59 / 123
第三章 確執
涙
しおりを挟む
振り向いた顔を見て、頼賢は目を瞠った。
佳穂の黒目がちの瞳には、涙がいっぱいたまっていた。
「頼賢さま」
驚いたようにぱちぱちと瞬きをして、慌てて居住まいを正し、床に手をついて頭を下げる。
頭を下げた拍子にこっそりと袖で目元を抑えていたが、顔をあげると頬には涙のあとが残り、目が赤かった。
一瞬、ぎゅっと胸をしめつけられるような思いに襲われて、頼賢は我ながら驚いた。
宴席で、佳穂が空いた御膳をいくつも重ねて部屋を出てゆくところをふと見かけて。
気がついたら膝にしなだれかかるようにして酌をしている女房を押しのけるようにして立ち上がっていた。
「酔いがまわったのでひとりで少し風にあたりたい」
などと適当な言い訳を口にして。
何故、そんなことをしたのか分からない。
あとを追って、どうしようというのだと問われれば自分でもうまく答えが見つけられないのだが
ただ、もう一度だけ、話をしてみたかった。
今日の宴のことなどをとっかかりに、他愛のない世間話でも出来れば良いと思っただけだった。
宴が終れば、もうそう遠くないうちに佳穂は自分の邸へと帰ってしまうのであろう。
そうなればもう会う手立ても口実もない。
所詮は他人の妻である。
しかも、夫はこちらの兄弟とは折り合いの悪い長兄の義朝の一の郎党だ。
何かの折に、偶然、顔を合わせるということも、もうない。
そうなる前にもう一度、声をかけるといつもはにかんだように小首を傾げて微笑む顔が見たかった。
ただ、それだけだ。
そう思っていたのに。
振り向いた佳穂の、涙をためた瞳を見た瞬間、頼賢は自分がなんと言って声をかけようとしていたのかをさっぱりと忘れてしまった。
「……泣いておったのか?」
訊ねると、佳穂は困ったような顔をして首を横に振った。
「いえ、ちょっと目に、ゴミが入ってしまって」
俯きがちになったその顔を見ているうちに、先日、耳に挟んだ女房たちの噂話が甦ってきた。
(お子もいらっしゃないお飾りのご正室だそうよ)
(まあ、要はご実家の財力をあてにしてのご縁談だったのでしょう?)
その時は、いかにも邸勤めの女房らが好みそうな無責任な噂に過ぎないと思っていた。
正清はそのあるじの義朝と違って、朴念仁といっていいほど物堅く、浮いた噂もあまり聞かない。
女漁りをする暇などあったら、あるじの役に立つべく、弓や刀の鍛錬に精を出すような男だ。
そんな正清の妻として、控えめで慎ましやかな佳穂は年齢こそ少し離れているもののしっくりとおさまる印象で。
悔しいが似合いの夫婦だと思っていた。
無骨で面白味はないであろうが、実直で真面目な夫に愛されて、佳穂は幸せなのであろうと。
そう思っていた。
けれど、そうでないのなら。
女房たちの噂話が本当ならば……。
「頼賢さま?」
訝しげにこちらを見上げる佳穂の瞳が存外に近いところにあることに気がついて、頼賢は慌てて身を引いた。
いつの間にか、跪いている佳穂の前に膝をつき、恐縮して少し下がって控えようとした彼女の手を、無意識のうちにとっていたのだ。
佳穂の瞳が驚いたように丸くなる。
しかし、頼賢の側も十分、驚いていた。
(なんだ、この手は……)
(俺は何をしようというのだ…)
戸惑いながら。
「……少し酒を過ごしたようだ」
自分がそう言う声を頼賢は他人のもののように聞いた。
「まあ」
佳穂が気遣わしげに顔を曇らせる。
「冷たいお水でもいただいて参りましょうか。」
「いや。少し外の風にあたってくればすぐに治まるだろう。 庭の方を散歩したらすぐに戻ってくる」
言いながら膝を起して立ち上がりざま、わざと均衡を崩したように足元をふらつかせる。
「危のうございます」
