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ストーリー
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門出
3月31日午前5時。滋賀県大津市。琵琶湖とともに生活をしてきた市のとある一軒家で唐橋近美が目覚めた。
大津市立中学校の臙脂のジャージも今日で着なくなる。ジャージを着たジョギングは最後だ。
家を出ると細い坂道が続いている。全部で65段。近美はトットッと駆け上がる。登り切った先に道祖伸がぽつんと置かれる。
近美は道祖伸に向かって手を合わせる。しばらく生まれ育った街を離れて高校の寮に入る。如意ヶ岳と大文字山を越えたところにある名門校堂上学園の入学試験の合否発表が出たのは2ヶ月前だ。
試験の結果はギリギリだ。近美は国語と歴史には自信があった。苦手な数学が足を引っ張ったので厳しい勝負だった。家に帰った時は疲れ果てて寝ていた。
合否発表の日、自身の受験番号が張り出されていたときは目が潤んだ。嘘だろう。受かるはずがない。でも確かに自分の番号は掲示板に張り出されている。
今に戻る。
慣れ親しんだコースともお別れが近づいている。最も返ってこないわけでない。少しの間だけ家を留守にするだけ。
いつも以上に力がこもっていた。いつまでも走り続けられる自信があった。
体が温まっていき、汗が額に浮き出る。拭っても汗は止まらなかったが、不思議と息切れはしなかった。
琵琶湖のほとりの船着き場まで走った。ここが近美のジョギングのゴールだ。カモや白鳥などの水鳥がそっと水辺を走る。
朝は寒かったが、走ったことでちょうどいい感じになってきた。太陽が一段と天井をめがけて昇っていく。近美の顔に日が当たった時、水鳥が羽ばたいた。
もし翼があったらどれぐらい気持ちいいだろうか。何者にも邪魔されない天空を舞えたら楽しいだろう。
「夢みたこと言ってもしゃーないわ」
水鳥はすでに見えない。人には翼はないが、2本の足がある。どこまでも行くことができる強靭なものだ。本で読んだことがある。人間が一番持久力を持っているそうだ。馬と人がマラソンで競争した場合、最初は馬が勝つ。ところが途中から人間が逆転する。
近美には2本の健康な足がある。どこへでも行ける。足は誰かのために役立つはずだ。水鳥にはできないことだ。
7時を過ぎて通り沿いの交通量がだんだんと増えてきた。そろそろ帰ろう。運動後は発汗後、ゆっくり歩いて家で帰ってシャワーを浴びるのが日課だ。
庭先に戻ると明け方まで寝ていた犬のムギも目覚めていた。よくなつく白黒の秋田犬だった。飼った時は全然懐かず吠えるばかりでしつけが大変だった。
「あんたも起きたか? あんたともお別れや」
家の扉を開けて中に入るとキッチンで母が朝ご飯の準備をしていた。炊飯器から水蒸気が噴き出てキッチンを曇らせた。琵琶湖で取れたであろう蜆の味噌汁のにおいがした。
朝の香りを嗅ぐと腹の虫がゴロゴロと鳴っていた。
「母さん、走ってきたわ」
「今日から行くんか?」
「そや。シャワー浴びてくるわ。そしたら飯や」
近美はジャージを脱ぐとシャワーを浴びに行く。冷たい真水が少しずつ温かくなっていく。
ぼんやりした頭も走ると爽快な気分になる。運動後のシャワーは気分がリフレッシュされるから一日がより楽しくなる。
高校の寮に入ってしまえば自分のペースでは生活はできなくなる。堂上学園はかなり規律にうるさい高校だった。しかし潜り抜けて入学した生徒は、名の知れた大学へ行けるし就職先もそれはすごいものだと聞いている。親が考古学の仕事についていたから、歴史に携われる仕事に漠然と付けたらいいと考えていた。
