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第2章 死域への転移

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 小型の魔獣については問題なく対処できるとなれば、問題は中型・大型の魔獣である。
 初級魔術である火球や雷矢では一発で仕留められず、かつ好戦的な種類の敵が現れたらどうするか。
 答えは一つ、逃げの一手を打つしかない。
 二人が抱える問題として、戦力が後衛である魔術師のみという点がある。
 詠唱に時間のかかる中級以上の魔術を発動させるには、盾や囮となって時間を稼ぐ役割が必要不可欠だ。
 遠距離からの奇襲であればこの限りではないが、魔力操作器官である魔核を持つ魔獣は魔力感知能力があるため、これが成立しない。
 足の遅い相手なら別かもしれないが。
 ともかく、速射性のある魔術を基軸にした戦闘しかできない以上、タフな相手からは逃げるしかない、というのが現状なのである。
 そして、二人はまさにその窮地に陥っていた。
 巨大なサイの魔獣をフラムが発見した時、同時に相手も二人を認識する。
 一瞬の硬直を挟み、お互いは同じ方向に走り出した。
 逃走と追跡である。

「ファイアボール! ……駄目だ、効いてない!」

「フラム、あの岩に逃げるぞ!」

 場所は密林である。
 とはいえそこまで木々の密集率は高くなく、全力疾走とは言えないが犀の走行を大いに妨げることもない。
 体高はフラムと同程度、1.5mほどだが、体重は十倍以上あるだろう。
 分厚く太い一本の角は鋭さこそないものの、相手の体重と速度が加われば凄まじい威力の凶器になる。
 事実、凄まじい突進力で木々をへし折りながら二人を追ってきている。
 二人が追い付かれていないのは、鈍重かつ左右への転回が苦手であるためだ。
 ジグザグに動く二人を捉え切れず、一定の距離を保てている。
 やがて、遠くに見えていた大きな岩に辿り着いた二人は、3mほどの高さを必死によじ登る。
 四足歩行の犀では登ることなど不可能だろう。

「た、助かった」

「だが、下から見ているぞ」

 犀は岩の周りをぐるぐると回り、しかし登れそうな箇所もないと理解したようだ。
 じっと二人を見上げ、荒い息を吐いている。
 改めて犀を観察すれば、体は岩のように頑丈そうで、生半可な威力の魔術では通りそうもない。
 先程フラムが放ったファイアボールも角の表面を軽く焦がしただけである。

「リリムの雷魔術はどうかな?」

「う~む。あの体皮では中級魔術以上でないと無意味だろうな」

 地の利がある現状であれば盾役など不要。
 そう考えてリリムが魔核に魔力を集中させた途端、犀は回れ右して走り出した。
 魔獣は魔力に敏感なので、大きな魔力の集まりに怯えたのだろう。
 そんなリリムの考えは、距離をとった遠方から全速力で迫り来る犀の姿を見て吹き飛んだ。
 何を、と疑問に思ったのは一瞬。
 自分たちが乗っている岩に体当たりを仕掛けようとしていることは明らかだった。

「リリム、水壁!」

「水流よ・並べ・上がれ・押し流せ――――スプラッシュ・ウォール!」

 焦燥から普段よりも発動までに時間はかかったが、岩場と犀の間に水柱が立ちはだかる。
 ファイアランスをも防ぐことができる勢いと質量を誇るが、犀の突進がそれ以下だとは思えなかった。
 犀もまったく怯むことなく水壁に角を差し出す。
 爆砕。
 多少の影響はあったものの、水壁は霧散して効力を失った。
 減速してはいるが、二人の脳裏には自分たちの足場が同じ末路を辿るのがありありと浮かんだ。
 まさか砕け散りはしないだろうが、相当の衝撃と滑落はあり得る。

「反対側に降りよう!」

 退避を選んだ二人は犀に背を向けて飛び降り、地面を転がって受け身を取る。
 背中が痛んだが、気にしている場合ではない。
 すぐさま立ち上がって岩から離れれば、轟音と振動が地面を通して足まで響く。
 直後、二人が経っていた岩は波打つように変形して一部が崩れ落ちた。

「リリム、奴が濡れている今なら雷の効果が高い! 中級魔術の準備を!」

「フラムは!?」

「時間を稼ぐ!」

 引き留めるリリムの声を無視してフラムは駆け出し、再び岩を駆け上がった。
 変形したとは言え、大きな岩の塊であるため原型は留めている。
 土煙が上がる眼下には、岩に突き刺さった角を抜こうともがく犀が暴れていた。
 フラムが姿を現せば、犀は再び突進してくるだろう。
 しかし、距離を取ってからの突進は時間稼ぎを目的にしているフラムからも好都合。
 むしろそれを誘うべく、がら空きの背中に火球を叩き込んだ。
 相変わらず効果は薄いが、犀は怒りの嘶きを上げて火球を避けるように距離をとる。

