夢の雫~保元・平治異聞~

橘 ゆず

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第二章 上洛

深夜の変事

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半刻ほどの後、正清さまが唐突に身を起された。

ほとんど無意識にお背中にすがっていた手を、私は慌てて手を引っ込めた。

「殿…?」
「今、何か物音がしたか?」
「え、いえ、何も……」

といわれても、私は物音どころではなかったのだけれど。

(まさかまた槇野がその辺りにいるんじゃ……)

嫌な可能性が頭をよぎり、思わずあたりを見回してしまう。

その時。
ダンダンダンダンッと簀子縁を荒々しく踏み鳴らして足音が近づいてきた。

正清さまが咄嗟に枕元の太刀を掴み寄せながら、左手で私を部屋の奥へ押しやるようにされる。

それとほとんど同時に、
「失礼致します!」
という声とともに妻戸が勢いよく引き開けられた。

七平太だった。
一瞬の沈黙がその場を包み。

次の瞬間、

「うわっ!」
「きゃああああっ!!」

私と七平太の悲鳴が交錯した。
私は夜着である白い小袖一枚で、それも帯も緩んでとんでもない状態だった。

「ごごご、ご無礼を致しましたっ!」

七平太が転がるように外に出ていくのと同時に、私は周りに散乱している着物をかき集めて部屋の隅の几帳の影に飛び込んだ。

「何事だ」

一人、冷静な正清さまのお声が響く。

「こんな夜半に火急の知らせか?殿の方に何か異変でも」
そう問い返すお声はキビキビとして、すっかりいつもの殿だった。

正清さまの対応に我にかえったのか、簀子に控えたまま七平太が答える。

「も、申し上げます。摂政・藤原忠通ただみち様のお邸にて変事あり! 東三条殿に武装した一団が押し入り、蔵を破り略奪行為を働いたとのこと…!」

七平太はそこで言葉を切ると一つ息をつき、一気に云った。

「押し入った賊の一団の頭目は六条判官、源為義さま。ご子息であられる次郎義賢さま。四郎頼賢さま方もこれに従われておられた由!」

「何だと」
正清さまの声音が変わった。
 
慌てて乱れた小袖の襟をかきあわせ、帯を結びなおして几帳の後ろから這い出た私を振り返られたそのお顔は、先ほどまでとは別人のように緊張して険しかった。

「三条へ参る」
短く言われて、正清さまは手早く身支度を整えられた。
私が、緋色の飾り紐を施した黒い鞘に入った太刀を両手で捧げてお渡しすると、正清さまは小さく頷いてそれを取り上げられた。

「行って参る」
「はい。どうかお気をつけて」

「俺が戻るまでは門を閉ざして決して開けるな。 誰が来ても中へ通してはならぬ。たとえ、それが父の手の者であってもだ」

そう強く念を押されると正清さまは濡れ縁を駆けてゆかれた。
あっという間の出来事だった。

そのお背中をお見送りした途端、ふいに身震いを覚えて私は着物の襟をかきあわせた。

時刻は亥の刻いのこくばかりだろうか。
九月も末となる季節の夜の空気は冷たかった。

先ほどまで痛いくらいに抱きしめられていた余韻がまだ体中のあちらこちらに残っているようで。
私は我知らず吐息を漏らした。

(どうかご無事で。お怪我などなさいませんように……)

