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第一章 久遠なる記憶
仙界の水 5
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モニターの視点が切り替わった先に、水筒をぶら下げた、ホットパンツにキャミソール姿の十代半ばほどの少女が立っている。不鮮明な映像だが、少女らしき人影が、幼き日の容麗である事は、すぐにわかる。
『麗ちゃん……水……もらえたの?』
『う、うん。大人たちに……ねだって、ちょっとずつ分けてもらった』
少女の人影が、露出した肩をすくめて、水筒を振って見せる。たぷん、という音が聞こえた。
『雨桐は?』
"もらえなかった"と、<アマテラス>が繋がっている無意識の主は伝えているようだ。
……麗ちゃんだから貰えるんだよ……
ささやくような声が、音声に変換されていた。
「雨桐……」China支部のIMCにも共有される映像に、容は、目を丸めていた。
『……そっか……あんな小さな装置一台じゃ、こんな村でも賄いきれないってのに……しょうがない、ほら!』表情の見えない少女の人影が、水筒を差し出している。
『えっ?』『大変なんだろ、お父さん……』
『で……でも……』
黒い影で描かれる人影の少女は、押し付けるようにグッと水筒を差し伸ばす。
『いーから! うちは私とママだけだし。今日明日くらいはどうにかなる』
『いいの?』
雨桐の小さな手が、水筒を受け止めていた。
『ああ! それよか、早く帰ろう! 皆、水狙ってくるよ。ほら、早く!』『う、うん』
麗から受け取った水筒は、シリンダーへと姿を変え、ふたたび重ね合わさる研究室の風景の一角に収まる。透明のシリンダーの中の幼い姿をした麗の影が、こちらを見詰めているようだ。
『麗ちゃん……』シリンダーの黒い人影は、うっすらと笑いを浮かべている。
『ただいま……』『遅い! 水は? 水は貰えたんかい?』
『お父さんは?』『もう無駄よ。あんなのにやる必要ない!』
『……み……水……水をくれ……』苦しげな吐息と、締め切ったドアの奥から、搾り出す声が聞こえてくる。
『お父さん!』『ダメよ! 雨桐!』
奥へと駆け出す雨桐を、強い力が引き留めた。<アマテラス>の船体が、同期して揺さぶられる。インナーノーツは、シートやコンソールにしがみつき、揺れに耐える。
『やめて、お母さん! 返して!』
『なんだい? この水筒? 誰んだい?』『……れ……麗ちゃんが……』
<アマテラス>の左舷側に衝撃が走る。モニターの中で、母親の右手が大きく払われていた。
『まだあんな売女の娘と! チッ、こんな"薄汚い"水!』『や、やめて! お母さん!』
『そんなに欲しいならくれてやる!』母親はドアを開け放つと、水筒の水をベッドの上の身動き取れない父に向かってぶちまけた。
『あの売女のせいよ! あんたがこうなったのも! 全部あの女のせい!』
父は、顔や手にかかった水滴を、懸命に舐めとろうともがいている。
『いいかい、雨桐。世の中にはね、どうしようもなく汚れた人間がいるんだ! この男みたいにね!』
腕に滴る水滴に、必死になって舌を伸ばす父を睨め付けながら、母親は言い捨てる。
『汚れた人間は、他人も汚す。関わっちゃぁいけない。あの売女の娘とも、もう会っちゃダメ! あんたは清く生きるのよ! いいね!』
身を翻した母親の姿が、暗がりへと消えていった。
『雨……桐…………ぅ、ヴぅエエェえ』
思わず、部屋のドアを閉める。
『ゆう……と……ん……』
閉まりきるドアの隙間から見詰める、父親のすがるような目。その苦痛に歪む父の顔が、吐瀉物とぶちまけられた水と混ざり合いながら、麗を映すシリンダーの容器へと注がれていく。
『……汚れた水……お父さん……麗ちゃん……』
前髪がかかる、虚な蔑むような両目が、そのシリンダーに映り込んでいた。
