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第2章 死域への転移
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今度こそ、リリムは声を上げて泣いた――ということはなかった。
ただただ放心し、その場で腰砕けになっただけである。
す、と一筋の涙を流すだけにとどまった。
リリムは思う。
さっきあんなに泣いたのに、まだ涙が残っていたのだなと。
フラムはがくりと両膝をつき、無言で父親のことを考えていた。
突然に転移した自分たちは恐らく行方不明か死亡者扱いになっているだろう。
そして、非常に高い確率で自分は死ぬ。
男手ひとつで自分を育ててくれたフィアンマへの深い感謝と、同じくらいの申し訳なさでフラムも泣いた。
きっと、フィアンマは死体がない自分の生存を信じてずっと想い続ける。
そう確信できるくらいに父親の愛情を受けていた。
謝りながら泣いた。
「……そうだ」
少しの時間が流れ、沈黙が支配していた場を破ったのは小さな呟きだった。
声を出したのはフラムである。
膝を抱えて小さくなっていたリリムはゆっくりとではあるものの、顔を上げた。
彼の声には希望の色が含まれていたからだ。
「この大陸から脱出して元の国に帰るのは難しいです。でも、来た時と同じように転移で帰ればどうでしょうか?」
「……理屈は分かるが、不可能に近い。全魔石の魔力貯蔵は空であり、仮に最充填するにしてもファイアボール10億発分の魔力が必要だ。いかに君の魔力が豊富でも、何十年掛かると思っているんだ」
「最充填は不可能に近いですし、仮にできたとしても元の場所に狙って飛ぶ手段も不明です。ただ、さっきの地図によれば、この大陸にはもう一カ所何かがあるはず」
遺跡内部にあった金属板に記されていた世界地図、その中のウェストピア大陸には二つの点が打たれていた。
これが予想通り遺跡の位置であるとして、そこに転移したのは偶然ではないとフラムは考えていた。
あの地図は転移によって移動できる場所を記している、そう予想したのである。
転移した先が偶然にも遺跡だった、というのは考えにくい。
遺跡に転移するよう設定されていたと考える方が自然だからだ。
その仮説をリリムに伝えれば、死んでいた瞳に光が戻る。
魔獣が跋扈する大陸から脱出して海を渡るよりは実現性のある話ではある。
「君の仮説を採用するとして問題がある。この大陸に二カ所あると思われる遺跡、さて我々はどちらにいるのだろうか」
「もう一度地図を見てみましょう」
齧りつくようにして地図を眺める二人。
ウェストピア大陸は大雑把に言って縦横比が二倍の長方形である。
正方形が二つくっついている、と言い換えてもよい。
上下に伸びた形であり、その上半分の東西に点は打たれていた。
「西か東か。判断材料がないですね」
「フラム君はウェストピア大陸についてどの程度知識がある?」
「僕が昔読んだもので一番詳しく書かれていたのは、『死域への漂流』ですが」
「ああ、名前だけはワタシも知っている。しかし、あれは空想本の類ではないのか」
「何とも言えませんね。初版は三百年前に出ていると記録されていますが、それも本当かどうか。内容はウェストピアに漂着した冒険家が救出されるまでの記録ですが、植生や魔獣の生態が妙にリアルで、真偽はともかく面白い本ではあります」
ちなみにフラムが『死域への漂流』を読んだのは、彼が七歳の頃である。
もとはフィアンマの持ち物であり、彼の本をすべて読んでいるフラムが特に気に入った著書である。
要約すると、とある冒険家の船が嵐で難破し、漂着したウェストピアから筏で脱出した後に海上で救助されるまでの一ヶ月間を綴った日記方式の物語である。
見たことのない動植物の記録、凶悪な魔獣からの逃避、奇怪な食事事情とリアルな感想。
死域における過酷なサバイバル生活を追体験できるという内容は、臨場感溢れる著者の語りもあって超人気作品となっている。
それが真実なのか創作なのかは読者の間で長年議論されているが、もちろん結論は出ていない。
「過去に国家連合調査団が全滅して以降、特別な許可がない限りは上陸が禁止されているため、まともな記録は残っていません。それもあの本が売れている理由の一つでしょうね」
「君がその本の愛読家であることは充分に理解したが、現状を打破することには繋がるのかね?」
当然の疑問をリリスが口に出せば、フラムは静かに頷いた。
本の内容を思い出すように宙を睨みつつ、記憶を吟味して言葉にしていく。
余談ではあるが、リリムは同世代の女性の中でも小柄であり、フラムと比較しても僅かに背が高い程度である。
従って斜め上を見上げるフラムが上目遣いになる、という構図にはならなかった。
「あの本が真実だとしたら、冒険家はウェストピアの北西に漂流したそうです。そして、西海岸から内陸側を見た際の表現として、こんな文章がありました。『果ての見えない海を背に内陸側を見れば、背の低い木々の向こうに剣の如く尖った山が見えた。無数の刀剣が地中から飛び出したかのようなその姿は、周囲の山々と比較しても異質で不気味であった。』」
「……話の腰を折って申し訳ないが、君は読んだ本をすべて暗記しているのかね」
「この本は何十回と読みましたから。とにかく、もし僕たちの現在地がこの地図で言う西側の点だとしたら、近くに剣のような山があるはず。東側にいるなら、距離からして見えないか、あるいは非常に小さくしか見えないはずです。少し高い場所に上ってみませんか、というのが僕の提案です」
「分かった。周囲の状況を確認しよう。……よく考えればどれもこれも予想に過ぎないし、もしかしたらワタシ達は国から少し離れた小さな森で泣いていただけの間抜け、というオチもあり得る」
「是非そうあってほしいですね」
それは場を明るくしようという精一杯のジョークだったが、もちろん強い願望でもある。
転移に時間を要する、思ったよりも長く気絶していた、などであれば短距離転移もありえる。
しかし、時差という根拠以外に彼らが肌で感じている空気は、明らかに異国であると確信するには充分な理由だった。
二人は建物の外に出ると、崩れかけた柱や壁をよじ登って遺跡の上部を目指した。
高さは十m程ではあるが、周囲の木々は背が低いため遠くまで見渡せるはずである。
『死域への漂流』に書いてある通りの植生であることをフラムは気付いていたが、口には出さなかった。
「ここを登れば西側が見えるはずだ」
「ええ。しかしリリスさん、意外と運動神経良いですね」
「失礼な奴だな君は。……よっ、と!」
フラムとリリスは最後の段差に手を掛け、遺跡の上部によじ登った。
低木の樹海が眼下に広がっており、広く遠く見渡すことができる。
所々に大きな岩山が点在し、芝生に転がった石をそのまま巨大化させたかのような光景だった。
そんな景色の一点に異物がある。
無数の刀剣が地中から飛び出したかのようなその姿は、周囲の山々と比較しても異質で不気味であった。
その中でも一際高い一本は天を衝く槍のようで、自然物とは思えない。
フラムが散々想像した空想であるはずの世界が、そこにはあった。
実在してしまった。
「…………やはり、ここはウェストピア大陸なのだな」
「……はい」
遠くに巨大な蝶の化物が飛んでいる。
それを上空から急襲した更に巨大な鳥が、地上から飛び出した四足獣にまとめて食い千切られる。
何処からか狼の遠吠えが聞こえたかと思えば、地の底から響いた唸り声が耳に届く。
魔の獣声が轟く魔境、死域。
伝聞に勝る悪辣な地獄が、目の前にある。
これらの雄叫びを二人は目覚めてからずっと遠くに聞いていた。
だから、二人は物証なくウェストピア大陸にいることを確信していたのだった。
だから、涙が止まらなかった。
そのことに言及しようにもすぐに泣きだしたリリムに対して言えるはずもなく、フラムもずっと黙っていた。
先ほどから聞こえる獣の叫びは大丈夫なのか。
地鳴りのような音の正体は何なのか。
「リリムさん、本の通りであればあの剣山の向こうに西海岸があるはずです。ただ、あの剣山の周囲は竜種の住処であるとも書いてありました」
「……そうか」
「それに海岸から脱出するにしても、筏を作って食料を集めて、海図も羅針盤もないままに海に出ないといけません」
「…………」
「当初の予定通り、東側にある遺跡を目指しましょう」
リリムは微動だにしなかった。
遠くを見つめて、風にたなびくローブを押さえようともせず、黙ってしまった。
その時、一際強い風が吹いて彼女のとんがり帽子が舞い上がった。
遅れて彼女の細い金髪も風によって流れる。
「あ」
咄嗟に掴み取ったフラムと手を伸ばしたリリスの手が重なり、視線がぶつかり合う。
お互い、震えていた。
お互いが震えていることに気づき、不安が伝播する。
それでもフランは自分を律して泣かなかったし、弱音も吐かず無言でリリムの手を引いて建物を降りようとして。
なぜかリリムは腹が立った、
怒りに任せて手に力を込め、フラムの体を引いて顔を突き合わせる。
「君は冷静で、成熟しているな。まるでワタシのほうが年下じゃないかと錯覚してしまうよ」
「そんなこと」
「あるさ! ワタシは怖い。泣きたいし、叫びたいし、もう沢山だ! なぜワタシがこんな目にあっているんだ、あんな魔石なんて!」
癇癪は長く続かなかった。
リリムは聡明で、優秀で、客観性があって公平だ。
自分の理不尽な叫びを理解し、思い至った。
本当に巻き込まれたのは誰なのかを。
「あ」
あんな魔石と自分は言ったが、それを持ってきたのは誰だ。
分析しようと言い出したのは誰だ。
報告しようというフラムに対し、もっと魔術を撃ちこむよう指示したのは誰だ。
全部自分だ。
「ち、違う。ワタシそんなつもりじゃ」
目の前が真っ暗になり、激昂していた気分が急激に落ちた。
一番悪い自分が、被害者である年下のフラムに当たっている。
善悪があまりにはっきりとした状況に困惑し、気が動転してしまったリリムに対して。
フラムは困ったような笑みを浮かべ、そっとリリムの手を握り返した。
微笑みながら、ゆっくりと語りかける。
「……リリムさんがそんなつもりじゃなかったのは知っています。あれは事故だったし、今一人きりでないことに感謝するくらいですよ、僕は」
リリム・フィアノームは人生で最も惨めな気分になった。
自分が天寿を全うできたとして、それどころか不老不死になって何百年も生きたとして、それでも今この瞬間よりも自分が情けなくなることはないだろう。
そう確信できるほどの自己嫌悪と、反比例するように目の前の少年に対して尊敬の念を抱いた。
十一歳の子供が、と感心するではなく。
最低な自分と比較して、でもなく。
ひとりの人間として、男性として、フラン・アブレイズを尊敬したのだ。
簡単に言えば、最高の殺し文句が心に的中した。
リリムの初恋相手は、五歳下の少年だった。
ただただ放心し、その場で腰砕けになっただけである。
す、と一筋の涙を流すだけにとどまった。
リリムは思う。
さっきあんなに泣いたのに、まだ涙が残っていたのだなと。
フラムはがくりと両膝をつき、無言で父親のことを考えていた。
突然に転移した自分たちは恐らく行方不明か死亡者扱いになっているだろう。
そして、非常に高い確率で自分は死ぬ。
男手ひとつで自分を育ててくれたフィアンマへの深い感謝と、同じくらいの申し訳なさでフラムも泣いた。
きっと、フィアンマは死体がない自分の生存を信じてずっと想い続ける。
そう確信できるくらいに父親の愛情を受けていた。
謝りながら泣いた。
「……そうだ」
少しの時間が流れ、沈黙が支配していた場を破ったのは小さな呟きだった。
声を出したのはフラムである。
膝を抱えて小さくなっていたリリムはゆっくりとではあるものの、顔を上げた。
彼の声には希望の色が含まれていたからだ。
「この大陸から脱出して元の国に帰るのは難しいです。でも、来た時と同じように転移で帰ればどうでしょうか?」
「……理屈は分かるが、不可能に近い。全魔石の魔力貯蔵は空であり、仮に最充填するにしてもファイアボール10億発分の魔力が必要だ。いかに君の魔力が豊富でも、何十年掛かると思っているんだ」
「最充填は不可能に近いですし、仮にできたとしても元の場所に狙って飛ぶ手段も不明です。ただ、さっきの地図によれば、この大陸にはもう一カ所何かがあるはず」
遺跡内部にあった金属板に記されていた世界地図、その中のウェストピア大陸には二つの点が打たれていた。
これが予想通り遺跡の位置であるとして、そこに転移したのは偶然ではないとフラムは考えていた。
あの地図は転移によって移動できる場所を記している、そう予想したのである。
転移した先が偶然にも遺跡だった、というのは考えにくい。
遺跡に転移するよう設定されていたと考える方が自然だからだ。
その仮説をリリムに伝えれば、死んでいた瞳に光が戻る。
魔獣が跋扈する大陸から脱出して海を渡るよりは実現性のある話ではある。
「君の仮説を採用するとして問題がある。この大陸に二カ所あると思われる遺跡、さて我々はどちらにいるのだろうか」
「もう一度地図を見てみましょう」
齧りつくようにして地図を眺める二人。
ウェストピア大陸は大雑把に言って縦横比が二倍の長方形である。
正方形が二つくっついている、と言い換えてもよい。
上下に伸びた形であり、その上半分の東西に点は打たれていた。
「西か東か。判断材料がないですね」
「フラム君はウェストピア大陸についてどの程度知識がある?」
「僕が昔読んだもので一番詳しく書かれていたのは、『死域への漂流』ですが」
「ああ、名前だけはワタシも知っている。しかし、あれは空想本の類ではないのか」
「何とも言えませんね。初版は三百年前に出ていると記録されていますが、それも本当かどうか。内容はウェストピアに漂着した冒険家が救出されるまでの記録ですが、植生や魔獣の生態が妙にリアルで、真偽はともかく面白い本ではあります」
ちなみにフラムが『死域への漂流』を読んだのは、彼が七歳の頃である。
もとはフィアンマの持ち物であり、彼の本をすべて読んでいるフラムが特に気に入った著書である。
要約すると、とある冒険家の船が嵐で難破し、漂着したウェストピアから筏で脱出した後に海上で救助されるまでの一ヶ月間を綴った日記方式の物語である。
見たことのない動植物の記録、凶悪な魔獣からの逃避、奇怪な食事事情とリアルな感想。
死域における過酷なサバイバル生活を追体験できるという内容は、臨場感溢れる著者の語りもあって超人気作品となっている。
それが真実なのか創作なのかは読者の間で長年議論されているが、もちろん結論は出ていない。
「過去に国家連合調査団が全滅して以降、特別な許可がない限りは上陸が禁止されているため、まともな記録は残っていません。それもあの本が売れている理由の一つでしょうね」
「君がその本の愛読家であることは充分に理解したが、現状を打破することには繋がるのかね?」
当然の疑問をリリスが口に出せば、フラムは静かに頷いた。
本の内容を思い出すように宙を睨みつつ、記憶を吟味して言葉にしていく。
余談ではあるが、リリムは同世代の女性の中でも小柄であり、フラムと比較しても僅かに背が高い程度である。
従って斜め上を見上げるフラムが上目遣いになる、という構図にはならなかった。
「あの本が真実だとしたら、冒険家はウェストピアの北西に漂流したそうです。そして、西海岸から内陸側を見た際の表現として、こんな文章がありました。『果ての見えない海を背に内陸側を見れば、背の低い木々の向こうに剣の如く尖った山が見えた。無数の刀剣が地中から飛び出したかのようなその姿は、周囲の山々と比較しても異質で不気味であった。』」
「……話の腰を折って申し訳ないが、君は読んだ本をすべて暗記しているのかね」
「この本は何十回と読みましたから。とにかく、もし僕たちの現在地がこの地図で言う西側の点だとしたら、近くに剣のような山があるはず。東側にいるなら、距離からして見えないか、あるいは非常に小さくしか見えないはずです。少し高い場所に上ってみませんか、というのが僕の提案です」
「分かった。周囲の状況を確認しよう。……よく考えればどれもこれも予想に過ぎないし、もしかしたらワタシ達は国から少し離れた小さな森で泣いていただけの間抜け、というオチもあり得る」
「是非そうあってほしいですね」
それは場を明るくしようという精一杯のジョークだったが、もちろん強い願望でもある。
転移に時間を要する、思ったよりも長く気絶していた、などであれば短距離転移もありえる。
しかし、時差という根拠以外に彼らが肌で感じている空気は、明らかに異国であると確信するには充分な理由だった。
二人は建物の外に出ると、崩れかけた柱や壁をよじ登って遺跡の上部を目指した。
高さは十m程ではあるが、周囲の木々は背が低いため遠くまで見渡せるはずである。
『死域への漂流』に書いてある通りの植生であることをフラムは気付いていたが、口には出さなかった。
「ここを登れば西側が見えるはずだ」
「ええ。しかしリリスさん、意外と運動神経良いですね」
「失礼な奴だな君は。……よっ、と!」
フラムとリリスは最後の段差に手を掛け、遺跡の上部によじ登った。
