の方がはるかに年上であるのも当時としては珍しいことではなかった。にもかかわらず忠実はその申し出を断った。
理由は分からない。

ただ、泰子と弟の忠通の生母、師子はかつて白河院の寵姫であった。
皇子を一人産んだあと、院に顧みられなくなっていた母を見初めた父が、どうしてもと望んで妻に迎え入れたのだそうだ。
院の見境のない好色さと飽きっぽさを知り尽くしている母が、その院の好き心が孫帝の后に向けられることを懸念して反対したとも言われているが、本当のところは分からない。

その後、父はやはり白河院の養女である璋子を弟の忠通の妻にという申し出を辞退した。
当然のことだ。
璋子は白河院の養女、という立場だからこそ重んじられているものの、元は閑院の大納言公能の娘にしか過ぎない。
大臣の娘か、皇女ならば二品の宮以上でなければ、ゆくゆくは父の跡を継いで関白の位にのぼることが分かっている忠通の北の方に相応しいとは到底言えない。しかし、これは当の忠通には不満だったようだ。

治天の君の最愛のご養女を妻に迎えることで、その覚えがめでたくなるチャンスを父が潰したと、泰子の前で不満をこぼしたことがある。

「あら。でも彼の姫は、院のただのご養女ではないという評判だったじゃないの。そんなふしだらな女が義妹になるだなんて考えただけで気持ちが悪いわ」
泰子は、はっきりと言ってやった。
忠通は呆れたようにため息をついた。
「分かっていないな、姉上は。彼の姫がどんな人であろうと、どんな評判があろうとそんなことはどうだっていいんだ。大切なのは彼女が院に大切に重んじられているっていうことだ。その大切な姫を院は私に下されようとなさったのに。まったく父上は何をお考えなのか」

その翌々年の永久五年。
璋子は鳥羽天皇のもとに華々しく入内した。
ふたつ年上の璋子への天皇のご寵愛はめざましく、入内したその時には女御の宣旨が下り、その翌月にははやくも中宮として立后された。
中宮璋子は懐妊し、その翌年の五月には第一皇子となる顕仁親王を出産した。

失望する忠実に思いがけない声がかかったのは、白河法皇が熊野御幸で都を離れている保安元年のことだった。
その頃、中宮璋子は体の不調を訴えて実家である白河院の御所に下がりがちで、帝の再三の催促を受けて参内しても、理由をつけてお召しを辞退することが多いという評判であった。
 
ご不在がちの中宮お一人きりの後宮を飽き足らず思われた若き帝が、かねてより話のあった関白の娘の存在を思い出し、入内させる気はあるかと打診されたのだ。

この時、泰子は二十五歳。
当時の女性としての適齢期を著しく過ぎてはいたものの、邸の奥深く養われた瑞々しい美貌はいささかも衰えていなかった。
忠実は舞い上がって早速入内の支度を始めた。
しかし、これが白河院の知るところとなった。

「自分が声をかけた時はすげなく断っておきながら、鍾愛の養女、璋子が入内してときめいている今となってその競争相手として娘を入内させようとは」

院の怒りは激しかった。
「帝、御自らお声がけいただいて、どうしてお断り出来ましょう」
という弁明も何の効果もなかった。
忠実は、関白と兼任していた内覧の地位をどちらも解かれ、宇治に蟄居することを余儀なくさせられた。

忠実は、
「我が生涯はもうおしまいだ」
と嘆き、
「この父は、姫の前途をも閉ざしてしまった。許しておくれ」
と泰子をかき抱いて涙に暮れた。

「泣かないで、お父さま。私ならば平気。むしろそんな恐ろしい法皇さまがいらっしゃる宮中などに上がらずにずっとお父さま、お母さまの娘としてこの家にいられる方がどれだけ嬉しいか知れないわ」
半分は父を慰めるためだったが、あとの半分は本音だった。
忠実はますます泣いた。

忠実が失意のうちに宇治に去ってから二年後、御代が替わった。
二十一歳という若い盛りの鳥羽天皇にかわって帝位についたのは中宮璋子の産んだ第一皇子──わずか五歳の顕仁親王だった。

白河法皇の強い意向だったのだそうだ。
これについて世の人々はあれこれを噂し合った。

それらの噂は広大な邸の奥にいる泰子のもとにも届いた。
女房たちが声を潜めて囁き合うそれは、一の宮の出生によるものだった。
「だって、その頃、中宮さまはずっとお里下がりで……」
「月数が合わないわ」
「では、やはり」
「一の宮さまはあの御方の……」
そんな声を聞きながら泰子は改めて、そんな禍々しい場所に行かずに済んだ自分の幸運に感謝した。

しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

梅すだれ

木花薫
歴史・時代
江戸時代の女の子、お千代の一生の物語。恋に仕事に頑張るお千代は悲しいことも多いけど充実した女の人生を生き抜きます。が、現在お千代の物語から逸れて、九州の隠れキリシタンの話になっています。島原の乱の前後、農民たちがどのように生きていたのか、仏教やキリスト教の世界観も組み込んで書いています。 登場人物の繋がりで主人公がバトンタッチして物語が次々と移っていきます隠れキリシタンの次は戦国時代の姉妹のストーリーとなっていきます。 時代背景は戦国時代から江戸時代初期の歴史とリンクさせてあります。長編時代小説。長々と続きます。

浅葱色の桜

初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。 近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。 「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。 時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。 小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも載せてます。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】女神は推考する

仲 奈華 (nakanaka)
歴史・時代
父や夫、兄弟を相次いで失った太后は途方にくれた。 直系の男子が相次いて死亡し、残っているのは幼い皇子か血筋が遠いものしかいない。 強欲な叔父から持ち掛けられたのは、女である私が即位するというものだった。 まだ幼い息子を想い決心する。子孫の為、夫の為、家の為私の役目を果たさなければならない。 今までは子供を産む事が役割だった。だけど、これからは亡き夫に変わり、残された私が守る必要がある。 これは、大王となる私の守る為の物語。 額田部姫(ヌカタベヒメ) 主人公。母が蘇我一族。皇女。 穴穂部皇子(アナホベノミコ) 主人公の従弟。 他田皇子(オサダノオオジ) 皇太子。主人公より16歳年上。後の大王。 広姫(ヒロヒメ) 他田皇子の正妻。他田皇子との間に3人の子供がいる。 彦人皇子(ヒコヒトノミコ) 他田大王と広姫の嫡子。 大兄皇子(オオエノミコ) 主人公の同母兄。 厩戸皇子(ウマヤドノミコ) 大兄皇子の嫡子。主人公の甥。 ※飛鳥時代、推古天皇が主人公の小説です。 ※歴史的に年齢が分かっていない人物については、推定年齢を記載しています。※異母兄弟についての明記をさけ、母方の親類表記にしています。 ※名前については、できるだけ本名を記載するようにしています。(馴染みが無い呼び方かもしれません。) ※史実や事実と異なる表現があります。 ※主人公が大王になった後の話を、第2部として追加する可能性があります。その時は完結→連載へ設定変更いたします。  

処理中です...