夢の雫~保元・平治異聞~

橘 ゆず

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第二章 上洛

虫の音

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七平太に送られて小妙こたえさんが帰ってしまうと、室内には私と正清さまの二人だけが残された。

正清さまは何も仰られない。
ただ、難しいお顔をして庭先の暗がりの方を睨むようにご覧になっておられる。

「あの、殿。申し訳ございませんでした」

私は深々と頭を下げた。
お返事はない。余程怒っておられるようだ。
しばらくの沈黙のあと。

「前にもそんなことがあったな。あれは婚礼の夜だったか」
「は、はいっ。その、重ね重ね申し訳ございませんっ!」

そう言えば、最初の出会いも私のとんでもない失態から始まったのだった。
あの時は正清さまも義父上も寛大にもお許し下さったけれど、今度という今度は愛想を尽かされてしまったかもしれない。

床に額をつけてひたすら小さくなっていると、頭上から溜息が降ってきた。

「もうよい。顔を上げよ」
恐る恐る顔を上げると、正清さまが呆れたような諦めたようなお顔でこちらをご覧になっておられた。

「こっちへ来い」
おずおずとお側に寄ると、そのままぐっと腕をつかまれて引き寄せられた。
勢いあまってお膝の上に倒れ込むような形になってしまって、慌てて体を起こそうとすると、

「悪かった」
正清さまが言われた。

呟くようなお声だったので最初は何を言われたのか分からずに、起き上がろうとした姿勢のまま「はい?」
と聞き返すと、

「悪かった! と申しておる!」
自棄やけになったような大声で怒鳴るようなお返事がかえってきた。

相変わらずお顔は庭の方に向けたままである。
何とお返事して良いのか分からずに固まっていると、
「なんだ、その顔は。俺が謝ったらそんなにおかしいか!」
やはり怒ったようなお声が飛んできた。

「いえ、そんなことは。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「何が、でございますか?」
「は?」
正清さまがこちらを振り返られる。

「いえ、ですから、何に謝って下さっておられるのかな、と思って……」
おずおずと言うと、正清さまのこめかみあたりがまたピクっとひきつるのが分かった。

あ、怒られる。
今日一日でようく分かった正清さまのお癖だ。
そう思った途端、案の定、

「おまえというやつは!」
大きなお声が降ってきた。

「おまえは鶏か! 小妙どのが来られるまで、さんざん泣いて申しておったことをもう忘れたのか! それともあれは全部嘘か!」

「い、いえいえ! 滅相もございません!」

私は慌てて首を振った。
そうしながら、必死にさっき自分が申し上げたことを思い出そうとしてみる。

「ええっと、殿が私の申し上げることを全然お聞き入れ下さらなくて、よその殿方のところへ出て行けと仰られたことにございますか?」

「……うむ。それもあるが…」
「では…えっと、上洛以来、塵ほども嬉しそうなご様子を見せて下さらず、よう参ったのひと言も仰って下さらず、私に、ずうっと悲しい思いをさせていらっしゃったことにございますか?」
「ああ、まあ、な」

「それとも、時折、何も仰らずに何日もお留守になさるので、私がその度ごとに槇野に『殿はどこぞに他に通われる女君がいらっしゃるのではありませぬか』『それゆえ、姫さまをいつまでも都に呼んで下さらなかったのではありませぬか』と、グチグチ言われて、いい加減うんざりしている事にございますか? それとも………」
「もう良い!さっきより増えておるではないか!」
正清さまに遮られて、私は慌てて平伏した。

「黙って聞いておれば人をひとでなしの亭主のように言いおって。そもそも、そなたがあんなとんでもない真似をしたのが悪いのではないか!」
「仰せの通りにございます。お許し下さりませ」
 床に額をつけてひたすら小さくなっていると、頭上から溜息が降ってきた。

「……もうよい。顔を上げよ」
恐る恐る顔を上げると、正清さまが呆れたような諦めたようなお顔でこちらをご覧になっておられた。

「こっちへ来い」
呼ばれておずおずとお側に寄る。
肩にお手がかけられたかと思うと、そのままぐいっと抱き寄せられた。
背中に手を回して強く抱きしめられて、頬にお召し物のひやりとした感触が触れる。