低木の樹海が眼下に広がっており、広く遠く見渡すことができる。
所々に大きな岩山が点在し、芝生に転がった石をそのまま巨大化させたかのような光景だった。
そんな景色の一点に異物がある。
無数の刀剣が地中から飛び出したかのようなその姿は、周囲の山々と比較しても異質で不気味であった。
その中でも一際高い一本は天を衝く槍のようで、自然物とは思えない。
フラムが散々想像した空想であるはずの世界が、そこにはあった。
実在してしまった。
「…………やはり、ここはウェストピア大陸なのだな」
「……はい」
遠くに巨大な蝶の化物が飛んでいる。
それを上空から急襲した更に巨大な鳥が、地上から飛び出した四足獣にまとめて食い千切られる。
何処からか狼の遠吠えが聞こえたかと思えば、地の底から響いた唸り声が耳に届く。
魔の獣声が轟く魔境、死域。
伝聞に勝る悪辣な地獄が、目の前にある。
これらの雄叫びを二人は目覚めてからずっと遠くに聞いていた。
だから、二人は物証なくウェストピア大陸にいることを確信していたのだった。
だから、涙が止まらなかった。
そのことに言及しようにもすぐに泣きだしたリリムに対して言えるはずもなく、フラムもずっと黙っていた。
先ほどから聞こえる獣の叫びは大丈夫なのか。
地鳴りのような音の正体は何なのか。
「リリムさん、本の通りであればあの剣山の向こうに西海岸があるはずです。ただ、あの剣山の周囲は竜種の住処であるとも書いてありました」
「……そうか」
「それに海岸から脱出するにしても、筏を作って食料を集めて、海図も羅針盤もないままに海に出ないといけません」
「…………」
「当初の予定通り、東側にある遺跡を目指しましょう」
リリムは微動だにしなかった。
遠くを見つめて、風にたなびくローブを押さえようともせず、黙ってしまった。
その時、一際強い風が吹いて彼女のとんがり帽子が舞い上がった。
遅れて彼女の細い金髪も風によって流れる。
「あ」
咄嗟に掴み取ったフラムと手を伸ばしたリリスの手が重なり、視線がぶつかり合う。
お互い、震えていた。
お互いが震えていることに気づき、不安が伝播する。
それでもフランは自分を律して泣かなかったし、弱音も吐かず無言でリリムの手を引いて建物を降りようとして。
なぜかリリムは腹が立った、
怒りに任せて手に力を込め、フラムの体を引いて顔を突き合わせる。
「君は冷静で、成熟しているな。まるでワタシのほうが年下じゃないかと錯覚してしまうよ」
「そんなこと」
「あるさ! ワタシは怖い。泣きたいし、叫びたいし、もう沢山だ! なぜワタシがこんな目にあっているんだ、あんな魔石なんて!」
癇癪は長く続かなかった。
リリムは聡明で、優秀で、客観性があって公平だ。
自分の理不尽な叫びを理解し、思い至った。
本当に巻き込まれたのは誰なのかを。
「あ」
あんな魔石と自分は言ったが、それを持ってきたのは誰だ。
分析しようと言い出したのは誰だ。
報告しようというフラムに対し、もっと魔術を撃ちこむよう指示したのは誰だ。
全部自分だ。
「ち、違う。ワタシそんなつもりじゃ」
目の前が真っ暗になり、激昂していた気分が急激に落ちた。
一番悪い自分が、被害者である年下のフラムに当たっている。
善悪があまりにはっきりとした状況に困惑し、気が動転してしまったリリムに対して。
フラムは困ったような笑みを浮かべ、そっとリリムの手を握り返した。
微笑みながら、ゆっくりと語りかける。
「……リリムさんがそんなつもりじゃなかったのは知っています。あれは事故だったし、今一人きりでないことに感謝するくらいですよ、僕は」
リリム・フィアノームは人生で最も惨めな気分になった。
自分が天寿を全うできたとして、それどころか不老不死になって何百年も生きたとして、それでも今この瞬間よりも自分が情けなくなることはないだろう。
そう確信できるほどの自己嫌悪と、反比例するように目の前の少年に対して尊敬の念を抱いた。
十一歳の子供が、と感心するではなく。
最低な自分と比較して、でもなく。
ひとりの人間として、男性として、フラン・アブレイズを尊敬したのだ。
簡単に言えば、最高の殺し文句が心に的中した。
リリムの初恋相手は、五歳下の少年だった。
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