佳穂が慌てたように飛びついてきて肩を支えてくれる。
「少しお静かにお休みになられた方が」
予期した通りにそう言われて、後ろめたい思いが胸をよぎる。
しかし、その思いも、至近距離でこちらを見上げてくる、潤んだような黒目がちの瞳を見て。
髪から香るほのかな香りを嗅いだ途端どこかに飛んでいった。
自分はこの女を気に入っている。
好いていると言っても良い。
佳穂の方だとて、先日あのようなことがあったのに自分の顔を見るなり逃げ出さないところを見ると、満更嫌い抜いているというわけでもないのであろう
だったら。
夫に愛されること少ない可哀想な身の上の彼女を、自分が慰めてやったとて、何の悪いことがあろう。
佳穂の父親の長田忠致とて、娘が義朝の郎党ののお飾り妻として捨ておかれるよりも、主家の御曹司である自分の愛妾として迎えられた方が喜ぶに決まっている。
そうだ。
これは人妻相手の好き心などというものではない。
むしろ人助けのようなものなのだ。
そう思い決めると、頼賢は寄り添ってきている佳穂の肩をぐっと引き寄せた。
「頼賢さま?」
「……部屋で少し休むとしよう。すぐそこになるのだが、済まぬが少し手を貸して貰えるか」
「はい」
佳穂は素直に頷いた。
このあたりの無防備さは、まだ少女の頃に人の妻となっているゆえであろう。
邸勤めの女房たちのように男の好色な目に晒された経験がないのだ。
すでに夫のある身の自分に、他の男が好き心など抱くはずがないと信じているのだ。
その時。
佳穂がふいに振り向いた。
訝しげに小首を傾げる。
「いかがした?」
そう尋ねながら頼賢は、佳穂の髪にそっと手を伸ばした。
佳穂の黒目がちの瞳には、涙がいっぱいたまっていた。
「頼賢さま」
驚いたようにぱちぱちと瞬きをして、慌てて居住まいを正し、床に手をついて頭を下げる。
頭を下げた拍子にこっそりと袖で目元を抑えていたが、顔をあげると頬には涙のあとが残り、目が赤かった。
一瞬、ぎゅっと胸をしめつけられるような思いに襲われて、頼賢は我ながら驚いた。
宴席で、佳穂が空いた御膳をいくつも重ねて部屋を出てゆくところをふと見かけて。
気がついたら膝にしなだれかかるようにして酌をしている女房を押しのけるようにして立ち上がっていた。
「酔いがまわったのでひとりで少し風にあたりたい」
などと適当な言い訳を口にして。
何故、そんなことをしたのか分からない。
あとを追って、どうしようというのだと問われれば自分でもうまく答えが見つけられないのだが
ただ、もう一度だけ、話をしてみたかった。
今日の宴のことなどをとっかかりに、他愛のない世間話でも出来れば良いと思っただけだった。
宴が終れば、もうそう遠くないうちに佳穂は自分の邸へと帰ってしまうのであろう。
そうなればもう会う手立ても口実もない。
所詮は他人の妻である。
しかも、夫はこちらの兄弟とは折り合いの悪い長兄の義朝の一の郎党だ。
何かの折に、偶然、顔を合わせるということも、もうない。
そうなる前にもう一度、声をかけるといつもはにかんだように小首を傾げて微笑む顔が見たかった。
ただ、それだけだ。
そう思っていたのに。
振り向いた佳穂の、涙をためた瞳を見た瞬間、頼賢は自分がなんと言って声をかけようとしていたのかをさっぱりと忘れてしまった。
「……泣いておったのか?」
訊ねると、佳穂は困ったような顔をして首を横に振った。
「いえ、ちょっと目に、ゴミが入ってしまって」
俯きがちになったその顔を見ているうちに、先日、耳に挟んだ女房たちの噂話が甦ってきた。
(お子もいらっしゃないお飾りのご正室だそうよ)
(まあ、要はご実家の財力をあてにしてのご縁談だったのでしょう?)
