72 / 123
第四章 動乱前夜
手鞠(三)
しおりを挟む
(まったく、割に合わない)
七平太は、やりきれない思いで溜息をついた。
その途端、
「聞いておられるのですか、七平太殿!」
居丈高な叱責が飛んでくる。
「聞いておりますよ。そのようにがみがみと怒鳴り立てられたら嫌でも聞かないわけにいかない」
「まあ」
槇野がたちまち眉を逆立てた。
「なんですか、その言い草はっ! 無礼な!」
「無礼をしたくもなりますよ。さっきから何度同じことを言わせるのですか。だから、それがしなどは何も知らぬと申しておるではありませぬか」
四条の邸を訪れるのは久しぶりだった。
この頃、あるじの正清は多忙である。
自然と、七平太もその使い走りであちらこちらへ飛び回らねばならず、時には都を離れることもあったりして、以前のようにしばしばとこちらを訪れることは出来なくなっていた。
(だから、今日は久方ぶりに御方さまにお目にかかれると思っていたのに……)
いや、会えることは会えたのだが。
「佳穂。今帰ったぞ」
正清がそう言って、邸内に入っていくとすぐに悠姫の手を引いた佳穂が出てきた。
「おかえりなさいませ、殿。お疲れさまにございました」
夫を迎える声は明るく弾んでいる。
そのとなりで三つになるという悠姫が、教えられたとおり小さな手を床について、
「父しゃま、おかーりなしゃ、ませ」
と挨拶をする姿は、とても愛らしかったが、それを見る七平太は複雑な思いだった。
「留守中、変わりはなかったか?」
いつも通り佳穂に尋ねた正清は、そのあとで娘の頭に手をやり
「良い子にしておったか?」
と髪を撫でてやっている。
「はい」
よくまわらない舌で応えると、悠姫は恥ずかしげに母の後ろに隠れた。
佳穂がくすくすと笑って姫を膝に抱き寄せ、正清はその様子を苦笑しながらみつめている。
「お食事になさいますか?」
「いや、少し休む。些か疲れた」
この主がそんな事と口にするのは珍しかった。
よほど、このところの義朝と為義一派との不仲の調停に奔走する毎日が堪えているらしい。
佳穂は一瞬、顔を曇らせて、だがすぐに明るく言った。
「お湯もたててございます。お使いになられるようならばすぐにでもお支度致しますけれど」
「そうか」
正清が振り向いた。
「ありがたい。では、そうさせて貰おうか」
「では、すぐに支度して参ります」
あるじ夫婦は奥に入り、七平太たち郎党も下屋にうつって、侍女たちが運んできてくれた膳を前に一息ついていたところだったのだが。
食事が終るのを待ち構えてでもいたように、佳穂の乳母の槇野が忙しない足取りで入ってきた。
驚いている七平太を掴まえると、有無を言わせぬ勢いで他の者から少し離れた場所に引っ張っっていく。
それきりもう半刻近くも、「悠姫の出自」についてあれこれと問いつめられ続けているのだ。
槇野の気持ちも分からないではない。
大事な養い君の夫がある日突然、素性も知れない娘を連れてきたのだ。腹を立てない方がどうかしている。
七平太だとてこの話を聞かされた時は、佳穂の為に心を痛めたり憤ったりしたものだ。
だから、気持ちは分かるのだが、だからと言って自分を責められても困るというのだ。
そもそも、悠がこちらへ引き取られた頃、七平太は都を離れていた。
所用をいいつかって、一月ばかりかけて東国へ下向して先頃帰ってきたばかりなのだ。
事の顛末や詳しい事情については、槇野以上に何も知らないといってもよかった。
「だいたい、姫さまが誰のお子であれ良いではないですか。御方さまがお手元でお育てになると決めたのでしょう」
だったら、余計なことは知らない方が良いのではないか。
槇野は腹だたしげに鼻を鳴らした。
「御方さまはああいった呑気なご気性ですからね。殿がご自分に嘘をお吐きになるなど、夢にも疑っていらっしゃらないのです」
「では、それで良いではありませぬか。そこが御方さまの良いところです」
「殿方にとっての、都合の『良いところ』でしょう。御方さまはそれで良くとも、お側つきの私はそれで済ませるわけには参りませぬ。長田の殿さま、北の方さまから姫さまをお預かりした責任がございますもの」
槇野はしつこかった。
七平太は、はあっと溜息をついた。
