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第四章 動乱前夜
波多野義通(二)
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お二人を見送ったあとも私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
時間が経つにつれて、だんだんと波多野さまの言われた言葉の意味が呑み込めてきた。
あの方はつまり、正清さまが私をこちらのお邸や六条のお邸に上がらせることで、由良の方さまや鬼武者さまにお気に入られようとおべっかを使っていると言ったのだ。
理解出来た途端に猛烈な怒りがこみ上げてきた。
冗談じゃない。
正清さまはもともと、私がこちらへ上がるのには良い顔をされていなかったのだ。それを御方さまのお声がかりと、何より私がそうしたいと望んだからお許し下さっていただけで……。
それをあんな風に思われていると知って黙っていられない。
追いかけていって訂正してやらなくちゃ。
そのとき、
「文句を言おうっていうならやめときなさいよ」
背後から声をかけられた。振り向いた私は絶句した。
そこに立っていたのは紗枝さんだった。以前、彼女が正清さまがお忘れになった直垂の紐を持って私に声をかけてきたのがきっかけでひと騒動あったあの時以来だからおよそ二年ぶりということになる。
そう言えばあれも皐月のお節句の時期だった。
涼しげな卯の花の単衣襲を着た紗枝さんは、さらりと衣擦れの音をさせながら近づいてきた。
「相手が悪いわ。夫君をもっと困った立場に立たせたくなかったら下手に関わらない方がいいわよ」
「……波多野さまのこと?」
「そう。波多野小次郎義通どの。──義朝さまの次郎君のご生母の兄君にあたられる方よ。つまり義朝さまとは義兄弟というわけ。先ごろご上洛になって以来、たいそうなご威勢よ」
「その方がどうしてあんなひどい事を言うの? あんな根も葉もないデタラメ……なんの恨みがあって」
私は紗枝さんに対するわだかまりも忘れて尋ねた。
「恨みなのか何なのなのかはわからないけど、こちらへ出入りされるようになってからずっとあんな風よ。こっちの女房たちは、義朝さまが仮にもご姻戚、義理の兄弟である自分よりも乳母子であるあの人の方をずっと重用してるから面白くないんじゃないか、なんて言ってるわ」
「そんなのただの僻みじゃない。殿は何も悪くないじゃないの」
紗枝さんはなぜかくすっと笑った。
「あなた、おとなしいだけの奥方さまかと思ったら結構言うのね。さっきだってあんなこと言われて泣き出すのかと思ったのに平気で睨み返してたし」
「睨み返してなんかいないけど」
私はちょっと赤くなった。
「そ、それより、あの波多野さまと正清さまは仲が悪いの? こちらの女房がたが皆知っているくらいに?」
「仲が悪いっていうか、今のところあの波多野さまが何かにつけては難癖つけて一方的に突っかかっていってるのをおたくの夫君が受け流してるから正面きっての喧嘩にはなっていないってだけで。空気ははっきり言って最悪よ。女房たちはいつ表立っての大喧嘩になるかってハラハラしてるわ。面白がってるともいえるけど」
「知らなかった。北の対ではそんな話少しも出ないから」
「でしょうね。あちらの女房がたときたらお上品ぶって、侍は野蛮だの怖いだのってよっぽどの事がなければ自分のとこの対からでて来ないじゃないの。来るのはあの北の方さま付きの怖そうなおババさまか、前にこっちにあなたと一緒に来たあのちょっときつい感じの細い子くらいで」
「浅茅さまと千夏のことね」
浅茅さまのことをおババ呼ばわりとは天をも恐れぬ所業ね。
まあ、私も鬼じゃないから言いつけたりはしないけど。いくら夫の愛人とはいえ八岐大蛇をけしかけるっていうのフェアじゃないものね。
「そう言えばあなたこっちへ来るの久しぶりじゃない。よその女の子を引き取ってしばらく休んでたって聞いたけどそっちはもういいの?」
あなたもよその女だけどね、と思いつつ私は頷いた。
「そうよ、何でも知ってるのね」
ここまで直接的な言い方をしてくれると逆に腹も立たない。ついでだからこちらからもストレートに聞かせて貰うことにした。
「一応確認させて貰うけど、紗枝さんの子じゃないのよね? 悠っていう名前の三つの女の子なんだけど」
「は? 違うわよ。なんで私があなたに子供を預けなくちゃならないのよ。というか何? 誰の子が知らずに預かってるの?」
あ。墓穴を掘ってしまったかもしれない。
まずいかな、と思ったけれど下手に濁して変な憶測を広められるよりは本当のことを話してしまった方が良いと思って私は頷いた。
「うん。まあ、そうなのよ」
「呆れた。あの人の子だっていうのは確かなの?」
「それがご本人は違う、知り合いの子を引き取っただけだって仰ってるんだけどね」
「知り合いって誰よ?」
「さあ。聞いても教えて下さらないから」
「あっきれた! よくそんなので引き取ったわね。何なのそれ。馬鹿にしてるじゃないの!」
意外にも紗枝さんは本気で腹を立てているらしかった。
「これ他の人には内緒ね。まわりには殿がよそで儲けた御子を私が納得ずくで引き取ったってことになってるんだから」
「そうよ。そう聞いてたわよ。そう聞いて、ふうん、さすが貞淑で慎ましやかな良妻さんはやることがちがうわね、いい子ぶりっこもそこまでいったらたいしたもんだわ、ってシラけてたんだから」
シラけてた、って……。この人ほんとに遠慮のない言い方するわね。
でも逆にそれで私も変に取り繕おうと苦労せずに、ありのままを話すことが出来た。
「そりゃあ怒りたかったわよ。でも他にどうしようもなくって面倒なことになるのは承知で私のところへお連れになったんだなあって思ったらなんだかお気の毒になっちゃって……」
紗枝さんは忌々しげに眉根を寄せた。
「それがあの人のずるいところよね。余計なことも言わないかわりに大事なこともまともに言ってくれないんだけど、見ているうちにいつの間にかこっちが折れなくちゃいけないような、そうしなかったら酷いことをしたみたいな気持ちにさせられるような状況に追い込んでくるんだから」
「そう! そうなの」
私は我が意を得たりを頷いた。
「もっと上から有無を言わせずに『いいから引き取れ。何も聞くな』とか言ってくれたらいっそ喧嘩も出来るんだけど、普段は威張ってらっしゃるわりにそんな時だけ変にオタオタ、うろうろして困った顔して、あれできつく問い詰めたりしたらこっちが苛めてるみたいで」
「わざとやってるわけじゃないだけに始末が悪いのよね」
紗枝さんはもっともらしく頷いた。
時間が経つにつれて、だんだんと波多野さまの言われた言葉の意味が呑み込めてきた。
あの方はつまり、正清さまが私をこちらのお邸や六条のお邸に上がらせることで、由良の方さまや鬼武者さまにお気に入られようとおべっかを使っていると言ったのだ。
理解出来た途端に猛烈な怒りがこみ上げてきた。
冗談じゃない。
正清さまはもともと、私がこちらへ上がるのには良い顔をされていなかったのだ。それを御方さまのお声がかりと、何より私がそうしたいと望んだからお許し下さっていただけで……。
それをあんな風に思われていると知って黙っていられない。
追いかけていって訂正してやらなくちゃ。
そのとき、
「文句を言おうっていうならやめときなさいよ」
背後から声をかけられた。振り向いた私は絶句した。
そこに立っていたのは紗枝さんだった。以前、彼女が正清さまがお忘れになった直垂の紐を持って私に声をかけてきたのがきっかけでひと騒動あったあの時以来だからおよそ二年ぶりということになる。
そう言えばあれも皐月のお節句の時期だった。
涼しげな卯の花の単衣襲を着た紗枝さんは、さらりと衣擦れの音をさせながら近づいてきた。
「相手が悪いわ。夫君をもっと困った立場に立たせたくなかったら下手に関わらない方がいいわよ」
「……波多野さまのこと?」
「そう。波多野小次郎義通どの。──義朝さまの次郎君のご生母の兄君にあたられる方よ。つまり義朝さまとは義兄弟というわけ。先ごろご上洛になって以来、たいそうなご威勢よ」
「その方がどうしてあんなひどい事を言うの? あんな根も葉もないデタラメ……なんの恨みがあって」
私は紗枝さんに対するわだかまりも忘れて尋ねた。
「恨みなのか何なのなのかはわからないけど、こちらへ出入りされるようになってからずっとあんな風よ。こっちの女房たちは、義朝さまが仮にもご姻戚、義理の兄弟である自分よりも乳母子であるあの人の方をずっと重用してるから面白くないんじゃないか、なんて言ってるわ」
「そんなのただの僻みじゃない。殿は何も悪くないじゃないの」
紗枝さんはなぜかくすっと笑った。
「あなた、おとなしいだけの奥方さまかと思ったら結構言うのね。さっきだってあんなこと言われて泣き出すのかと思ったのに平気で睨み返してたし」
「睨み返してなんかいないけど」
私はちょっと赤くなった。
「そ、それより、あの波多野さまと正清さまは仲が悪いの? こちらの女房がたが皆知っているくらいに?」
「仲が悪いっていうか、今のところあの波多野さまが何かにつけては難癖つけて一方的に突っかかっていってるのをおたくの夫君が受け流してるから正面きっての喧嘩にはなっていないってだけで。空気ははっきり言って最悪よ。女房たちはいつ表立っての大喧嘩になるかってハラハラしてるわ。面白がってるともいえるけど」
「知らなかった。北の対ではそんな話少しも出ないから」
「でしょうね。あちらの女房がたときたらお上品ぶって、侍は野蛮だの怖いだのってよっぽどの事がなければ自分のとこの対からでて来ないじゃないの。来るのはあの北の方さま付きの怖そうなおババさまか、前にこっちにあなたと一緒に来たあのちょっときつい感じの細い子くらいで」
「浅茅さまと千夏のことね」
浅茅さまのことをおババ呼ばわりとは天をも恐れぬ所業ね。
まあ、私も鬼じゃないから言いつけたりはしないけど。いくら夫の愛人とはいえ八岐大蛇をけしかけるっていうのフェアじゃないものね。
「そう言えばあなたこっちへ来るの久しぶりじゃない。よその女の子を引き取ってしばらく休んでたって聞いたけどそっちはもういいの?」
あなたもよその女だけどね、と思いつつ私は頷いた。
「そうよ、何でも知ってるのね」
ここまで直接的な言い方をしてくれると逆に腹も立たない。ついでだからこちらからもストレートに聞かせて貰うことにした。
「一応確認させて貰うけど、紗枝さんの子じゃないのよね? 悠っていう名前の三つの女の子なんだけど」
「は? 違うわよ。なんで私があなたに子供を預けなくちゃならないのよ。というか何? 誰の子が知らずに預かってるの?」
あ。墓穴を掘ってしまったかもしれない。
まずいかな、と思ったけれど下手に濁して変な憶測を広められるよりは本当のことを話してしまった方が良いと思って私は頷いた。
「うん。まあ、そうなのよ」
「呆れた。あの人の子だっていうのは確かなの?」
「それがご本人は違う、知り合いの子を引き取っただけだって仰ってるんだけどね」
「知り合いって誰よ?」
「さあ。聞いても教えて下さらないから」
「あっきれた! よくそんなので引き取ったわね。何なのそれ。馬鹿にしてるじゃないの!」
意外にも紗枝さんは本気で腹を立てているらしかった。
「これ他の人には内緒ね。まわりには殿がよそで儲けた御子を私が納得ずくで引き取ったってことになってるんだから」
「そうよ。そう聞いてたわよ。そう聞いて、ふうん、さすが貞淑で慎ましやかな良妻さんはやることがちがうわね、いい子ぶりっこもそこまでいったらたいしたもんだわ、ってシラけてたんだから」
シラけてた、って……。この人ほんとに遠慮のない言い方するわね。
でも逆にそれで私も変に取り繕おうと苦労せずに、ありのままを話すことが出来た。
「そりゃあ怒りたかったわよ。でも他にどうしようもなくって面倒なことになるのは承知で私のところへお連れになったんだなあって思ったらなんだかお気の毒になっちゃって……」
紗枝さんは忌々しげに眉根を寄せた。
「それがあの人のずるいところよね。余計なことも言わないかわりに大事なこともまともに言ってくれないんだけど、見ているうちにいつの間にかこっちが折れなくちゃいけないような、そうしなかったら酷いことをしたみたいな気持ちにさせられるような状況に追い込んでくるんだから」
「そう! そうなの」
私は我が意を得たりを頷いた。
「もっと上から有無を言わせずに『いいから引き取れ。何も聞くな』とか言ってくれたらいっそ喧嘩も出来るんだけど、普段は威張ってらっしゃるわりにそんな時だけ変にオタオタ、うろうろして困った顔して、あれできつく問い詰めたりしたらこっちが苛めてるみたいで」
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紗枝さんはもっともらしく頷いた。
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