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第5章
42話
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オルサルド小大陸には、陸路、海路のふたつの貿易ルートがある。その中でも、陸路を経由する商人たちは、いずれかのギルドに所属することによって活動をしている。だが、所属しない商人も少なくはない。全員が全員、ギルドに所属しているわけではないのだ。
陸路での貿易を主な活動としている商人ギルド──『天秤』。
齢20にも満たない銀髪の少女が立ち上げたそのギルドは、たった数年で大きくなり、今では小大陸に流れている通貨の2割を占めているかもしれない。と、噂されるほどだった。本来、商人とは現地にて仕入れたものを遠くに運び、仕入れ額の4、5割増しで売るのだが、彼女のやり方は各地で素材のみを仕入れて、ギルドに所属している鍛冶師や裁縫師を経由して装備や服を作り、それらを売るというものだった。
素材を安く、大量に仕入れて製品として売り出す。出来上がったものを仕入れるよりも低出費かつ高収入。合理的すぎるその考えに賛同し、共に働きたいと声を上げた商人、鍛冶師、裁縫師が集まり、次第と大きくなっていったのだ。
そんなギルドの長──ルフィナは、目の前で魚のように口をぱくぱくとさせている、調合師へと興味を示していた。
「商人とのやり取りのどこがめんどくさいのですか?」
「いや……その、話すのがちょっと、な」
ずい、と。近づいてくるルフィナから遠ざかるように身を引く与一は、歯切れの悪い返事を返した。人間、初対面の相手や、目上の者に対しては弱いものだ。それも、最初から自身の言葉で目的を話すとなると、それなりに緊張したり、悩んだりするからだ。
与一は、上からの人間に仕事を与えられることに対して嫌悪感すら抱いている。それが原因で、依頼や納品などを今まで避けていたといっても過言ではない。一括りに仕事と言っても、彼が求めているのは対等な立場での取引なのだ。だが、調合師と言うだけで特別扱いされる。それが、余計に働く意欲を削いでいるのは言うまでもない。
「与一様は、どういった商売相手が好ましいのですか?」
先ほどまで見ていた彼女の表情は、一転して真剣なものであった。これが、ルフィナの商人としての顔なのだろう。
与一は、話し込むにつれて近づいてくる彼女から離れようと後ずさる。が、逃がさんとばかりに詰め寄ってくる彼女。気が付けば壁際にまで追い詰められており、逃げ場を失った与一は引きつった笑みを浮かべた。
「る、ルフィナさん?」
「はい、なんでしょう?」
「近いのですが。少し離れてくれませんかね……」
「あら、こんな綺麗な乙女に近づかれて嫌がるなんて、与一様はもしかしてアルベルト様のようなお方が好みなのですか?」
考えるだけでもぞっとする。一瞬、考えたくもない光景が脳裏に浮かびそうになった。咄嗟に、与一は全力で首を横に振り、必死に否定する。
「やめてくれ、想像するだけでも吐きそうだ」
「ふふ、冗談ですよ。正直、国に所属してない調合師様と取引ができるのなら、うちのギルドとしては願ったり叶ったりなのです。ですから、ここで与一様を逃がすわけにはいきません」
「ちょ、ルフィナさん? 顔が近いです。顔が──」
更に近づいてくるルフィナ。その距離、目と鼻の先。壁に背がくっついている状態の与一は抗おうと手を伸ばそうとするが、今にも唇が触れてしまいそうなほど肉薄してきている彼女を前に、顔を背けることしかできなかった。
「もう、逃がしませんよ?」
ぐい、と。襟元を掴まれ、耳元で囁かれる。すると、与一の背筋にぞくぞく、と。寒気に似たなにかが駆け抜けた。どことなく落ち着かない感覚と共に、危機感を覚えた与一は、ルフィナを引き剥がそうと彼女の両肩を両手で押す。が、想像していた以上に彼女の力が強く、無理に引き剥がそうにも怪我をさせてしまう恐れもあったので強引に離すことができない。
「さぁ、与一様。商売の話をしま──ぶぇしッ!?」
刹那、彼女のこめかみへと分厚い本が『刺さった』。白目を吹き、よだれをぶちまけながら床に転がるルフィナを、どこかいたたまれない気持ちで見ていた与一は、本の飛んできた方向へとゆっくり目を向ける。
そこには、度の強い眼鏡をくいっと人差し指で押し上げるセシルの姿と、その後ろで頭を抱えて溜め息をこぼすアニエスの姿があった。
「……泥棒猫」
ぼそり、と。呟くセシル。その目は、生理的に受け付けない何かを見下すような、汚物を見るような、なんとも言い難いものであった。
「ど、泥棒猫って……流石に本を投げるのはどうかと思わよ。見なさいよ、なんか悲惨なことになってるじゃない……」
「ん、先生を助けた。問題ない」
「問題しかないわよ! どうするのよ! あの身なりからして、宿に泊まりにきたお客さんよ!?」
いつものように、セシルに振り回されているアニエスを見て、与一は安堵の息を吐いた。
むくり、と。起き上がり、無様な姿を晒して傍に転がっている彼女に目を伏せ、めんどくさそうに首を掻きながら、与一はふたりの元へと向かう。
「あー、なんだ。とりあえず、助かった」
「まったく、部屋に来たら詰め寄られてるし、状況を把握する前にセシルは本を投げるし……もう頭が痛いわ……」
腕を組んで、ルフィナに呆れた目線を送るアニエス。
与一の横をとてとてと通り過ぎ、本を回収したセシルが戻ってくる。すると、本を片手で抱きながら、与一の袖を引っ張る。
「本で殴るなとは言ったが……まさか、投げるとはな」
「ん、困ってたから」
「はは、いつも通りだなセシルは……まぁ、ありがとな」
そう言い、セシルの頭を撫でる与一。
何も解決できたわけではないのだが、暴走気味になってしまったルフィナにも非があったはずだ。と、与一は再度仕事について考えるために、思考を切り替えることにした。
正直な話、ルフィナの誘いは前向きに検討してもよかった。が、ギルドとして取引がしたいという言葉に、またぼろ雑巾の様に使い古されるのではないかと身構えてしまっていたのだ。例え、彼女自身がかなりの実力者であったとしても、組織の一部──歯車として回り続けることだけは、どうしても避けたかった。
断ろうとしても、あの状況ではルフィナを止める手段はなかっただろう。と、突然の出来事ではあったが、傍で揉めているふたりに穏やかな目線を送る与一であった。
陸路での貿易を主な活動としている商人ギルド──『天秤』。
齢20にも満たない銀髪の少女が立ち上げたそのギルドは、たった数年で大きくなり、今では小大陸に流れている通貨の2割を占めているかもしれない。と、噂されるほどだった。本来、商人とは現地にて仕入れたものを遠くに運び、仕入れ額の4、5割増しで売るのだが、彼女のやり方は各地で素材のみを仕入れて、ギルドに所属している鍛冶師や裁縫師を経由して装備や服を作り、それらを売るというものだった。
素材を安く、大量に仕入れて製品として売り出す。出来上がったものを仕入れるよりも低出費かつ高収入。合理的すぎるその考えに賛同し、共に働きたいと声を上げた商人、鍛冶師、裁縫師が集まり、次第と大きくなっていったのだ。
そんなギルドの長──ルフィナは、目の前で魚のように口をぱくぱくとさせている、調合師へと興味を示していた。
「商人とのやり取りのどこがめんどくさいのですか?」
「いや……その、話すのがちょっと、な」
ずい、と。近づいてくるルフィナから遠ざかるように身を引く与一は、歯切れの悪い返事を返した。人間、初対面の相手や、目上の者に対しては弱いものだ。それも、最初から自身の言葉で目的を話すとなると、それなりに緊張したり、悩んだりするからだ。
与一は、上からの人間に仕事を与えられることに対して嫌悪感すら抱いている。それが原因で、依頼や納品などを今まで避けていたといっても過言ではない。一括りに仕事と言っても、彼が求めているのは対等な立場での取引なのだ。だが、調合師と言うだけで特別扱いされる。それが、余計に働く意欲を削いでいるのは言うまでもない。
「与一様は、どういった商売相手が好ましいのですか?」
先ほどまで見ていた彼女の表情は、一転して真剣なものであった。これが、ルフィナの商人としての顔なのだろう。
与一は、話し込むにつれて近づいてくる彼女から離れようと後ずさる。が、逃がさんとばかりに詰め寄ってくる彼女。気が付けば壁際にまで追い詰められており、逃げ場を失った与一は引きつった笑みを浮かべた。
「る、ルフィナさん?」
「はい、なんでしょう?」
「近いのですが。少し離れてくれませんかね……」
「あら、こんな綺麗な乙女に近づかれて嫌がるなんて、与一様はもしかしてアルベルト様のようなお方が好みなのですか?」
考えるだけでもぞっとする。一瞬、考えたくもない光景が脳裏に浮かびそうになった。咄嗟に、与一は全力で首を横に振り、必死に否定する。
「やめてくれ、想像するだけでも吐きそうだ」
「ふふ、冗談ですよ。正直、国に所属してない調合師様と取引ができるのなら、うちのギルドとしては願ったり叶ったりなのです。ですから、ここで与一様を逃がすわけにはいきません」
「ちょ、ルフィナさん? 顔が近いです。顔が──」
更に近づいてくるルフィナ。その距離、目と鼻の先。壁に背がくっついている状態の与一は抗おうと手を伸ばそうとするが、今にも唇が触れてしまいそうなほど肉薄してきている彼女を前に、顔を背けることしかできなかった。
「もう、逃がしませんよ?」
ぐい、と。襟元を掴まれ、耳元で囁かれる。すると、与一の背筋にぞくぞく、と。寒気に似たなにかが駆け抜けた。どことなく落ち着かない感覚と共に、危機感を覚えた与一は、ルフィナを引き剥がそうと彼女の両肩を両手で押す。が、想像していた以上に彼女の力が強く、無理に引き剥がそうにも怪我をさせてしまう恐れもあったので強引に離すことができない。
「さぁ、与一様。商売の話をしま──ぶぇしッ!?」
刹那、彼女のこめかみへと分厚い本が『刺さった』。白目を吹き、よだれをぶちまけながら床に転がるルフィナを、どこかいたたまれない気持ちで見ていた与一は、本の飛んできた方向へとゆっくり目を向ける。
そこには、度の強い眼鏡をくいっと人差し指で押し上げるセシルの姿と、その後ろで頭を抱えて溜め息をこぼすアニエスの姿があった。
「……泥棒猫」
ぼそり、と。呟くセシル。その目は、生理的に受け付けない何かを見下すような、汚物を見るような、なんとも言い難いものであった。
「ど、泥棒猫って……流石に本を投げるのはどうかと思わよ。見なさいよ、なんか悲惨なことになってるじゃない……」
「ん、先生を助けた。問題ない」
「問題しかないわよ! どうするのよ! あの身なりからして、宿に泊まりにきたお客さんよ!?」
いつものように、セシルに振り回されているアニエスを見て、与一は安堵の息を吐いた。
むくり、と。起き上がり、無様な姿を晒して傍に転がっている彼女に目を伏せ、めんどくさそうに首を掻きながら、与一はふたりの元へと向かう。
「あー、なんだ。とりあえず、助かった」
「まったく、部屋に来たら詰め寄られてるし、状況を把握する前にセシルは本を投げるし……もう頭が痛いわ……」
腕を組んで、ルフィナに呆れた目線を送るアニエス。
与一の横をとてとてと通り過ぎ、本を回収したセシルが戻ってくる。すると、本を片手で抱きながら、与一の袖を引っ張る。
「本で殴るなとは言ったが……まさか、投げるとはな」
「ん、困ってたから」
「はは、いつも通りだなセシルは……まぁ、ありがとな」
そう言い、セシルの頭を撫でる与一。
何も解決できたわけではないのだが、暴走気味になってしまったルフィナにも非があったはずだ。と、与一は再度仕事について考えるために、思考を切り替えることにした。
正直な話、ルフィナの誘いは前向きに検討してもよかった。が、ギルドとして取引がしたいという言葉に、またぼろ雑巾の様に使い古されるのではないかと身構えてしまっていたのだ。例え、彼女自身がかなりの実力者であったとしても、組織の一部──歯車として回り続けることだけは、どうしても避けたかった。
断ろうとしても、あの状況ではルフィナを止める手段はなかっただろう。と、突然の出来事ではあったが、傍で揉めているふたりに穏やかな目線を送る与一であった。
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