容は、<アマテラス>から送られるモニターの映像を前に、呆然となって立ち尽くす。気丈に保つその顔は、青白い。
『麗ちゃん……』再び研究室の風景に、別の場所がオーバーラップしてきた。
「時空間座標、特定! 重慶付近、約十四年前」
記憶に刻まれた時と場所の座標を、サニが読み取って報告した。夕刻の闇に、摩天楼の灯りが浮かび上がる。
長く影を落とした人影が、前方に浮かんできた。肩にかかるくらい髪を伸ばしていたが、容である事はすぐにわかる。シンプルだが、品の良さを感じさせる黒のワンピースに、白のジャケットを羽織っている。容は、都会の風景が似合う女性へと変わっていた。
『……百年くらい前は、この土手の辺りまで、川の水があったんだって』『……へぇ……そうなんだ……詳しいね、麗ちゃん』
街を貫く長江も、嘉陵江も、すっかり水量は衰え、かつての川幅を物語る河原は、公園やテニスコートに代わっていた。
『雨桐……こっち来て、一年経つけど、初めて聞いたって感じ? 大方、研究室にばっかり閉じこもってんだろ?』『…………』
振り返った容の顔は、逆光の中に黒く影を落とす。
『あはははは! 図星って顔!』『……だって……』『ぷぷ、相変わらず。かわいいよ、雨桐』
喋り出せば、十年前のあの少女と変わらない。黒づくめの顔の中で、てらてらと光沢を帯びた唇と、真っ白な歯だけが忙しなく動いていた。
「……重慶……私が仙技開の支局の頃……」
再び、容の記憶が、モニターに再現される世界と重なり合う。
『ごめんね。こっちに呼んでおいて、なかなか会える機会もなくて』モニターの中の容が、語りかけてくる。
『感謝してる。学費も……その……大丈夫なの?』『大丈夫! 色々ツテもあるから。雨桐は大学で一生懸命勉強してればいいんだよ』
二人は、かつての川縁の名残を残す、土手に沿って歩く。<アマテラス>のモニターは、雨桐の記憶に刻まれた風景を浮かび上がらせ、マジックアワーのワンシーンを紡ぐ。
川の方に向かって突き出た展望エリアまでくると、二人は立ち止まり、並んで川の方を向いて立つ。眼下の長江は、穏やかな流れを保つ。大型の貨物船は消え、小型の旅客船が数えるばかりだ。
『……でもよかった。今日は誘い出せて。この景色、一度、雨桐に見せたかったんだ』『えっ……』
『私、この長江を元の姿に戻したい。うぅうん、長江だけじゃない、黄河も淮河も……温暖化、人工増加、環境汚染、……それにPSIテクノロジーの水利用。この百年足らずの間に、この国の水という水は、絶えず汚され、搾取されてきた……覚えてる? あの地震?』
『うん……』
『あの時、私たちの村は、水が届かなかったせいで沢山の病死者が出た。建物の倒壊なんかで死んだ人より多い。雨桐のお父さんだって……』
『……お父さん……』
『政府は、空気水生成器の普及拡大を進めているけど……本当はもう、この国の人と産業を支えるには、水、そのものが足りてないのよ。水自体を増やす他ないの』
『……でも……PSI合成水は……まだ……』
『PSI合成水の可能性を教えてくれたのは、貴女じゃない! 高校生だった貴女が発表した、あの次元置換抽出合成法なら、農業や生活に利用できるレベルにまで無害化できる可能性があるの!』
「……次元置換抽出法……聞いたことがありますね。中国のとある高校の研究サークルが、画期的な合成水の抽出方法を発見したと、十数年前、話題になってました」モニターを注視したまま、東は朧げな記憶を辿った。
「うむ。私も注目していたが、あの時の高校生だったか……」藤川も二十年前の水織川研究所の"事故"の後処理に忙殺される日々を送る中、心躍った数少ないニュースの一つとして記憶に残っていた。
『あれは……たまたま……うまくいっただけで……』
『改良していけば必ずできる! そのために、私は貴女をここに呼んだの』
相変わらず陰に覆われた容の顔。表情はまるでわからない。
『変えよう! 私たちの手で! この枯れた国を潤いに溢れた国に!』
