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第四章 動乱前夜
撫子(一)
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仁平三年(1153年)のその年も、表面上は穏やかに過ぎて暮れた。
昨年の十一月にご懐妊の報が流れ、華々しい行列を仕立てて内裏を下り里邸に宿下りしていらした中宮呈子さまは、産み月であるはずの三月になってもいっこうにご出産の気配がなく、さまざまに加持祈祷が行われた末にご懐妊のことは誤りであったという判断が下されてひっそりと宮中に戻られていた。
「焦ってお側にお戻ししたところで肝心の主上がお体を悪くされて伏せっておられるというのだからどうしようもない」
「もともと主上の思し召しは、お年も近くお美しいと評判の皇后さまに深くていらしたのに、ご生母の女院さまや関白さまがよってたかって引き離して、八つも年上の女房を無理やりに押しつけたのだもの。それを今になって御子が出来ないって慌てたって遅いというものさ」
人々は口さがなく噂しあった。
帝のご体調は夏頃から思わしくなかったものが、秋が深まるにつれて益々お悪くなられる一方で近頃では床に伏されることも多くなっているということだった。
年明けて間もなく元号が「久寿」と改められた。帝のご快癒を祈願してのことだった。
三条坊門のお邸ではまた慶事があった。
由良の方さまが三人目の御子を無事、ご出産なされたのだ。珠のようにお可愛らしい姫君であられた。
絢姫と名付けられたこの姫君のご誕生を、義朝さまはことのほかお喜びになられた。
「これからは息子ばかりでなく、娘も大勢いるに越したことはないからな。おお。器量の良い子だ。母上のように賢く、美しく育ってくれよ」
「まあ、殿ったら。おからかいになっては困ります」
義朝さまが姫君を抱きあやされているかたわらで、由良の方さまが恥ずかしそうに微笑まれている。
この頃、都ではすでに武家と貴族の家との縁組が頻繁に行われていた。
嫡男をすでに鬼武者さまとお定めになられた義朝さまにとって、これから必要となるのは若君よりもむしろ、縁組によって都の有力者の方々との結びつきとなれる姫君の方だということらしかった。
絢姫さまがお生まれになられてから、義朝さまがこちらのお邸に足をお運びになられる回数は、明らかに増えていた。
ある日。
坊門のお邸の局で、浅茅さまに頼まれた急ぎの縫い物を広げているとそこに珍しく正清さまがお姿を見せた。
「まあ、殿」
私は針をおいて簀子縁に出た。
「義朝さまの御使いでいらっしゃいますか?御方さまにお取次ぎいたしましょうか?」
「いや」
正清さまは首を振って、簀子に腰を下ろされた。
「少し近くまで来たゆえ立ち寄っただけだ。別に用はない」
私は目を丸くした。
私が京にあがってから今日まで三年と半ばかり。
今までただの一度もそんなことはなかったのに。
「お珍しいこと。明日は雨が降るのではないかしら」
「うるさい。ちょっと帰らずにおるとああだこうだと文句を言うくせに、こうして顔を出してやればその言い草か」
「申し訳ございませぬ」
私はくすくす笑った。
「思いがけずにお目にかかれて嬉しくて。お上がりになられます? 取り散らかしておりますけれど」
促すと正清さまは仕方ないといったように溜息をついて、室内に座をうつされた。
私が、畳んでいく白や桜色の布に目をやられると
「華やかなものだな。御方さまのご衣裳か何かか?」
とお尋ねになる。
「いいえ。こちらは姫さまの御前付きの女童たちの装束にございます。やっぱり、姫さまがお一人いらっしゃるとお邸のうちがぱあっと華やいだ雰囲気になられますわね」
「そういうものかな」
正清さまは曖昧な表情で頷かれた。
と、思うと、ふいに私の顔をじっとご覧になる。
「どうされました?」
「いや……佳穂。そなた、子は好きか?」
妙な質問だと思ったけれど、私はこくりと頷いた。