その時は、いかにも邸勤めの女房らが好みそうな無責任な噂に過ぎないと思っていた。
正清はそのあるじの義朝と違って、朴念仁といっていいほど物堅く、浮いた噂もあまり聞かない。
女漁りをする暇などあったら、あるじの役に立つべく、弓や刀の鍛錬に精を出すような男だ。
そんな正清の妻として、控えめで慎ましやかな佳穂は年齢こそ少し離れているもののしっくりとおさまる印象で。
悔しいが似合いの夫婦だと思っていた。
無骨で面白味はないであろうが、実直で真面目な夫に愛されて、佳穂は幸せなのであろうと。
そう思っていた。
けれど、そうでないのなら。
女房たちの噂話が本当ならば……。
「頼賢さま?」
訝しげにこちらを見上げる佳穂の瞳が存外に近いところにあることに気がついて、頼賢は慌てて身を引いた。
いつの間にか、跪いている佳穂の前に膝をつき、恐縮して少し下がって控えようとした彼女の手を、無意識のうちにとっていたのだ。
佳穂の瞳が驚いたように丸くなる。
しかし、頼賢の側も十分、驚いていた。
(なんだ、この手は……)
(俺は何をしようというのだ…)
戸惑いながら。
「……少し酒を過ごしたようだ」
自分がそう言う声を頼賢は他人のもののように聞いた。
「まあ」
佳穂が気遣わしげに顔を曇らせる。
「冷たいお水でもいただいて参りましょうか。」
「いや。少し外の風にあたってくればすぐに治まるだろう。 庭の方を散歩したらすぐに戻ってくる」
言いながら膝を起して立ち上がりざま、わざと均衡を崩したように足元をふらつかせる。
「危のうございます」
佳穂が慌てたように飛びついてきて肩を支えてくれる。
「少しお静かにお休みになられた方が」
予期した通りにそう言われて、後ろめたい思いが胸をよぎる。
しかし、その思いも、至近距離でこちらを見上げてくる、潤んだような黒目がちの瞳を見て。
髪から香るほのかな香りを嗅いだ途端どこかに飛んでいった。
自分はこの女を気に入っている。
好いていると言っても良い。
佳穂の方だとて、先日あのようなことがあったのに自分の顔を見るなり逃げ出さないところを見ると、満更嫌い抜いているというわけでもないのであろう
だったら。
夫に愛されること少ない可哀想な身の上の彼女を、自分が慰めてやったとて、何の悪いことがあろう。
佳穂の父親の長田忠致とて、娘が義朝の郎党ののお飾り妻として捨ておかれるよりも、主家の御曹司である自分の愛妾として迎えられた方が喜ぶに決まっている。
そうだ。
これは人妻相手の好き心などというものではない。
むしろ人助けのようなものなのだ。
そう思い決めると、頼賢は寄り添ってきている佳穂の肩をぐっと引き寄せた。
「頼賢さま?」
「……部屋で少し休むとしよう。すぐそこになるのだが、済まぬが少し手を貸して貰えるか」
「はい」
佳穂は素直に頷いた。
このあたりの無防備さは、まだ少女の頃に人の妻となっているゆえであろう。
邸勤めの女房たちのように男の好色な目に晒された経験がないのだ。
すでに夫のある身の自分に、他の男が好き心など抱くはずがないと信じているのだ。
その時。
佳穂がふいに振り向いた。
訝しげに小首を傾げる。
「いかがした?」
そう尋ねながら頼賢は、佳穂の髪にそっと手を伸ばした。
0
お気に入りに追加
21
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

妻を蔑ろにしていた結果。
下菊みこと
恋愛
愚かな夫が自業自得で後悔するだけ。妻は結果に満足しています。
主人公は愛人を囲っていた。愛人曰く妻は彼女に嫌がらせをしているらしい。そんな性悪な妻が、屋敷の最上階から身投げしようとしていると報告されて急いで妻のもとへ行く。
小説家になろう様でも投稿しています。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
後宮の棘
香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。
☆完結しました☆
スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。
第13回ファンタジー大賞特別賞受賞!
ありがとうございました!!

10年間の結婚生活を忘れました ~ドーラとレクス~
緑谷めい
恋愛
ドーラは金で買われたも同然の妻だった――
レクスとの結婚が決まった際「ドーラ、すまない。本当にすまない。不甲斐ない父を許せとは言わん。だが、我が家を助けると思ってゼーマン伯爵家に嫁いでくれ。頼む。この通りだ」と自分に頭を下げた実父の姿を見て、ドーラは自分の人生を諦めた。齢17歳にしてだ。
※ 全10話完結予定
『 ゆりかご 』 ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。
設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。
最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで
くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。
古い作品ですが、有難いことです。😇
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
・・・・・・・・・・
💛イラストはAI生成画像自作

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる