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第六章 慟哭
月のない夜空
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波多野さまが帰られた後、片付けを終えて居間に戻ると正清さまは簀子縁に座ってじっと空を眺めていらっしゃった。
今夜の空には三十日のか細い月さえ出ていない。
月の見えない暗い夜空を見上げる正清さまに、お声をかけるのは憚られて、かといって別室に下がっている気にもなれなくて、私は部屋の隅にそっと腰を下ろした。
波多野さまが帰られたのが亥の刻(午後十時頃)過ぎだったので、使用人たちの多くはもう下屋の方に下がっていて、邸内はとても静かだった。
この季節は毎夜、にぎやかに鳴いている庭の下草の虫の音さえ、今夜は遠慮がちに想える。
そうして静かに座っていると、先ほどまで聞いていた波多野さまのお話が思い出される。
私は懐から小さなとんぼと蝶々を取り出して手のひらに乗せた。それが鶴若さまと天王さまの小さな水干の胸元で揺れていたのを覚えていた。
(佳穂、佳穂)
とあとを慕って下さる可愛らしいお声。先を争って膝によじのぼって来られた小さなお体の柔らかな感触、子ども特有の甘酸っぱいような匂い。
蝶の羽の端には赤黒い染みがついていた。
気がつくと頬が涙で濡れていた。
(どんなにか恐ろしかったでしょう。あんなにお小さい若君がたが、お父上、お母上とも離れた場所に連れ出されて……どんなにか)
甘えん坊で庭先で転んでお膝を擦りむいても、べそべそと泣いてこられた天王さま。お手当を我慢するご褒美にお菓子を差し上げると言ったら、お袖で涙をぬぐってにっこり笑われた。
(お膝を擦りむいても泣いておられた天王さまが、御首を討たれただなんてどんなに恐ろしい、苦しい思いをされたことか)
転んだ天王さまを抱き起してお膝の砂を払って差し上げていた傅役の内記どの。
「さあ泣かないで。母のお膝へいらっしゃい」
優しく微笑んで、手招かれた蕨野の方さま。
その傍らで、「天王の泣き虫」「男のくせに」と囃していた亀若さまと鶴若さま。
「おまえたちだってこの間までそうだっただろう」とたしなめている乙若さま。
「また兄弟喧嘩か? 母上を困らせるでないぞ」
と言いながら入って来られた為義さま。そのかたわらで笑っておられる義父上。
その誰もがもうこの世にはいらっしゃらないなんて信じられない。
それだけではない。五月の節句の宴でお見かけした義賢さま、頼仲さま、為宗さま、為成さま、為仲さま。そして頼賢さま。
この半月ほどの間に、いったいどれほどの血が流されたことか。
その時。
「……佳穂。いつまでそこにおる気だ」
正清さまの声に私は、はっと顔を上げた。泣いているのを気づかれたのかもしれない。
亡き方々のことで涙を流すことは、そのままそれを命じられた義朝さまを責めることになってしまう。
「申し訳ございませぬ」
消え入るような声で言って下がろうとすると再び、正清さまの声が飛んできた。
「構わぬ。ここに居よ」
「え……」
「どこへも行くな」
呟くようなお声だった。
けれど、私の耳には届いた。
(ここに居よ)
(どこへも行くな)
喉の奥から何か熱いものが込み上げてくる。
それが零れ落ちる前に、私は立ち上がって歩み寄ると、正清さまのお背中にすがりついた。頬を寄せたお背中は、夜の空気を吸ってしっとりと冷たかった。
「父が最期まで命を賭してお守りした大殿を俺はこの手で斬った。幼い頃から数えきれないほどの御恩を蒙った大殿を……鬼にも劣る所業だ」
正清さまは前を向いたまま、低く呟かれた。
「俺は死んでもきっと父のところへは行けぬ。地獄行きだ。そこで未来永劫、罪の炎に焼かれるのが相応しい」
「もしも、そうならば私も供にそこへ参ります」
考えるよりも先に言葉が出た。
「義父上がお亡くなりになられた時、私は心のどこかでこれが殿でなくて良かった、と胸を撫でおろしておりました。あんなに良くしていただいて、可愛がっていただいた義父上のお亡骸を前にして、最初に思ったのは、亡くなられたのが殿でなくてよかった、ということでした」
「……」
「先ほどの波多野さまの痛ましい、若君がたや蕨野さまのご最期のお話を聞きながらも、これが戦に負けるということならば義朝さまがご勝利なされて良かった、殿がご無事で良かった、私のもとへ帰ってきて下さって良かった、今、ここにこうしていて下さって良かった……そればかりを思っておりました。情け知らずの鬼は私の方でございます。だから、どこまでもお供いたします」
だから、どこへも行かないで。
行くのなら、私も一緒に連れていって。置いていかないで。
声に出来ない思いを抱えて、私はじっと正清さまのお背中に顔を埋めていた。
「そうか」
正清さまは低く呟いて、それ以上何も言われなかった。
だから、私も黙ったままでいた。
言葉もなく寄り添いながら私たちは一緒に月の見えない夜空を見上げていた。
今夜の空には三十日のか細い月さえ出ていない。
月の見えない暗い夜空を見上げる正清さまに、お声をかけるのは憚られて、かといって別室に下がっている気にもなれなくて、私は部屋の隅にそっと腰を下ろした。
波多野さまが帰られたのが亥の刻(午後十時頃)過ぎだったので、使用人たちの多くはもう下屋の方に下がっていて、邸内はとても静かだった。
この季節は毎夜、にぎやかに鳴いている庭の下草の虫の音さえ、今夜は遠慮がちに想える。
そうして静かに座っていると、先ほどまで聞いていた波多野さまのお話が思い出される。
私は懐から小さなとんぼと蝶々を取り出して手のひらに乗せた。それが鶴若さまと天王さまの小さな水干の胸元で揺れていたのを覚えていた。
(佳穂、佳穂)
とあとを慕って下さる可愛らしいお声。先を争って膝によじのぼって来られた小さなお体の柔らかな感触、子ども特有の甘酸っぱいような匂い。
蝶の羽の端には赤黒い染みがついていた。
気がつくと頬が涙で濡れていた。
(どんなにか恐ろしかったでしょう。あんなにお小さい若君がたが、お父上、お母上とも離れた場所に連れ出されて……どんなにか)
甘えん坊で庭先で転んでお膝を擦りむいても、べそべそと泣いてこられた天王さま。お手当を我慢するご褒美にお菓子を差し上げると言ったら、お袖で涙をぬぐってにっこり笑われた。
(お膝を擦りむいても泣いておられた天王さまが、御首を討たれただなんてどんなに恐ろしい、苦しい思いをされたことか)
転んだ天王さまを抱き起してお膝の砂を払って差し上げていた傅役の内記どの。
「さあ泣かないで。母のお膝へいらっしゃい」
優しく微笑んで、手招かれた蕨野の方さま。
その傍らで、「天王の泣き虫」「男のくせに」と囃していた亀若さまと鶴若さま。
「おまえたちだってこの間までそうだっただろう」とたしなめている乙若さま。
「また兄弟喧嘩か? 母上を困らせるでないぞ」
と言いながら入って来られた為義さま。そのかたわらで笑っておられる義父上。
その誰もがもうこの世にはいらっしゃらないなんて信じられない。
それだけではない。五月の節句の宴でお見かけした義賢さま、頼仲さま、為宗さま、為成さま、為仲さま。そして頼賢さま。
この半月ほどの間に、いったいどれほどの血が流されたことか。
その時。
「……佳穂。いつまでそこにおる気だ」
正清さまの声に私は、はっと顔を上げた。泣いているのを気づかれたのかもしれない。
亡き方々のことで涙を流すことは、そのままそれを命じられた義朝さまを責めることになってしまう。
「申し訳ございませぬ」
消え入るような声で言って下がろうとすると再び、正清さまの声が飛んできた。
「構わぬ。ここに居よ」
「え……」
「どこへも行くな」
呟くようなお声だった。
けれど、私の耳には届いた。
(ここに居よ)
(どこへも行くな)
喉の奥から何か熱いものが込み上げてくる。
それが零れ落ちる前に、私は立ち上がって歩み寄ると、正清さまのお背中にすがりついた。頬を寄せたお背中は、夜の空気を吸ってしっとりと冷たかった。
「父が最期まで命を賭してお守りした大殿を俺はこの手で斬った。幼い頃から数えきれないほどの御恩を蒙った大殿を……鬼にも劣る所業だ」
正清さまは前を向いたまま、低く呟かれた。
「俺は死んでもきっと父のところへは行けぬ。地獄行きだ。そこで未来永劫、罪の炎に焼かれるのが相応しい」
「もしも、そうならば私も供にそこへ参ります」
考えるよりも先に言葉が出た。
「義父上がお亡くなりになられた時、私は心のどこかでこれが殿でなくて良かった、と胸を撫でおろしておりました。あんなに良くしていただいて、可愛がっていただいた義父上のお亡骸を前にして、最初に思ったのは、亡くなられたのが殿でなくてよかった、ということでした」
「……」
「先ほどの波多野さまの痛ましい、若君がたや蕨野さまのご最期のお話を聞きながらも、これが戦に負けるということならば義朝さまがご勝利なされて良かった、殿がご無事で良かった、私のもとへ帰ってきて下さって良かった、今、ここにこうしていて下さって良かった……そればかりを思っておりました。情け知らずの鬼は私の方でございます。だから、どこまでもお供いたします」
だから、どこへも行かないで。
行くのなら、私も一緒に連れていって。置いていかないで。
声に出来ない思いを抱えて、私はじっと正清さまのお背中に顔を埋めていた。
「そうか」
正清さまは低く呟いて、それ以上何も言われなかった。
だから、私も黙ったままでいた。
言葉もなく寄り添いながら私たちは一緒に月の見えない夜空を見上げていた。
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