「お勤めご苦労に存じます。だが、それならば他所を当たられるがいいでしょう。何と問いつめられても、たとえ火責め水責めにかけられても、知らぬものは知らぬ。知らぬことについてお答えすることは出来ないのですから」
「何が火責め水責めですか、人を野蛮人のように!」
「いてっ」
槇野が七平太の肩をいやというほど、どやしつけた。十分に野蛮ではないか。
「何もそなたが、一から十まですべてを知っておるだろうなどとは申しておりませぬ。ただ、殿のお側近くお仕えしているそなたのこと。おおかたの推量くらいはつくのではないかと申しておるのです」
「そう言われましてもねえ」
もう、ここはのらりくらりと適当に相づちを打って向こうの気が済むのを待つしかないかと思い、白湯の椀を引き寄せた七平太は、次の瞬間、口にふくんだ白湯を危うく噴出しそうになった。
「坊門だの六条だの。あとはそう。美濃のなんたら言う白拍子」
「な、な、な…っ」
七平太の動顛に構いもせず、槇野は淡々と続けた。
「七条にも先頃から御馴染みがいらっしゃるようですわね。まあ、姫さまのお年から考えてもその線はなさそうですけれど。側仕えのそなたなら、どこのお人も顔くらいは垣間見た折があるのでしょう。姫さまのお顔をみて、だいたいの察しくらいはつくのではありませんか?」
「……っ」
七平太は、慌てて椀に残った白湯を喉に流し込んだ。
危うく、
(なぜ、それをご存知なのですかっ!)
と聞き返すところであった。
たった今、槇野が涼しい顔をして並べてみせた名前は、どれも正清と「馴染み」のある女人ばかりであった。
けれど、自分も含めて数人程度しか知る者のいないような話を、何故、邸内からろくに出ることもないはずの槇野が知っているのか。
理由を尋ねるわけにもいかず、七平太は黙って目線をうろうろとさ迷わせた。
首の裏にじっとりと変な汗がにじんでくる。
七平太は、やりきれない思いで溜息をついた。
その途端、
「聞いておられるのですか、七平太殿!」
居丈高な叱責が飛んでくる。
「聞いておりますよ。そのようにがみがみと怒鳴り立てられたら嫌でも聞かないわけにいかない」
「まあ」
槇野がたちまち眉を逆立てた。
「なんですか、その言い草はっ! 無礼な!」
「無礼をしたくもなりますよ。さっきから何度同じことを言わせるのですか。だから、それがしなどは何も知らぬと申しておるではありませぬか」
四条の邸を訪れるのは久しぶりだった。
この頃、あるじの正清は多忙である。
自然と、七平太もその使い走りであちらこちらへ飛び回らねばならず、時には都を離れることもあったりして、以前のようにしばしばとこちらを訪れることは出来なくなっていた。
(だから、今日は久方ぶりに御方さまにお目にかかれると思っていたのに……)
いや、会えることは会えたのだが。
「佳穂。今帰ったぞ」
正清がそう言って、邸内に入っていくとすぐに悠姫の手を引いた佳穂が出てきた。
「おかえりなさいませ、殿。お疲れさまにございました」
夫を迎える声は明るく弾んでいる。
そのとなりで三つになるという悠姫が、教えられたとおり小さな手を床について、
「父しゃま、おかーりなしゃ、ませ」
と挨拶をする姿は、とても愛らしかったが、それを見る七平太は複雑な思いだった。
「留守中、変わりはなかったか?」
いつも通り佳穂に尋ねた正清は、そのあとで娘の頭に手をやり
「良い子にしておったか?」
と髪を撫でてやっている。
「はい」
よくまわらない舌で応えると、悠姫は恥ずかしげに母の後ろに隠れた。
佳穂がくすくすと笑って姫を膝に抱き寄せ、正清はその様子を苦笑しながらみつめている。
「お食事になさいますか?」
「いや、少し休む。些か疲れた」
この主がそんな事と口にするのは珍しかった。
よほど、このところの義朝と為義一派との不仲の調停に奔走する毎日が堪えているらしい。
佳穂は一瞬、顔を曇らせて、だがすぐに明るく言った。
「お湯もたててございます。お使いになられるようならばすぐにでもお支度致しますけれど」
「そうか」
正清が振り向いた。
「ありがたい。では、そうさせて貰おうか」
「では、すぐに支度して参ります」
あるじ夫婦は奥に入り、七平太たち郎党も下屋にうつって、侍女たちが運んできてくれた膳を前に一息ついていたところだったのだが。
食事が終るのを待ち構えてでもいたように、佳穂の乳母の槇野が忙しない足取りで入ってきた。
驚いている七平太を掴まえると、有無を言わせぬ勢いで他の者から少し離れた場所に引っ張っっていく。
それきりもう半刻近くも、「悠姫の出自」についてあれこれと問いつめられ続けているのだ。
槇野の気持ちも分からないではない。
大事な養い君の夫がある日突然、素性も知れない娘を連れてきたのだ。腹を立てない方がどうかしている。
七平太だとてこの話を聞かされた時は、佳穂の為に心を痛めたり憤ったりしたものだ。
だから、気持ちは分かるのだが、だからと言って自分を責められても困るというのだ。
そもそも、悠がこちらへ引き取られた頃、七平太は都を離れていた。
所用をいいつかって、一月ばかりかけて東国へ下向して先頃帰ってきたばかりなのだ。
事の顛末や詳しい事情については、槇野以上に何も知らないといってもよかった。
「だいたい、姫さまが誰のお子であれ良いではないですか。御方さまがお手元でお育てになると決めたのでしょう」
だったら、余計なことは知らない方が良いのではないか。
槇野は腹だたしげに鼻を鳴らした。
「御方さまはああいった呑気なご気性ですからね。殿がご自分に嘘をお吐きになるなど、夢にも疑っていらっしゃらないのです」
「では、それで良いではありませぬか。そこが御方さまの良いところです」
「殿方にとっての、都合の『良いところ』でしょう。御方さまはそれで良くとも、お側つきの私はそれで済ませるわけには参りませぬ。長田の殿さま、北の方さまから姫さまをお預かりした責任がございますもの」
槇野はしつこかった。
七平太は、はあっと溜息をついた。
「お勤めご苦労に存じます。だが、それならば他所を当たられるがいいでしょう。何と問いつめられても、たとえ火責め水責めにかけられても、知らぬものは知らぬ。知らぬことについてお答えすることは出来ないのですから」
「何が火責め水責めですか、人を野蛮人のように!」
「いてっ」
槇野が七平太の肩をいやというほど、どやしつけた。十分に野蛮ではないか。
「何もそなたが、一から十まですべてを知っておるだろうなどとは申しておりませぬ。ただ、殿のお側近くお仕えしているそなたのこと。おおかたの推量くらいはつくのではないかと申しておるのです」
「そう言われましてもねえ」
もう、ここはのらりくらりと適当に相づちを打って向こうの気が済むのを待つしかないかと思い、白湯の椀を引き寄せた七平太は、次の瞬間、口にふくんだ白湯を危うく噴出しそうになった。
「坊門だの六条だの。あとはそう。美濃のなんたら言う白拍子」
「な、な、な…っ」
七平太の動顛に構いもせず、槇野は淡々と続けた。
「七条にも先頃から御馴染みがいらっしゃるようですわね。まあ、姫さまのお年から考えてもその線はなさそうですけれど。側仕えのそなたなら、どこのお人も顔くらいは垣間見た折があるのでしょう。姫さまのお顔をみて、だいたいの察しくらいはつくのではありませんか?」
「……っ」
七平太は、慌てて椀に残った白湯を喉に流し込んだ。
危うく、
(なぜ、それをご存知なのですかっ!)
と聞き返すところであった。
たった今、槇野が涼しい顔をして並べてみせた名前は、どれも正清と「馴染み」のある女人ばかりであった。
けれど、自分も含めて数人程度しか知る者のいないような話を、何故、邸内からろくに出ることもないはずの槇野が知っているのか。
理由を尋ねるわけにもいかず、七平太は黙って目線をうろうろとさ迷わせた。
首の裏にじっとりと変な汗がにじんでくる。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定
後宮の棘
香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。
☆完結しました☆
スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。
第13回ファンタジー大賞特別賞受賞!
ありがとうございました!!
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる