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第2章 死域への転移

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 塩分や鉄分など、植物からは摂り難い栄養素は多い。
 それらの摂取のために仕方なく嫌々に獣臭いスープを飲んでいたリリムは、ふとあることを思いついた。

「フラム、過去にウェストピア大陸に調査団が送られたことがあったな」

「うん。百年くらい前だと習ったかな」

「その調査団は全滅したと聞いたが、彼らの装備品がどこかに残っていないだろうか」

「実は僕も同じことを考えたけど、問題が多いんだ」

 この手の冒険譚に疎いリリムでは知らなかったのだろう。
 フラムはそう考え、転がっていた木の棒でウェストピア大陸の絵を地面に描く。
 縦に長い長方形、その上半分が自分たちのいる場所であり、現在地は北西あたりのはずである。
 フラムは下半分、南西の辺りに丸を描いた。

「調査団はジェサウス大陸から出発して、ここに上陸したらしい。あまり詳細は開示されていないけどね」

「ここからは遠いか」

「六千kmはあると思う。それに行けたとしても国家連合の調査団が壊滅した場所だからね、ここらの魔獣は今のところ僕たちでもどうにかなっているし、大陸南部の方が本当の死域なんじゃないかな」

「なるほど。『死域への漂流』で生還したという男も北部に漂着したというしな。その可能性は高そうだ」

「うん。だから僕も話さなかったんだ」

「よくわかった。いやなに、まともな食器が恋しくなっただけだから気にしないでくれたまえ」

 リリムは笑いながら串代わりの木の枝を振ってみせた。
 箸の文化がないマギ王国民にとって、かなり不便である。
 他愛ない話も交えた休憩を終わらせ、二人は再び北に向かって歩き出した。
 時折見かける魔獣も凶暴な種類は少なく、戦闘を回避できることのほうが多い。
 首が長く、樹上の葉を食べている魔獣。
 足が六本ある胴長で温厚な猫型魔獣。
 最大の魔獣は長さ10m以上ある芋虫型だったが、こちらには興味もないようだった。
 もちろん戦闘になることもあるが、基本的に遠間合いから一方的に魔術を放つことで勝利できることがほとんどだった。
 例え接近を許しても、フラムの速射とリリムの多様な魔術で対応できないケースはなく、すこぶる順調な歩みだと言えるだろう。
 魔術切れについての懸念も無いに等しい。
 絶大な魔力量を誇り低級魔術しか使わないフラムは言わずもがな、リリムも平均より魔力量は豊富であり、戦闘頻度の低さから消費より回復速度が勝るため、大魔術を連続行使でもしない限りは心配ないだろう。
 こうして、初日は順調に過ぎていくのだった。

「もうすぐ日没だね」

「ああ。適当な岩陰があったら野営の準備をしよう」

 問題は寝床だった。
 旅人やハンターが魔獣の生息地帯で野営を行う場合、魔獣が嫌う物質を周囲に設置したり、命属性の気配を希薄にする魔術を使ったり、土属性の魔術で簡易防壁を作ったりする。
 しかしどの手段もない二人は岩や木を背にして襲われる方向を固定し、そこを見張るという方法しかなかった。
 見張りの負担が大きく、睡眠時間も短くなる。
 代替策がない以上、慣れるしかない。
 手ごろな岩場を発見した二人はさっそく準備を始める。
 と言っても明るいうちに食事を済ませ、寝床に敷く葉っぱを木から毟り取るだけだ。
 眠る場所の石を取り除き、これでもかと葉を重ねて敷く。
 寝床はこれで完成。
 リリムのローブは日中は背負い袋、夜は布団になる万能ツールであり、フラムは彼女がローブ好きであることに感謝しかなかった。
 トイレ事情についてはお察しである。
 リリムの水魔法があって良かった、とだけ言っておこう。

「もう日が落ちるな。じゃあ時間になったら起こしてくれ」

「任せて」

 大きな岩に寄り添うようにして丸くなり、フラムはその前に胡坐をかいて座る。
 今日の成果を紙にまとめたり、地図上に簡単な地形図を書き込んだりする。
 紙は限りがあるので本当に大事なことしか書けないが。
 後はずっと瞑想をしていた。
 自身の魔核に魔力を集中させ、全身にゆっくりと循環させる。
 魔力操作の基本修行であり、全ての魔術師が行うものだ。
 ファイアボールしか使うことのできないフラムにとって、修行とは瞑想だった。
 他の魔術師であれば、新しい魔術を会得したり、既存の魔術を改良したり、様々なことに時間を取られるために瞑想は怠りがちである。
 しかしフラムはひたすらに瞑想を行う他なかった。
 莫大な魔力を瞬時に操る、微量の魔力を複雑に動かす、とにかく多様にとにかく繊細に、魔力を自在に操っていく。
 生まれつき天才的だった魔力操作能力は、もはや常人ではありえない精度にまで昇華されていた。
 もっとも、たったひとつの魔術しかできないフラムがそれを発揮する場面などある訳もない。
 フラムはそれでも瞑想を続ける。
 彼にはそれしかないのだから。

 数日後。
 二人はさらに足を進めていた。
 魔獣も植生も代わり映えしないが、遠くに見える剣山は確実に離れており、前に進んでいることが分かる。
 予定通りであれば明日にでも海岸線に到着するかもしれない。
 もし進路が間違っていたらという不安はあるものの、未開の地を歩くことに慣れてきたフラムの心に大きな不満はなかった。
 しかし、リリムの心境は大きく異なる。
 彼女には大きな不満があった。
 遺跡を出発してから日数を経て、少しずつ堆積していた不満が限界点を迎えつつあった。
 歩いてきた道は決して平坦ではなく、汗を流して登ったり下ったりする。
 それほど草木が密集していないにしろ、湿度高めな環境。
 つまるところ、彼女の想いはひとつ。
 お風呂に入りたい。
 リリムは自分の体に蓄積されているであろう老廃物をどうにかしたいと、心底願っていた。
 うら若き乙女であり、好意を寄せている異性の傍にいるというのに、自分は何日も水浴びをしていない。
 手足や顔は洗っているが、タオルすらないので体を濡れタオルで拭くなどの応急処置もしていなかった。
 魔術研究一色で浮いた話もなかった彼女ではあるが、流石にその程度は気にする。
 方法がない訳でもない。
 自分の水魔術とフラムの火魔術でお湯を作れば、どうということはないはずだ。
 しかし、自分の我儘で頼んでも良いものだろうか。
 それに実行するとしたら見張りを立てる必要がある訳で、裸の自分の傍にフラムが立つことになる。
 紳士的な彼はじろじろ見たりしないだろうが、それであっても少し恥ずかしい。
 まあ少しぐらいなら見られても良いけれど。
 お望みなら一緒に水浴びすることだって吝かではないけど。
 などと最近は欲望への歯止めが利かなくなりつつあるものの、一線を越えるようなことはなかった。
 しかし、それ以前に自分の貧相な体を見たところで面白くもないか、と結論付ける。
 すっと視線を落とせば、自分の胸はシャツを押し上げて主張はしている。
 しかし街行く男どもから露骨な視線を浴びたことはないし、自分以外へのそういった視線を追いかければ、なるほど確かに大きなモノをお持ちの女性であった。
 リリムはそう考えたが、彼女がそういった視線を浴びないのは普段からローブを身に纏ってとんがり帽子を目深に被った怪しい風貌だからである。
 奇異の視線を浴びることはしょっちゅうだった。
 ちなみに彼女の胸は言うほど小さくもなく、平均的なサイズだと言えるだろう。
 リリムの思考が脱線しがちなのはいつものことであり、周囲への警戒を疎かにしている訳でもないので、特に問題はなかった。
 問題があるとしたら、フラムも同じ考えをしていたころである。
 そういえば転移してからずっとお風呂に入ってないなあ、と。
 不衛生は病気の原因にもなるし、衣服の洗濯も必要である。
 品行方正なフラムは思考が脱線することなく、必要論から結論に達した。
 彼はまだ十一歳であり、自分の魔術について悩みがちだったせいか恋をしたことがない。
 性欲とは無縁のピュアな心を維持していたが、それ故に自分が提案することでリリムが過剰な反応をすることなど、考えもしなかったのである。

「リリム、お風呂に入らない?」

「一緒に!!?」

「……ええ?」

 暴走はあったものの、フラムの理論的な説明により事なきを得た二人は、適当な岩場で水浴びと洗濯を行うことになった。
 水魔術師にとって洗濯は得意技術であり、洗濯魔術なるものも存在している。
 水球に水流を持たせ、その中に服を放り込むだけで良い。
 洗剤があるとかなり綺麗になるが、なくても問題はない。
 問題は洗濯中に着る服がないことである。

「まずローブを洗って、フラムが乾燥させる。その後、一人ずつ服を洗濯・乾燥して、その間はローブを着る。これでどうだ」

「了解。お風呂は少し恥ずかしいから一緒は、ちょっと」

「それは忘れてくれ……」

 結局、草陰の中で洗体魔術を発動させ、もう一人は背を向けて見張るということになった。
 洗体魔術は洗濯魔術の人間版であり、ものぐさな魔術師が発明したものらしい。
 これをフラムのファイアボールで適温に温めれば、快適なのは明らかであった。
 その後、二人は定期的な洗濯と水浴びをすることになったが、二人が一緒に入ることはなかった。

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