今は春。まさしく春はあけぼのだ。
朝ご飯を食べ終えて支度に入る。門出のときは近づく。新品の白いブレザーと紺のスカートを着こなした。中学の頃はセーラー服で野暮ったい感じだった。ブレザーを羽織ることで品のあるお嬢様らしさが出ていた。
少しだけ自分が大人に近づいた感覚があった。
「似合うかな?」
「ま、かいらしいな。お人形みたいやな」
「うち、いくつや思うてんの」
「いいやないの。お父さんも起きてきたか」
「なんや。制服なんか着て」
父は頭をかいてあくびをした。3人家族で一番遅くに目を覚ましてくる。
そろそろ時間だ。近美は家を飛び出せることに喜びを隠せなかった。忘れ物はない。よし、大丈夫だ。
「ほな、行ってくるで」
「きいけや」
近美は両親に手を振って家を出る。今日が門出の日。明日は入学式になる。その前に学園に行き入寮手続きを済ませる。両親とは明日も会える。三年間は実家を離れてしまうことに寂しさはない。
午前7時23分。近美は家を出た。
大津駅までは徒歩15分で着くが、近美はあえて脇道をする。地元の近所の人に会いたくなかった。別れが多くなるのがあまり好きではない。大津駅には京都へ通勤や通学に行く人が多い。といっても東京に比べれば人は少ないほうだ。
大津から京都まで10分程度だ。県境をまたげば京都の街がひろがる。オレンジの東海道本線にぼんやり揺られていると、鈍色の太陽の光が窓辺に差し込む。眩しかったが、門出には相応しい朝だった。
大津と京都の間に山があったが、はっきり言うとド地らの都市にも差異はない。話している言葉も似ていた。高校も山を隔てて反対側にあるから、生活するうえで何か大きな苦労はないはずだ。
偏差値も高く、お金持ちのお嬢様が通う中で、お金も家柄もない自分がどうやっていけるかは不安ではあった。
でも今更家柄なんて関係ないだろう。いつだって先に一歩を踏み出せる者が強い。近美はそう信じてきた。
3月31日午前5時。滋賀県大津市。琵琶湖とともに生活をしてきた市のとある一軒家で唐橋近美が目覚めた。
大津市立中学校の臙脂のジャージも今日で着なくなる。ジャージを着たジョギングは最後だ。
家を出ると細い坂道が続いている。全部で65段。近美はトットッと駆け上がる。登り切った先に道祖伸がぽつんと置かれる。
近美は道祖伸に向かって手を合わせる。しばらく生まれ育った街を離れて高校の寮に入る。如意ヶ岳と大文字山を越えたところにある名門校堂上学園の入学試験の合否発表が出たのは2ヶ月前だ。
試験の結果はギリギリだ。近美は国語と歴史には自信があった。苦手な数学が足を引っ張ったので厳しい勝負だった。家に帰った時は疲れ果てて寝ていた。
合否発表の日、自身の受験番号が張り出されていたときは目が潤んだ。嘘だろう。受かるはずがない。でも確かに自分の番号は掲示板に張り出されている。
今に戻る。
慣れ親しんだコースともお別れが近づいている。最も返ってこないわけでない。少しの間だけ家を留守にするだけ。
いつも以上に力がこもっていた。いつまでも走り続けられる自信があった。
体が温まっていき、汗が額に浮き出る。拭っても汗は止まらなかったが、不思議と息切れはしなかった。
琵琶湖のほとりの船着き場まで走った。ここが近美のジョギングのゴールだ。カモや白鳥などの水鳥がそっと水辺を走る。
朝は寒かったが、走ったことでちょうどいい感じになってきた。太陽が一段と天井をめがけて昇っていく。近美の顔に日が当たった時、水鳥が羽ばたいた。
もし翼があったらどれぐらい気持ちいいだろうか。何者にも邪魔されない天空を舞えたら楽しいだろう。
「夢みたこと言ってもしゃーないわ」