「ええ。好きでございます。六条のお邸でも鶴若さまや天王さまとよく遊んでいただきました」
「そうであったな」
「女の子は好きか?」
「はい?」
私は首を傾げた。
ますます妙なご質問である。
「いや、今、姫が一人いると邸内が華やかになると申しておったゆえ…」
「はあ、それはまあ」
何が仰りたいのか分からずに私はあやふやに頷いた。
「確かに着るものや、調度品などをとってみても、姫君のものは若君のものよりもどれもお可愛らしくて、お衣装なども仕立て甲斐がありますけれども」
「なるほど…」
「あの、いったい、なんのお話でございましょう?」
たまりかねて尋ねると、正清さまははっとされたように
「いや、別になんでもない。ただ好き嫌いを聞いてみただけだ」
と仰せになられた。
「そうでございますか…?」
腑に落ちない気持ちを感じながら、それ以上は聞き返せずにいると、ふいに中門の方が騒がしくなった。
しばらくして。
「殿のお渡りにございます」
先触れらしい声がした。
女房の誰かがそれに何やら応える声がして、衣擦れの音が賑やかに行き交う。
一気に慌しく華やいだ邸内の空気の中で、私は思わず正清さまのお顔を見た。
(殿のお渡り…って、では義朝さまは今までこちらにはいらっしゃらなかったの?)
義朝さまが、正清さまをお供に連れずにお出かけになられた事など、私が覚えている限りただの一度もなかった。
今だって、てっきり義朝さまが由良の方さまのもとにいらっしゃる間に、ちょっとこちらにお立ち寄りいただいたものだとばかり思っていたのに。
正清さまは何も仰られない。
黙って立ち上がると、静かに部屋を出てゆかれた。
この頃、正清さまが、義朝さまに為義さまとの和解の方途について幾度もご進言なされて。
それが原因で義朝さまのご不興をかわれ、時折、お供の任から外されたりしていたことを私が知ったのは、随分あとになってからのことだった。
その時は目の前の出来事に不穏なものを感じつつも、そのすぐ後に自分の身の上に起こったある大きな出来事のせいで私はそのことを忘れてしまった。
昨年の十一月にご懐妊の報が流れ、華々しい行列を仕立てて内裏を下り里邸に宿下りしていらした中宮呈子さまは、産み月であるはずの三月になってもいっこうにご出産の気配がなく、さまざまに加持祈祷が行われた末にご懐妊のことは誤りであったという判断が下されてひっそりと宮中に戻られていた。
「焦ってお側にお戻ししたところで肝心の主上がお体を悪くされて伏せっておられるというのだからどうしようもない」
「もともと主上の思し召しは、お年も近くお美しいと評判の皇后さまに深くていらしたのに、ご生母の女院さまや関白さまがよってたかって引き離して、八つも年上の女房を無理やりに押しつけたのだもの。それを今になって御子が出来ないって慌てたって遅いというものさ」
人々は口さがなく噂しあった。
帝のご体調は夏頃から思わしくなかったものが、秋が深まるにつれて益々お悪くなられる一方で近頃では床に伏されることも多くなっているということだった。
年明けて間もなく元号が「久寿」と改められた。帝のご快癒を祈願してのことだった。
三条坊門のお邸ではまた慶事があった。
由良の方さまが三人目の御子を無事、ご出産なされたのだ。珠のようにお可愛らしい姫君であられた。
絢姫と名付けられたこの姫君のご誕生を、義朝さまはことのほかお喜びになられた。
「これからは息子ばかりでなく、娘も大勢いるに越したことはないからな。おお。器量の良い子だ。母上のように賢く、美しく育ってくれよ」
「まあ、殿ったら。おからかいになっては困ります」
義朝さまが姫君を抱きあやされているかたわらで、由良の方さまが恥ずかしそうに微笑まれている。
この頃、都ではすでに武家と貴族の家との縁組が頻繁に行われていた。
嫡男をすでに鬼武者さまとお定めになられた義朝さまにとって、これから必要となるのは若君よりもむしろ、縁組によって都の有力者の方々との結びつきとなれる姫君の方だということらしかった。
