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第三章 確執

声(一)

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「あの……殿。どちらへ参られるので」
後ろをついてくる七平太が訊ねてきた。

「堀河へ」
正清は短く言って歩を進めた。
どちらかと言えば小柄な七平太はほとんど小走りになってついてくる。

「しかし、あちらは……」
躊躇ためらいがちに言うのは義朝と為義、そして異腹の弟たちとのもう長く続いている冷戦状態をおもんはかってのことであろう。
確かにそんな場所へ義朝の乳兄弟である自分がなんの前触れもなしに顔を出せば余計な波乱を招きかねない。
しかし、今日この時に何も行動をしなければ、佳穂は二度と戻って来ない。
それは確かなことに思われた。

父が言うように他の男のものになるのがあれの幸せだというのならそれでもよい。
ただ、こんな騙し討ちのような方法は許せるものではなかった。

父に命ぜられるままに何も疑うことなく、佳穂があの無邪気な様子で今頃、頼賢の側に侍っているのかもしれぬと思うと胸の内側を引っ掻かれでもするような苛立たしさが沸き上がってきた。

堀河の邸にはすぐについた。
まだ何か言いたげな七平太に太刀を押し付けると、正清は門をくぐって中に入った。

「佳穂を連れて戻る。そのあたりで待っていよ」
「お、御方さまを連れて……って、その…どうやって」
「ここから入って佳穂を連れてまた出る。それだけだ」
「そんな…」
「何をごちゃごちゃ言うておる。そもそも佳穂を連れて帰って来いと泣いて大騒ぎをしたのはおまえではないか」
「別に泣いてなど…あ、殿! お待ち下さい!」

まだ背後で何か言いかけている七平太を捨て置いて、正清は邸内へと入っていった。

上洛したばかりの頃は、義朝の供をして足繁く通った場所である。
だいたいの造りは分かるつもりだが、それでもさすがに勝手に邸内を歩き回るのは憚られた。
人に見咎みとがめられれば面倒なことにもなろう。

寝殿の方からは賑やかな宴席の喧騒が伝わってくる。
正清はそちらへと足を向けた。

最初にこちらに気がついたのは、義朝の次弟の義賢だった。
いかにも「嫡男」よろしく落ち着き払って、為義のすぐ左脇の座を占めていた彼は、端正な面差しを曇らせて正清を見た。

「何をしに参った」
物憂げに義賢が言った。
丁寧に整えられた眉、どこか間延びしたような優雅な物言いはまるで公家の公達のようであった。

「義朝の兄上から宴に事寄せた祝儀でも言付かって参ったのか? それとも、いよいよ乳兄弟の仲を見限ってこちらへ宗旨替えに参ったのか?」
義賢の言葉に迎合するように周囲の男たちがこぞって大仰な笑い声をたてた

「控えよ」
主座の為義が短く言った。
大きな声ではなかったが、座は一瞬で静まった。

義賢も、その他の兄弟たちも不満を燻らせた顔で、それでも一様に口を噤んだ。
正清は為義とその妻である深芳野の方に向かって丁重に頭を下げた。

「いかがした?通清に何かあったのか?腰が痛むとは聞いておったが……」
そう尋ねる為義の表情はいかにも気遣わしげだった。
 
(父は果報者だ)
そう思いながら、正清は南面のきざはしのしたに膝をつき視線を下に向けたまま答えた。

「いえ。父の加減はたいしたことはありませぬ。明日にはこちらへ参上出来ることでしょう」
「では、いかがした?」
正清を見る為義の目は相変わらず優しかった。

義朝が公然と敵対する立場を見せている今でもなお、まだ少年の頃の正清の頭を撫で、可愛がってくれた頃と少しも変っていないように見えた。

正清はもう一度深く頭を下げた。
「妻が、こちらでお世話になっておると伺いまして」

「まあ」
為義の傍らの蕨野わらびのの方が微笑んで言った。
「お世話になっているのはこちらの方よ。鶴若たちがもうすっかり懐いてしまって」
「恐れ入ります」
「今日の宴の準備も随分と手伝って貰ったのよ。今もそこで…あら、さっきまでそこのあたりにいたと思ったのだけれど。ねえ、松枝まつがえ。佳穂どのはどちらに…」
「いえ」
蕨野の方が傍らの老女に尋ねかけるのを、正清は短く制した。

「お手を煩わせるには及びません。どうせそのあたりを気儘にうろついておるのでしょう。お許しをいただければ、こちらで勝手にみつけて連れ帰らせていただきます」

「え、連れ帰るって……」
戸惑ったように目をみはる蕨野の方と、どこか楽しげにこちらを見やっている為義にもう一度深く頭を下げると、正清はくるりと踵を返した。

義賢の周りに詰めていた男たちが、気色ばんだ顔で腰を浮かしかけるのを為義は一瞥で制した。
「良い。あれは内偵の真似事をするような小賢しい男ではない。まこと、佳穂を迎えに参っただけであろう。……ほんに通清も人が悪い」

酒の追加でもとりにたっているのかと思ったのだが、水屋には佳穂の姿はなかった。
正清はしばし、考えてからまっすぐに東の対屋に向かって歩き出した。
宴席には、頼賢の姿がなかった。
偶然だとは思われなかった。

躊躇ったのは一瞬だった。
自分はここまででもうすでに、充分過ぎるほど馬鹿馬鹿しい真似をしでかしている。
このうえ、多少の醜態など瑣末なことだ。

今考えるべきは、一刻も早く目的を果たしてこの場をあとにすることである。

対屋へと続く渡殿を睨みつけるようにして正清は顔を上げた。

ひとつ、大きく息をつき。
「佳穂!」
戦場ででも出すような大声で妻の名を呼んだ。

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