容の両手が、しっかりと雨桐の手を握りしめているようだ。
『一緒に夢を叶えよう! 雨桐!』
『う……うん……』
<アマテラス>のモニターの中で、夕闇が落日の光を包み込んでゆく。
『麗ちゃん……水……もらえたの?』
『う、うん。大人たちに……ねだって、ちょっとずつ分けてもらった』
少女の人影が、露出した肩をすくめて、水筒を振って見せる。たぷん、という音が聞こえた。
『雨桐は?』
"もらえなかった"と、<アマテラス>が繋がっている無意識の主は伝えているようだ。
……麗ちゃんだから貰えるんだよ……
ささやくような声が、音声に変換されていた。
「雨桐……」China支部のIMCにも共有される映像に、容は、目を丸めていた。
『……そっか……あんな小さな装置一台じゃ、こんな村でも賄いきれないってのに……しょうがない、ほら!』表情の見えない少女の人影が、水筒を差し出している。
『えっ?』『大変なんだろ、お父さん……』
『で……でも……』
黒い影で描かれる人影の少女は、押し付けるようにグッと水筒を差し伸ばす。
『いーから! うちは私とママだけだし。今日明日くらいはどうにかなる』
『いいの?』
雨桐の小さな手が、水筒を受け止めていた。
『ああ! それよか、早く帰ろう! 皆、水狙ってくるよ。ほら、早く!』『う、うん』
麗から受け取った水筒は、シリンダーへと姿を変え、ふたたび重ね合わさる研究室の風景の一角に収まる。透明のシリンダーの中の幼い姿をした麗の影が、こちらを見詰めているようだ。
『麗ちゃん……』シリンダーの黒い人影は、うっすらと笑いを浮かべている。
『ただいま……』『遅い! 水は? 水は貰えたんかい?』
『お父さんは?』『もう無駄よ。あんなのにやる必要ない!』
『……み……水……水をくれ……』苦しげな吐息と、締め切ったドアの奥から、搾り出す声が聞こえてくる。
『お父さん!』『ダメよ! 雨桐!』
奥へと駆け出す雨桐を、強い力が引き留めた。<アマテラス>の船体が、同期して揺さぶられる。インナーノーツは、シートやコンソールにしがみつき、揺れに耐える。
『やめて、お母さん! 返して!』
『なんだい? この水筒? 誰んだい?』『……れ……麗ちゃんが……』
<アマテラス>の左舷側に衝撃が走る。モニターの中で、母親の右手が大きく払われていた。
『まだあんな売女の娘と! チッ、こんな"薄汚い"水!』『や、やめて! お母さん!』
『そんなに欲しいならくれてやる!』母親はドアを開け放つと、水筒の水をベッドの上の身動き取れない父に向かってぶちまけた。
『あの売女のせいよ! あんたがこうなったのも! 全部あの女のせい!』
父は、顔や手にかかった水滴を、懸命に舐めとろうともがいている。
『いいかい、雨桐。世の中にはね、どうしようもなく汚れた人間がいるんだ! この男みたいにね!』
腕に滴る水滴に、必死になって舌を伸ばす父を睨め付けながら、母親は言い捨てる。
『汚れた人間は、他人も汚す。関わっちゃぁいけない。あの売女の娘とも、もう会っちゃダメ! あんたは清く生きるのよ! いいね!』
身を翻した母親の姿が、暗がりへと消えていった。
『雨……桐…………ぅ、ヴぅエエェえ』
思わず、部屋のドアを閉める。
『ゆう……と……ん……』
閉まりきるドアの隙間から見詰める、父親のすがるような目。その苦痛に歪む父の顔が、吐瀉物とぶちまけられた水と混ざり合いながら、麗を映すシリンダーの容器へと注がれていく。
『……汚れた水……お父さん……麗ちゃん……』
前髪がかかる、虚な蔑むような両目が、そのシリンダーに映り込んでいた。
容は、<アマテラス>から送られるモニターの映像を前に、呆然となって立ち尽くす。気丈に保つその顔は、青白い。
『麗ちゃん……』再び研究室の風景に、別の場所がオーバーラップしてきた。
「時空間座標、特定! 重慶付近、約十四年前」
記憶に刻まれた時と場所の座標を、サニが読み取って報告した。夕刻の闇に、摩天楼の灯りが浮かび上がる。