そう呟きながら簀子縁に目を移した私は、そこに七平太が膝をついているのに気がついて悲鳴をあげた。

「ちょっと、なんで七平太がそこにいるのよっ! 殿とご一緒したんじゃなかったの!?」
部屋に飛び込んで、小袖の上に袿を一枚はおりながら言う。

七平太はきまり悪そうに口ごもりながら、

「は。そのつもりだったのですが、殿が万が一のことがあってはいけないから、今宵はこちらで宿直をつとめよと……」
と、もごもごと答えた。

殿のそのお心遣いは嬉しかったけれど、あんな場面を見られたあとで、同い年の七平太と二人きりで顔をあわせているのはどうにも気恥ずかしかった。

七平太も同じような気持ちらしく居心地悪そうに視線を背けている。

……って、あれ?
色々動顛どうてんしていて気がつかなかったけど。

「そ、そもそも、さっきからどうして七平太しかいないのよ。うちの侍女たちはみんなどこに行ったの?」

浮んだ疑問を思わず口にすると、七平太が気まずそうに答えた。

「そのう、先ほど、それがしが小妙こたえどのをお連れ申し上げた時なのでございますが……。お居間の方からお二人のいさかい、というか殿のお怒りになっておられるお声が聞こえておりまして。槇野どのも楓どのも怖いから、それがしに様子を見てきて欲しい、と仰せられまして。……それで、今しがたも
『妙に静かになっているけれど、どんな様子なのか分からないから直接、お居間の方へ行ってみて』と言われました次第、でして……」

「はああ!?」
私は気恥ずかしさも忘れて思わず聞き返した。

殿が大声で怒鳴ってて怖いって…。
その怒鳴られてる張本人のか弱いあるじを守ろうとか庇おうとかいう発想は、あの人たちにはないのっ!!

特に槇野!
いつもは用もなく居間のまわりをウロウロしていて、やたらと会話に聞き耳立てていたり、口を挟んできたりする癖に……っ。

その時。

「まあまあ。こんな夜更けになんの騒ぎでございますか。殿はお出かけになられましたの?こんな刻限に?」

呑気な声とともに槇野が室内に入ってきた。楓も一緒である。

「夫婦喧嘩は犬も食わぬとは申しますが、こんな夜更けに殿が飛び出してゆかれるなど穏やかではございませんわね。いったい、なにがございましたの」

言いながらその顔つきには抑えきれない好奇心が覗いている。私は眉を吊り上げた。

「なにがございましたの、じゃないわよ! あなた達、今までいったいどこにいたのよ。殿のお膳の支度も、お客様のお出迎えも放りっぱなしで」

「も、申し訳ございません…」

申し訳なさそうな楓と違って、槇野はけろりとしたものである。

「あらまあ。随分とお取り込みのご様子でございましたから、ご夫婦水入らずの語らいをお邪魔しては申し訳ないと思い、下屋の方に下がっておりましたのに。お側近くをうろうろしていて、また、覗きだの何のとお叱りを受けてもかないませんしね」

などと悪びれる風もなく言ってのける。憎たらしいったら!

けれど、そんな場合ではないと思いなおして、手早く衣類の乱れを直しながら、二人に指示を出す。

「東三条の摂政さまのお邸で変事があったらしいわ。殿は坊門のお邸へ参上されました。騒ぎに乗じて良からぬものどもが横行せぬとも限らぬゆえ、門を固く閉ざして夜通し警戒せよとの仰せです」

私の言葉を聞くなり、さすがに槇野はさっと表情を改め、テキパキと指示を始めた。

「七平太どのは警護の侍たちへの指示を頼みます。万が一の火事などに備えて大桶に水を一杯に張って用意しておいて下さい」

「は」

 短く肯いて、すぐに駆け出していく七平太の背中を見やりつつ、こちらを振り返り、

「殿はいつお戻りになれるか分かりませぬ。確か夕餉もまだ差し上げていなかった筈。すぐに台盤所にあるだけの米を炊かせますので、屯食とんじきをつくって坊門のお邸まで届けさせましょう。それに干し肉、果物などもあるだけ櫃に詰めてご一緒に。姫さまは殿のお召し物のお着替えをすぐにお支度下さいませ」

指示すると、楓を従えて足早に部屋を出ていった。

入ってきた時とはうって変わったキビキビとした足取りだった。

私は一瞬ぽかんとしてそれを見送りってから、慌てて言われた通り、殿のお着替えや身の回りのものなどを整え始めた。

日頃は、口うるさい存在だとばかり思っていたけれど、こういう時はさすがに頼りになる。

私一人だったら、こんな時、おろおろと正清さまの身を案じるばかりで、自分が今何をすればいいのかまで、とても頭が回らなかったもの。

何やら号令する七平太の声がここまで聞こえ、侍たちが庭先を駆け回り、邸内がにわかに慌しくなる。

(正清さまはご無事かしら。それに為義さまがその夜討をなされたというのなら、義父上はきっとお側近くにいらしたに違いないわ。お怪我などなさっておられないと良いのだけれど)

