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『梶原直人と和田菜々子〜静けさの中の君へ 〜』第4話:「手のひらの温度」
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十一月も後半に入り、夕方の冷え込みが一段と増してきた。
その日、空は朝からどんよりと重たくて、体育の授業を終えたころには、空気の匂いもすっかり雨の前触れに変わっていた。
「降りそうだな……」
つぶやきながら帰り支度をしていると、本当にザーッと降り出した。
部活の準備をする前に、濡れたくない一心で校舎の裏手を通って、人気のない和室の軒先に駆け込んだ。
ひさしの下、濡れた髪をタオルで拭いていると、
和室の引き戸がカタリと音を立てて開いた。
顔を出したのは、和田菜々子だった。
「……あ」
「……あっ、梶原くん?」
「ごめん、勝手に雨宿りしてた。ここ、誰か使ってた?」
「ううん、大丈夫。……中、入る?」
「え、いいの?」
「濡れたままだと風邪ひいちゃうでしょ?」
和室の空気はいつもと同じだった。
畳の香り、窓の外から聞こえる雨の音、それと、静けさ。
でも今日は少し違った。
同じ教室の、しかも最近よく話すようになった彼女と、ふたりきりの空間。
緊張というよりも、不思議な“静けさの密度”が増した感じがした。
彼女は棚から小ぶりな茶碗を取り出し、ポットでお湯を沸かし始めた。
「今日も練習?」
「ううん。たまたま、落ち着きたくて来ただけ。」
そう言いながら、彼女は茶筅を手に取る。
ああ、この光景。何度も見てきたのに、いつも少しだけ息を呑んでしまう。
彼女が茶を点てる姿は、どこか無防備で、それでいてすごく強くて——
俺の知らない時間を、ちゃんと持っている人なんだと、毎回思い知らされる。
「……もしよかったら、やってみる?」
「えっ、俺が?」
「うん。点てるの。手順、覚えてる?」
「だいたい……たぶん。」
「じゃあ、一緒にやろっか。」
彼女は、茶碗と茶筅を俺の前に置くと、そっと自分の手を俺の手の上に重ねた。
「こうやって、斜めに持って、……優しく動かして。」
「……うん。」
指先が触れる。
手のひらが、重なる。
小さくて、あたたかくて、少しひんやりしている彼女の手。
(……やばい、近い)
集中しなきゃと思っても、彼女の声や体温が近すぎて、うまく息ができない。
「大丈夫、ちゃんとできてるよ。」
「そ、そう?」
「うん。私が初めてやったときより、ずっと上手。」
微笑んだその顔に、完全に意識が持っていかれた。
その後、茶碗を持って、「どうぞ」と渡された。
一口飲んでみると、抹茶はほんのりと苦く、でもやさしい味がした。
「……うまい。」
「でしょ?」
彼女の声が少し照れているように聞こえた。
茶碗の縁に残る抹茶の緑と、雨の匂いが交差するこの瞬間。
俺は、もう自分の気持ちをごまかせなくなっていた。
——俺、たぶん、和田さんのことが好きだ。
それは、突然だったけど、どこかでずっと確信していたことでもあった。
ただの同級生でもない。
ただの“静かな子”でもない。
ちゃんと話して、笑って、時間を共有して——
気づいたら、彼女の言葉や沈黙が、俺の心を満たしていた。
「和田さん」
「なに?」
「……あのさ」
言いかけて、言葉が喉に引っかかった。
何て言えばいいのか、まだわからない。
でも、彼女はそれを無理に促さず、ただ静かにこっちを見ていた。
窓の外、雨は少しずつ弱まっていた。
もう少ししたら、帰らなきゃいけない。
でも今はまだ、この空間の中にいたかった。
「春になったらさ、また一緒にお茶点てようよ。」
そう言ったのは、無意識だったかもしれない。
でも、彼女は驚いたように目を瞬かせたあと、そっと笑った。
「……うん。約束ね。」
約束。
その言葉の重みが、こんなにあたたかいものだなんて、知らなかった。
手のひらの温度はもう冷めていたけれど、
心の中にはまだ、彼女のぬくもりが残っていた。
雨上がりの空の下。