水鳥はすでに見えない。人には翼はないが、2本の足がある。どこまでも行くことができる強靭なものだ。本で読んだことがある。人間が一番持久力を持っているそうだ。馬と人がマラソンで競争した場合、最初は馬が勝つ。ところが途中から人間が逆転する。
近美には2本の健康な足がある。どこへでも行ける。足は誰かのために役立つはずだ。水鳥にはできないことだ。
7時を過ぎて通り沿いの交通量がだんだんと増えてきた。そろそろ帰ろう。運動後は発汗後、ゆっくり歩いて家で帰ってシャワーを浴びるのが日課だ。
庭先に戻ると明け方まで寝ていた犬のムギも目覚めていた。よくなつく白黒の秋田犬だった。飼った時は全然懐かず吠えるばかりでしつけが大変だった。
「あんたも起きたか? あんたともお別れや」
家の扉を開けて中に入るとキッチンで母が朝ご飯の準備をしていた。炊飯器から水蒸気が噴き出てキッチンを曇らせた。琵琶湖で取れたであろう蜆の味噌汁のにおいがした。
朝の香りを嗅ぐと腹の虫がゴロゴロと鳴っていた。
「母さん、走ってきたわ」
「今日から行くんか?」
「そや。シャワー浴びてくるわ。そしたら飯や」
近美はジャージを脱ぐとシャワーを浴びに行く。冷たい真水が少しずつ温かくなっていく。
ぼんやりした頭も走ると爽快な気分になる。運動後のシャワーは気分がリフレッシュされるから一日がより楽しくなる。
高校の寮に入ってしまえば自分のペースでは生活はできなくなる。堂上学園はかなり規律にうるさい高校だった。しかし潜り抜けて入学した生徒は、名の知れた大学へ行けるし就職先もそれはすごいものだと聞いている。親が考古学の仕事についていたから、歴史に携われる仕事に漠然と付けたらいいと考えていた。
今は春。まさしく春はあけぼのだ。
朝ご飯を食べ終えて支度に入る。門出のときは近づく。新品の白いブレザーと紺のスカートを着こなした。中学の頃はセーラー服で野暮ったい感じだった。ブレザーを羽織ることで品のあるお嬢様らしさが出ていた。
少しだけ自分が大人に近づいた感覚があった。
「似合うかな?」
「ま、かいらしいな。お人形みたいやな」
「うち、いくつや思うてんの」
「いいやないの。お父さんも起きてきたか」
「なんや。制服なんか着て」
父は頭をかいてあくびをした。3人家族で一番遅くに目を覚ましてくる。
そろそろ時間だ。近美は家を飛び出せることに喜びを隠せなかった。忘れ物はない。よし、大丈夫だ。
「ほな、行ってくるで」
「きいけや」
近美は両親に手を振って家を出る。今日が門出の日。明日は入学式になる。その前に学園に行き入寮手続きを済ませる。両親とは明日も会える。三年間は実家を離れてしまうことに寂しさはない。
午前7時23分。近美は家を出た。
大津駅までは徒歩15分で着くが、近美はあえて脇道をする。地元の近所の人に会いたくなかった。別れが多くなるのがあまり好きではない。大津駅には京都へ通勤や通学に行く人が多い。といっても東京に比べれば人は少ないほうだ。
大津から京都まで10分程度だ。県境をまたげば京都の街がひろがる。オレンジの東海道本線にぼんやり揺られていると、鈍色の太陽の光が窓辺に差し込む。眩しかったが、門出には相応しい朝だった。
大津と京都の間に山があったが、はっきり言うとド地らの都市にも差異はない。話している言葉も似ていた。高校も山を隔てて反対側にあるから、生活するうえで何か大きな苦労はないはずだ。
偏差値も高く、お金持ちのお嬢様が通う中で、お金も家柄もない自分がどうやっていけるかは不安ではあった。
でも今更家柄なんて関係ないだろう。いつだって先に一歩を踏み出せる者が強い。近美はそう信じてきた。
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