胸の内でどうしようもなく膨らんでくる不安を押し殺しながら、私は小袖や足袋、袴を畳んで、長櫃に詰込んでいく手を動かし続けた。

正清さまがお戻りになられたのは、それから三日の後のことだった。

「お帰りなさいませ。ご無事で何より……」
お姿を見るなり涙ぐむ私を見て正清さまは苦笑された。

「何を大袈裟な。 合戦に出ていたわけでもあるまいに」
「だって、何も分からなくて、心配で……お怪我などはございませぬか」

「怪我などしようもないわ。要はこの三日、殿のご身辺にずっと詰めていただけなのだからな」
そう言いながら、正清さまは近づいてきて私の髪を撫でて下さった。

「そなたこそ留守中変わりはなかったか?」
「はい。何も」
私は頷いて涙を拭った。

「ならば良い。いささか疲れた。少し休む」

短く言って正清さまは居間へと入られた。
私もお後を追って室内に入る。

「湯殿の支度を致しましょうか?いつお帰りになられても良いように心づもりをしておりましたので、そう時間はかかりませぬが」
「うむ。有り難いが今は良い。後で貰おう」

「ではお食事の方も」
「後で良い。今はとりあえず眠りたい。 ここ数日、宿直所の板の間で時折横になる程度でまともに寝ておらぬゆえな」

「まあ」
 私はお背中に回って、お召し替えのお手伝いをしながら眉をひそめた。
「それではお体を壊してしまわれますわ」

「そんなにやわではないわ。いや……しかし、此度は少し、疲れたな」
珍しく本当にお疲れになられた様子で溜息を漏らされる殿を見て、私は急いで寝所の支度を整えた。

寝所に褥をのべて、枕を整え、まだ陽光明るい外の光がお休みの邪魔にならないよう、几帳を枕元に移動させながら、
「何かございましたらいつでもお呼び下さいませね。あ、お水か白湯でも持って参りましょうか。それとも御酒を少し上がられますか?」

と、言った途端に
「佳穂」
後ろから名を呼ばれた。

「はい?」
振り返ると、後ろからぐいっと手を引かれて正清さまの隣りにぺたんと腰を下ろしてしまった。

「何もいらぬ。ここに居よ」
「されど、お寝みになられるのにお邪魔では」
「邪魔ならはじめから言いはせぬ。膝を貸せ」

そう言って正清さまは私の膝を枕にすると、ごろりとお体を横たえられた。
温かな重みがぐっと膝に加わって、気恥ずかしいけれど、妙に落ち着くような不思議な気持ちになる。
ふうっと正清さまが吐息をつかれる。

それと同時に私の体からもふっと力が抜けていくような気がして。
その時初めて、殿のお留守中、無意識に自分がずっと肩に力を入れていたことに気がつく。

こんな風にしているよりも、しとねの上でのびのびとお体を伸ばしてお休みになられた方がお疲れもとれると思うのだけれど。

正清さまは、横になるとすぐに寝息を立て始めた。
よほど、お疲れになっておられたのだろう。

上におかけするふすまが手の届かない位置にあったので、私は膝を揺らさないように気をつけながら、自分の着ている袿を脱いで肩からおかけした。

いつもはわずかな物音にも反応してすぐに目を覚まされる正清さまが今はぐっすり眠っていた。
寝息に合わせて肩が上下している。

私は、そっとその肩を撫でた。

こんな時なのに、胸にじわじわと幸せな気持ちが広がっていく。

義父上のご無事もまだ確かめていなくて、そんな場合じゃないのに。
心の中で自分を叱ってみる。

けれど、膝から重みと一緒に伝わってくる温かな気持ちは消えなかった。

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