ゆめうつつ

戸笠耕一

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第一章 焼落

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 ぽたぽたと空を覆う暑い雲から雨が滴れている。梅雨の日が続き、アスファルトが濡れていた。

 東急線大岡山駅付近の東邦大学のキャンパスから、徒歩五分の場所に「barrow」という喫茶店がある。私のお気に入りの場所だ。

 こげ茶色の木材のメニューが北欧のファネットチェアの上に乗っている。深緑の扉を開けると、アンティークの作り物や椅子、本棚がある。

 無味乾燥な大都会の中で見出した自然であり、私の逃避先だ。窓の外に映るグレー調の都会の喧騒を忘れさせてくれる。白馬村の自然とはだいぶ色彩が異なるが、ここも悪くはない。

 木曜日の大学の講義は午前中で終わると喫茶店に向かう。私はアイスコーヒーを数杯飲みつつ、カチカチとライターに火を付けてマールボロを吸う。

 私はアレクサンドル・デュマの「モンテクリスト伯」を、皮肉を交えてこの本を繰り返し読んでいた。

 復讐が華麗でいられるのは小説の世界線だけだ。身に染みて感じる。慣れ親しんだ料理の味をすでに分かっているのに、やめられない。

 時刻は午後四時になり、壁にかけられた鳩時計がカッコーと四回音を立てる。待ち合わせの時間だ。

 カランカランと扉の上に設置していた鈴の音が鳴る。

 白と紺のセーラー服に群青のスカートの女子校生が店に入ってきた。初めて入った店だから緊張しているのか、店内をじっくりと眺めている。

 私はじっと女子校生を見つめてしまう。

 あっと相手も私の視線に気づいた。少しだけ戸惑っている。

「会うのは六年ぶり?」

 あどけない言葉に私は懐かしさを感じだ。遠く離れていった白馬村の情景がふいに思い出された。木々のせせらぎ、通り抜ける風の音。都会の喧騒にまみれて失われていた自然の感性が蘇ってくる。

「なーちゃんだよね。その呼び方は相応しくないか」

 十二歳だった少女はすっかり大人の体へと成長した。顔つきも丸かったが、骨格がしっかりしてきたせいか、印象が変わった。姿勢のいいすらりとした背の高い姿に、私は自然と目を向ける。

「元気にしていました? 樫谷先輩」

 口元に笑みを浮かべたときに見え隠れする八重歯が六年前の面影を想起する。

「今は西本だよ。伯父の苗字を名乗っている」

「西本先輩」

 私は目の前のニイナをじっと見つめていた。私は右手にしているリストバンドが目にとまった。火事の記憶。私たちを繋ぐ復讐の刻印。

「どうしたの?」

「何でもない。あいつとはまだ縁が切れていないのか?」

「同じ里親だもん。外面はいいからね。腐れ縁だよねー」

「学校も同じなのか」

「姉妹だからしょうがないでしょ」

 あまりしゃべりたくないな。姉については私も同感だ。

 聞くまでもないか。知古の間柄とはいえ女子校生を詰問するのはいかがなものか。私は意味のない質問をやめた。

「復讐の件だけども、どうなの?」

 私は瓦礫の山と化した家を前にして決意した言葉を思い出す。屑になった家を見て六年前の私には憎悪しかなかった。

 でも今では灰皿の上に積もる煙草の灰と何が違うのか区別がつかなくなっていた。ようは時間の経過とともに憎悪の記憶が摩耗してしまった。

「一度会ってきちんと言いたかった。過去に囚われない。復讐はやめる」

 六年という歳月は人を変える。少年だった私は青年になり、少女だった幼なじみは

 ニイナは驚いた表情で私を見た。

「証拠がない。僕も直に二十歳になる。現実的な問題が色々ある」

 いつまでも親を失った悲劇の少年である樫谷正夢ではいられない。殺伐とした社会で生きていくには働かなければいけない。最も現状では何の役にも立たないだろう。

 私は先ほどから眠気を抱えていて、目頭を押さえて欠伸をした。

「寝ていないの?」

「不眠症でね。最近さらに強い薬を処方されてね」

「飲まないとだめなの?」

「あの日の記憶が頭によぎる。おかげで一度意識を失った」

 なーちゃんは目を見開いた。

「気にするな。本当にちょっと意識を失っただけだ」

 実のところ一週間近く寝ていた。睡眠薬の過剰摂取をした者は口をそろえて、後悔を述べる。私も例外なくその一人だったが、時が経つと苦しみを忘れてしまう。

「過去に囚われるのも大変ね」

 ハルシオンは超短期型の睡眠導入剤で、効果が切れるのが早い。この頃は長期型のドラールを飲んでいる。大学生になって夏休みや春休みは長い。無趣味な私は堕落した日々を過ごすのが嫌で睡眠薬を飲んでいる。

 今年の夏は過剰摂取により意識を失った。夕食の時刻になっても反応がない伯母が部屋を見たところひっくり返っていた。

 医師によれば、あと少しで死んでいた。

 それ以降も欠かさず続けている。これがないと火事の記憶が蘇ってしまう。だから最も強い薬を処方してもらった。効果てきめんだが、副作用に苛まれている。過眠症と健忘症だ。

 寝過ごしてしまい面接や説明会をすっぽかす。薬を飲んだ後の記憶を忘れがちになり、これまた大事な約束を疎かにする。でも深い眠りは私につかの間の安息を与える。だから私は時々大目に薬を飲む。

 いつ死んでも構わない。

 死とは生とは何か。明確な解を持っている人間などいるだろうか。解を知っているというなら、そいつはとんだペテン師だ。誰も死んだ世界を見て生き返ったやつはいない。見てもいない世界を高らかと語るやつは大勢いる。いわゆる宗教家というやつだ。