俺たちは並んで歩いた。
肩が少しだけ触れた。
でも、どちらもよけようとはしなかった。
その沈黙が、すべてを物語っている気がした。
その日、空は朝からどんよりと重たくて、体育の授業を終えたころには、空気の匂いもすっかり雨の前触れに変わっていた。
「降りそうだな……」
つぶやきながら帰り支度をしていると、本当にザーッと降り出した。
部活の準備をする前に、濡れたくない一心で校舎の裏手を通って、人気のない和室の軒先に駆け込んだ。
ひさしの下、濡れた髪をタオルで拭いていると、
和室の引き戸がカタリと音を立てて開いた。
顔を出したのは、和田菜々子だった。
「……あ」
「……あっ、梶原くん?」
「ごめん、勝手に雨宿りしてた。ここ、誰か使ってた?」
「ううん、大丈夫。……中、入る?」
「え、いいの?」
「濡れたままだと風邪ひいちゃうでしょ?」
和室の空気はいつもと同じだった。
畳の香り、窓の外から聞こえる雨の音、それと、静けさ。
でも今日は少し違った。
同じ教室の、しかも最近よく話すようになった彼女と、ふたりきりの空間。
緊張というよりも、不思議な“静けさの密度”が増した感じがした。
彼女は棚から小ぶりな茶碗を取り出し、ポットでお湯を沸かし始めた。
「今日も練習?」
「ううん。たまたま、落ち着きたくて来ただけ。」
そう言いながら、彼女は茶筅を手に取る。
ああ、この光景。何度も見てきたのに、いつも少しだけ息を呑んでしまう。
彼女が茶を点てる姿は、どこか無防備で、それでいてすごく強くて——
俺の知らない時間を、ちゃんと持っている人なんだと、毎回思い知らされる。
「……もしよかったら、やってみる?」
「えっ、俺が?」
「うん。点てるの。手順、覚えてる?」
「だいたい……たぶん。」
「じゃあ、一緒にやろっか。」
彼女は、茶碗と茶筅を俺の前に置くと、そっと自分の手を俺の手の上に重ねた。
「こうやって、斜めに持って、……優しく動かして。」
「……うん。」
指先が触れる。
手のひらが、重なる。
小さくて、あたたかくて、少しひんやりしている彼女の手。
(……やばい、近い)
集中しなきゃと思っても、彼女の声や体温が近すぎて、うまく息ができない。
「大丈夫、ちゃんとできてるよ。」
「そ、そう?」
「うん。私が初めてやったときより、ずっと上手。」
微笑んだその顔に、完全に意識が持っていかれた。
その後、茶碗を持って、「どうぞ」と渡された。
一口飲んでみると、抹茶はほんのりと苦く、でもやさしい味がした。
「……うまい。」
「でしょ?」
彼女の声が少し照れているように聞こえた。
茶碗の縁に残る抹茶の緑と、雨の匂いが交差するこの瞬間。
俺は、もう自分の気持ちをごまかせなくなっていた。
——俺、たぶん、和田さんのことが好きだ。
それは、突然だったけど、どこかでずっと確信していたことでもあった。
ただの同級生でもない。
ただの“静かな子”でもない。
ちゃんと話して、笑って、時間を共有して——
気づいたら、彼女の言葉や沈黙が、俺の心を満たしていた。
「和田さん」
「なに?」
「……あのさ」
言いかけて、言葉が喉に引っかかった。
何て言えばいいのか、まだわからない。
でも、彼女はそれを無理に促さず、ただ静かにこっちを見ていた。
窓の外、雨は少しずつ弱まっていた。
もう少ししたら、帰らなきゃいけない。
でも今はまだ、この空間の中にいたかった。
「春になったらさ、また一緒にお茶点てようよ。」
そう言ったのは、無意識だったかもしれない。
でも、彼女は驚いたように目を瞬かせたあと、そっと笑った。
「……うん。約束ね。」
約束。
その言葉の重みが、こんなにあたたかいものだなんて、知らなかった。
手のひらの温度はもう冷めていたけれど、
心の中にはまだ、彼女のぬくもりが残っていた。
雨上がりの空の下。
俺たちは並んで歩いた。
肩が少しだけ触れた。
でも、どちらもよけようとはしなかった。
その沈黙が、すべてを物語っている気がした。
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