絢姫さまがお生まれになられてから、義朝さまがこちらのお邸に足をお運びになられる回数は、明らかに増えていた。
ある日。
坊門のお邸の局で、浅茅さまに頼まれた急ぎの縫い物を広げているとそこに珍しく正清さまがお姿を見せた。
「まあ、殿」
私は針をおいて簀子縁に出た。
「義朝さまの御使いでいらっしゃいますか?御方さまにお取次ぎいたしましょうか?」
「いや」
正清さまは首を振って、簀子に腰を下ろされた。
「少し近くまで来たゆえ立ち寄っただけだ。別に用はない」
私は目を丸くした。
私が京にあがってから今日まで三年と半ばかり。
今までただの一度もそんなことはなかったのに。
「お珍しいこと。明日は雨が降るのではないかしら」
「うるさい。ちょっと帰らずにおるとああだこうだと文句を言うくせに、こうして顔を出してやればその言い草か」
「申し訳ございませぬ」
私はくすくす笑った。
「思いがけずにお目にかかれて嬉しくて。お上がりになられます? 取り散らかしておりますけれど」
促すと正清さまは仕方ないといったように溜息をついて、室内に座をうつされた。
私が、畳んでいく白や桜色の布に目をやられると
「華やかなものだな。御方さまのご衣裳か何かか?」
とお尋ねになる。
「いいえ。こちらは姫さまの御前付きの女童たちの装束にございます。やっぱり、姫さまがお一人いらっしゃるとお邸のうちがぱあっと華やいだ雰囲気になられますわね」
「そういうものかな」
正清さまは曖昧な表情で頷かれた。
と、思うと、ふいに私の顔をじっとご覧になる。
「どうされました?」
「いや……佳穂。そなた、子は好きか?」
妙な質問だと思ったけれど、私はこくりと頷いた。
「ええ。好きでございます。六条のお邸でも鶴若さまや天王さまとよく遊んでいただきました」
「そうであったな」
「女の子は好きか?」
「はい?」
私は首を傾げた。
ますます妙なご質問である。
「いや、今、姫が一人いると邸内が華やかになると申しておったゆえ…」
「はあ、それはまあ」
何が仰りたいのか分からずに私はあやふやに頷いた。
「確かに着るものや、調度品などをとってみても、姫君のものは若君のものよりもどれもお可愛らしくて、お衣装なども仕立て甲斐がありますけれども」
「なるほど…」
「あの、いったい、なんのお話でございましょう?」
たまりかねて尋ねると、正清さまははっとされたように
「いや、別になんでもない。ただ好き嫌いを聞いてみただけだ」
と仰せになられた。
「そうでございますか…?」
腑に落ちない気持ちを感じながら、それ以上は聞き返せずにいると、ふいに中門の方が騒がしくなった。
しばらくして。
「殿のお渡りにございます」
先触れらしい声がした。
女房の誰かがそれに何やら応える声がして、衣擦れの音が賑やかに行き交う。
一気に慌しく華やいだ邸内の空気の中で、私は思わず正清さまのお顔を見た。
(殿のお渡り…って、では義朝さまは今までこちらにはいらっしゃらなかったの?)
義朝さまが、正清さまをお供に連れずにお出かけになられた事など、私が覚えている限りただの一度もなかった。
今だって、てっきり義朝さまが由良の方さまのもとにいらっしゃる間に、ちょっとこちらにお立ち寄りいただいたものだとばかり思っていたのに。
正清さまは何も仰られない。
黙って立ち上がると、静かに部屋を出てゆかれた。
この頃、正清さまが、義朝さまに為義さまとの和解の方途について幾度もご進言なされて。
それが原因で義朝さまのご不興をかわれ、時折、お供の任から外されたりしていたことを私が知ったのは、随分あとになってからのことだった。
その時は目の前の出来事に不穏なものを感じつつも、そのすぐ後に自分の身の上に起こったある大きな出来事のせいで私はそのことを忘れてしまった。
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