長く影を落とした人影が、前方に浮かんできた。肩にかかるくらい髪を伸ばしていたが、容である事はすぐにわかる。シンプルだが、品の良さを感じさせる黒のワンピースに、白のジャケットを羽織っている。容は、都会の風景が似合う女性へと変わっていた。
『……百年くらい前は、この土手の辺りまで、川の水があったんだって』『……へぇ……そうなんだ……詳しいね、麗ちゃん』
街を貫く長江も、嘉陵江も、すっかり水量は衰え、かつての川幅を物語る河原は、公園やテニスコートに代わっていた。
『雨桐……こっち来て、一年経つけど、初めて聞いたって感じ? 大方、研究室にばっかり閉じこもってんだろ?』『…………』
振り返った容の顔は、逆光の中に黒く影を落とす。
『あはははは! 図星って顔!』『……だって……』『ぷぷ、相変わらず。かわいいよ、雨桐』
喋り出せば、十年前のあの少女と変わらない。黒づくめの顔の中で、てらてらと光沢を帯びた唇と、真っ白な歯だけが忙しなく動いていた。
「……重慶……私が仙技開の支局の頃……」
再び、容の記憶が、モニターに再現される世界と重なり合う。
『ごめんね。こっちに呼んでおいて、なかなか会える機会もなくて』モニターの中の容が、語りかけてくる。
『感謝してる。学費も……その……大丈夫なの?』『大丈夫! 色々ツテもあるから。雨桐は大学で一生懸命勉強してればいいんだよ』
二人は、かつての川縁の名残を残す、土手に沿って歩く。<アマテラス>のモニターは、雨桐の記憶に刻まれた風景を浮かび上がらせ、マジックアワーのワンシーンを紡ぐ。
川の方に向かって突き出た展望エリアまでくると、二人は立ち止まり、並んで川の方を向いて立つ。眼下の長江は、穏やかな流れを保つ。大型の貨物船は消え、小型の旅客船が数えるばかりだ。
『……でもよかった。今日は誘い出せて。この景色、一度、雨桐に見せたかったんだ』『えっ……』
『私、この長江を元の姿に戻したい。うぅうん、長江だけじゃない、黄河も淮河も……温暖化、人工増加、環境汚染、……それにPSIテクノロジーの水利用。この百年足らずの間に、この国の水という水は、絶えず汚され、搾取されてきた……覚えてる? あの地震?』
『うん……』
『あの時、私たちの村は、水が届かなかったせいで沢山の病死者が出た。建物の倒壊なんかで死んだ人より多い。雨桐のお父さんだって……』
『……お父さん……』
『政府は、空気水生成器の普及拡大を進めているけど……本当はもう、この国の人と産業を支えるには、水、そのものが足りてないのよ。水自体を増やす他ないの』
『……でも……PSI合成水は……まだ……』
『PSI合成水の可能性を教えてくれたのは、貴女じゃない! 高校生だった貴女が発表した、あの次元置換抽出合成法なら、農業や生活に利用できるレベルにまで無害化できる可能性があるの!』
「……次元置換抽出法……聞いたことがありますね。中国のとある高校の研究サークルが、画期的な合成水の抽出方法を発見したと、十数年前、話題になってました」モニターを注視したまま、東は朧げな記憶を辿った。
「うむ。私も注目していたが、あの時の高校生だったか……」藤川も二十年前の水織川研究所の"事故"の後処理に忙殺される日々を送る中、心躍った数少ないニュースの一つとして記憶に残っていた。
『あれは……たまたま……うまくいっただけで……』
『改良していけば必ずできる! そのために、私は貴女をここに呼んだの』
相変わらず陰に覆われた容の顔。表情はまるでわからない。
『変えよう! 私たちの手で! この枯れた国を潤いに溢れた国に!』
容の両手が、しっかりと雨桐の手を握りしめているようだ。
『一緒に夢を叶えよう! 雨桐!』
『う……うん……』
<アマテラス>のモニターの中で、夕闇が落日の光を包み込んでゆく。
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