「天に漂う雷精の抱擁・貫く閃光・轟く雷鳴・甘美なる痺れは死への誘い・汝の瞬きは終ぞ光との再会を果たさず・紫色が末期の記憶となる――」

 後ろを見れば、紫色の魔力光を胸から放つリリムが歌っていた。
 中級ともなれば詠唱時間・消費魔力・発動難易度は初級に比べて跳ね上がり、才能のない者は使うことすらできない。
 しかしリリムは独自改良により短文化した詠唱で効率的に魔術を構成し、すでに発動待機状態にまで仕上げていた。
 フラムは視線を前に戻す。
 犀はある程度離れたところから砲弾なような突進を再び仕掛けてきていた。

「ファイボール!」

 犀に聞かないのは重々承知である。
 フラムは犀の進路上、地面めがけて火球を撃った。
 大穴を空けるようなことはできないが、多少の段差でも短足であり高速で駆けている犀を阻害するには充分だった。
 咄嗟の思い付きではあったが、犀は足を取られて勢いよく横滑りしながら転倒する。
 予想以上の成果に内心でガッツポーズを取りつつ、フラムは声を張り上げた。

「リリム!」

「――サンダー・スピリット・ハグ」

 側面に回り込んでいたリリムの短杖から、紫色の塊が滑るように飛び出した。
 朧げな輪郭は足のない人型であり、髪の長い女性のように見えなくもない。
 そうだとしたら、その動きは髪を振り乱しながら狂ったように抱擁を与える幽鬼そのものだろう。
 横倒しになっていた犀に取り付き、素早い動きで全身を包んだ直後、稲妻が天に立ち昇った。
 術者であるリリムには影響ないが、フラムはあまりの眩さに視線を切る。
 やがて紫光が収まったのを感じて犀のいた場所を見れば、黒焦げになって口から煙を上げる感電死体があるだけだった。

「……濡れているとか関係なかったね」

「電導率が上がったのは間違いないだろう。念のために強い魔術を選択したのが原因だな」

 彼女が使ったのは覚えている中級魔術の中でも最強の魔術である。
 初見の敵に対して最強をぶつけるのは間違いなく正解ではあるが、思った以上の威力に相手が哀れに思えるほどだった。
 即死したのは救いかもしれない。

「リリム、それは何回使えるの?」

「一日に四回も使えば疲労困憊になるだろう。ちなみに上級なら種類によるが一、二回が限界だ。二回使えば昏倒する。というか実際にした」

「やっぱり戦闘は避けるべきだね。もし上級魔術を使うようなことがあったら、その日は隠れて過ごさないといけなくなる」

「そうだな。中型以上の魔獣と連続で遭遇しないことを祈るばかり、だ……」

 急に言葉を切ったリリムは、魚のように口をパクパクと動かしていた。
 視線はフラムの背後に釘付けになっており、もうそれだけで何があったかは想像できる。
 想像できるが、確認しなければ始まらない。
 フラムは首だけをゆっくりと動かし、自分の背後にある何かを視認した。
 そして、目が合った。
 巨大な瞳は、それだけでフラムの頭部ほどもある。
 全長3mはある巨大な猿が、二人を見つめていた。
 筋骨隆々の体は全身が黒い体毛で覆われており、口から覗く鋭い牙は明らかに肉食を前提にしている。
 そして何より、今も視線がかち合っている瞳はたった一つしかなく、化物と呼ぶに相応しい魔獣だった。
 一つ目の巨人。
 著書『死域への漂流』にあった一節をフラムは思い出し、こいつのことだと確信した。
 著者は遠目に確認しただけの化物と、自分たちは対峙してしまっている。
 硬直していたフラムが逃走という単語をやっと思い出した時、巨人はすでに一歩足を踏み出していた。

「があああああ!」

 巨人はけたたましい咆哮を上げた。
 鼓膜を破かんばかりに響き渡る叫びは、フラム達に向けられたものではなかった。
 ひとつしかない瞳を空へと向け、怒りの形相を浮かべる巨人が睨みつけたのは――竜だ。
 緑色の鱗は刃物のような光沢を持っており、羽ばたくことで生まれる羽音と空圧が二人の全身を打つ。
 それだけで体勢を崩すほどの暴風は、それを生み出した存在の強大さを嫌でも感じさせる。
 後になってフラムはそれが翼竜と呼ばれる種類の魔獣だと思い出すことになるが、今はそんなことに頭が回る訳がない。
 化物が増えた、それだけで思考はパンク状態だった。
 もはや本能的に逃げ出した二人を、巨人と翼竜は見向きもしない。
 背中を見せて無防備に走るその恰好は、仮に追われたとしたら十歩ともたずに殺されただろう。
 途中、転んだリリムが見たのは、化物同士が絡み合う凄まじい闘争。
 震え上がり、フラムに手を引かれてその場から離れたのだった。

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