「時折、家を空けるのは殿のもとで宿直をつとめておるからだ。そんなに暇ではないわ」
「は、はい。申し訳ありません…」 
勢いに任せて慎みのないことを言ってしまったと頬が熱くなる。

「京へとなかなか呼んでやれなんだのも、仔細あってのことだ。……呼びとうなかったわけではない」
抱きしめられる力が少し強くなった。

「佳穂」
名前を呼ばれる。
そのお声は先ほどとはうって変わって囁くように低くて。
 
もうお怒りになっておられないのが分かってほっとするはずなのに、鼓動はどんどん早くなっていく。
「先ほどの話だが」

「はい。…えっと、外泊まりの理由のお話で……」
「それはもう良い」
言いかけた唇をいきなり塞がれた。
軽く触れられたかと思うと、俯こうとした顎を持ち上げられて深く口づけられる。

呼吸まで一緒に奪いとられてしまうような接吻のあとで。
「寂しかったか?」
呟くようなお声が降ってきた。

「え?」
見上げる額にもう一度、口づけを落として。
「離れている間、寂しかったのかと聞いておる」

囁くように正清さまが言われた。
視線を絡めとられたまま、私は頷く。

「はい。寂しゅうございました…」
「会いたかったのか?」

「はい。ずっと…お会いしとうございました。六条のお邸で久方ぶりにお目にかかれた時……息が止まるほど嬉しかった…」
言い終わらないうちにぐっと今までにない強さで抱きしめられて。
 
気がついたら視界がくるりと回っていた。
その場に押し倒されたのだと分かるまで、少しかかった。

七平太たちが出ていったっきりの妻戸は細く開いている。
次の間との境の襖を開け放たれたままだ。

慌てて身を起そうと床についた手首と捕まえられる。

その手首をぐいっと引き寄せられて、体勢が崩れたところを上からのしかかるように抱きしめられて。 あっという間に身動きが出来なくなる。

「あの、殿。……その、夕餉がまだ……」
ぐっとのしかかってくるお体を必死に手で押し返しながら我ながら場違いなことを言ってしまう。
正清さまは苦笑されて腕の中に閉じ込めるように私を抱きしめられる。

「やはりそなたはまだ子供だ。男というものがまるで分かっていない」
「あの、それはどういう…ひゃっ!」
ふいに耳に吐息が触れて、私は情けない悲鳴をあげてしまった。

「色気のない声を出す。そなたよりも、北の方さまのお邸の十の女童の方がまだ大人だ」
「そ、そんなこと……ちょ……っ、待って……」
耳たぶをなぞる熱さが、そのまま首筋から肩へと降りてきて。

それと同時に着物の合わせをかいくぐった指が素肌に触れてきて。
私は小さく身震いした。

その感触が決して不快ではないゆえに。
よけいにこの場でその波に押し流されてしまうのが怖かった。

「殿……殿。その、ここでは、その……あまりに端近というか……あの、今すぐ床の用意を致しますゆえ……」
懸命な私の抵抗はいともたやすく封じられた。

「そこが子供だと言うておるのだ。こんな薄暗がりで二人きりで、このように近々と身を寄せられて。 そんな風に目を潤ませて、あんなことを云われて、それで途中で引き返せる男がおるものか」

み、身を寄せられてって、寄せてこられたのは殿の方だったような気がするんですけれども…!
私の狼狽をよそに、次第に大胆さを増しながら素肌の上を滑ってゆく指の感触に目眩を覚えながら。

私はそれでも、半ば意地になって、身をよじってその熱から逃れようとした。
十歳の女の子よりも子供だなんて言われて、少し反抗するような気持ちもあった。

けれど、その刹那。
「よう参った」
熱っぽい声とともに、耳元に口づけられて、思わず体から力が抜けてしまった。

「……え?」
聞き返す私をもう一度くるりと仰向けにかえすと、その唇に柔らかく接吻を落として、正清さまが言われる。

「よう参った、佳穂。会いたかった」
見上げる瞳に、たちまち涙が滲んでくる。

「ずるい……。今、仰るなんて」
正清さまは小さく笑って私の髪を撫で、それからもう一度深く口づけられる。

「本当は会った時にすぐにこうしたかった」
目尻から零れた涙をすっと拭った指が、そのまま頬を撫でて、首筋にまで降りてくる。

「嘘ばっかり」
恥ずかしさを誤魔化すためにわざと拗ねたように言ってみる。
「お会いした途端に大きなお声でお怒りになられたくせに。私は京に上がって以来、殿に怒鳴られてばかりのような気が致します」

「誰がそうさせておるのだ」
首筋を滑り降りた指がそのまま、はだけた着物の胸元へと落ちていく。

「……やっ」
「あの時も父の悪ふざけに乗って、新しい内室だなどと。 いくら実の父が相手でも、自分の妻がよその男のものだと言って目の前に現れて面白い男がいよう筈がなかろう」

両肩に手を突っ張って押し止めようとした手を、軽々と、両の手首をまとめるようにして捕まえられてしまう。
「あ、あれは義父上が……ひゃっ」

もう片方のお手がいつの間にか乱れていた裾を割って脚に触れてきて、私は跳ね上がるようにして悲鳴を上げた。
「だから、もう少し色気のある声は出せぬのか、おまえは」
「だ、だって、お手がつめた…きゃっ!」

九月も下旬となった夜の空気はひんやりと冷たい。
その夜気をまとった正清さまのお手は、まるで石のように冷たくて。

でも、触れられた肌は、そのお手が滑っていくたびに驚くほど熱くなっていって。
私はたまらず脚をばたつかせた。

「あの、殿。本当にもうお許し下さい。放して…」
「何故だ?」
正清さまは構わず手の動きを止めないまま尋ねられた。

「冷たいし、そのくすぐったくて…んっ」
髪に頬を埋めるようにして耳に口づけられて思わず声が洩れる。

「そなたは誰の妻だ」
囁くように低いお声が耳に、吐息とともに流れ込んでくる。

背筋にゾクゾクッと、えもいわれぬ感覚が走り抜けていく。
私は乱れた呼吸で、喘ぐようにお答えした。

「殿でございます」
言い終るか終らないかのうちに、また唇が重なる。
さっきよりもよほど激しく。ずっと深く。
次第に頭の中が真っ白になってくる。
何も考えられなくなる。

「なれば、おとなしくしていよ。妻は夫のいうことに従うものぞ」

そのお声に何度も小さく頷きながら。
私は縋るような目で正清さまを見上げた。

「はい……仰せのとおりにいたしますゆえ、その、お願いですからもう少し奥の間へ……」

正清さまはじっと私の目を見下ろされて。ふっと小さく笑われた。
「何故だろうな。そなたがそうして言えば言うほど……言うことを聞いてやりたくなくなるのは」

「えっ」
聞き返す間もなく、首筋に唇が降ってくる。 同時に、腰のあたりを緩慢にさまよっていた左のお手の動きが、ふいに性急になった。

「んんっ、い、や……っ」
「拒めば拒むほど、もっとこうしてやりたくなる。ここでは嫌だと恥ずかしがって抗おうとする顔が見たくなる」

「……意地悪」
私は涙のたまった瞳で正清さまを睨んだ。

正清さまはそんな私の顔をじっとみて。
それから、ふぅっと溜め息を洩らした。

「男を止めたいと思うなら、そんな顔で見るな。…止まるものも止まらなくなる」
「そんな顔って…」
次第に口から零れる吐息のような声を堪えることが難しくなってきて。

私は自由にならない両手の指をぎゅっと握り締めて、唯一自由になる顔を弱々しく、いやいやと振った。

「まったく…。そなたのような女子は、こうして捕まえておかねば、どこに飛んでいって何をするか分からぬ」
押さえつけられた片手を放して、正清さまが両手で強く私を抱きしめられる。

その腕の力強さに私は、震えるような溜息をひとつついて。

夕餉のことも、薄く開いている妻戸のことも、いつの間にか頭の中から消えてしまって、私は藍色の直垂ひたたれのお胸に顔を埋めた。

御簾の外からは、鈴虫の声が降るように聴こえていた。
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