「おかげで薬漬けだ。就職も厳しいだろうな」

「どうやって生きていくの?」

 痛いところを突くなと私は思ったが、相手側からすれば当然だろう。私の生計は年金である。両親が死んで遺族年金を受給している。多少のアルバイトもやっている。これらが私の収入源だ。じきに二十歳になる。生きていただけでも幸せものである。

「じゃあ何とかなっているわけね」

「あまり良い状態じゃないが」

 私は吹かしたマールボロを灰皿で私は消す。ケホケホと、ニイナは煙草の吸殻を見て嫌な表情をする。

「復讐は諦めちゃだめ。私、協力するよ」

 ニイナはじっと私を見つめながら首を振る。

「何で君がムキになる。これは僕の問題だ」

「違う二人の問題だから」

「どういう意味だ?」

「あの火事は私のせいでもあるから。あいつらが何をやっていたのか、知っていたのに止められなかった」

 ニイナは気まずく火事の話をする。私は鞄に閉まっていたメモ帳を取り出し、

書き留める。四人は出禁になる前に私の家で放火の準備をしていたという話だ。

 北宮弘毅は保育士の手伝いを利用してガソリンを家に運んだ。

 武田知名は家の電話を切って通報が遅く鳴るようした。

 川内猛は言葉巧みに余ったガソリンを父の車に足すよう提案した。

 吉森さとみはガソリンの調達をしていた。

「でもあいつらは父が出禁にしたはずじゃないか?」

 四人が来るたびに家の物がなくなる。鞄、時計、古物などが知らぬ間に消えていた。私が気づき事なきを得た。

 事件の直後は激情のあまり、四人が家を出禁にされた逆恨みで放火したと信じていた。

果たしてそんな動機で火を付けるだろうか。

 むしろ逆に四人に望ましい状況じゃないか。

 自宅に招かれた子供たちは例外なく、夜になると豹変するおぞましい父の犠牲者だった。

「だから困ったのよ。あの子たちは、西本先輩の家の地下に埋蔵金があると思っていたの。出禁になって掘り出す作業ができなくて火を付けたの。住んでいる人がいなくなれば、あとで掘り出せるはずだから」

「は?」

 ニイナの話が全く耳に入らなかった。まるで宇宙人と話している気分だが、言っている本人は大真面目だ。

「ばかばかしい」

「最後まで聞いて。気になったでしょう。私があなたの家に来た理由。四人の犯罪を止めるためよ。でも遅かったの」

「で、罪滅ぼしのために私にあいつらの情報を共有して、復讐するよう煽ったわけだ」

 ドンと私はテーブルを叩いて手早く会計を済ませて店を出る。

 待ってと追いすがるなーちゃんの手を私は勢いよく振り払う。

「帰ってくれないか」

 うんざりしていた。いつまで私は復讐に囚われないといけないのだ。私たちが生きているのは現実なのだ。小説ではない。時代は十九世紀のフランスではない。私はエドモン・ダンデスではない。

 今は二十一世紀だ。テクノロジーが進歩して犯罪をすればすぐに捕まってしまう。当然逮捕され有罪になれば私には前科が付く。仮に四人の人間を殺害すれば確実に死刑だ。

 私には生活がある。それら全てを失いたくない。

 育ててくれた西本夫婦の顔を潰すなどあり得ない。

「なんでよ!」

「信じられるわけないだろ! それに僕には生活があるんだ!」

 動機が埋蔵金?

 ふざけやがって。どんな三文ミステリー小説よりひどい動機過ぎる。

 ばかげている。一体そんなものがうちにあった話など聞いていない。父は不動産経営者だ。土地については詳しい人だ。家を建てる前にきちんと調べているはずだ。

「子どもじみた話を聞いて、はい復讐しますなんてなると思うか? 一体いくつになっていると思っているんだ!」

「子どもだったじゃない! 私も! あいつらも! あなたも!」

 ニイナにどうして復讐に固執するんだ。

 やはりどうであれ他人事だ。無事に里親も見つかって帰るべき家族がある。

「何が君を復讐に駆り立てる?」

「あの日、私はあいつらが何をするか分かっていた。でも止められなかった……」

 グスンと鼻水を啜る(すする)なーちゃんを見て自分は大人気ない。それに当時の私は若かった。すっかり美人になったなーちゃんの瑞々しい四肢を抱きしめたい欲求が湧いてきた。

「わかった。協力しよう。でもこれは俺の復讐じゃない。君の贖罪だ。そのために手伝おう」

「なにそれ。先輩の家族の問題でしょ」

「さっきも言ったが、あいつらがやった決定的な証拠がない。君が私の家族を助けられないことを悔やんで贖罪をしたいならなら手伝う」

「ばかみたい。多少復讐する気があるならいいけど」

 確かに、なーちゃんがいうことが事実なら許しがたい。自己都合のために私の家族は、母と妹の五月は焼け死んだかと思うと、怒りが込み上げてくる。

 だが、裏付ける確証はない。私が率先してやったと判断されては困る。

「今はどこに住んでいる?」

「大塚」

 私はよしと一人相槌を打った。

「卒業したら実家を出ろ。部屋を借りるから俺と暮らそう」

 ニイナはつぶらな瞳を開けて、少し私から距離を取ろうとした。

「何で黙っている? 申し訳ないと思っているなら、逃げるな」

 私は無理やり距離を詰めて抱きすくめる。

「わかった……」

「復讐の件はひとまずいい。君は大学受験を頑張れ。困ったことがあれば相談してくれ」

「はい。でもすぐにじゃなくていいよね」

「出来れば早く。君にこれをあげよう」

「プレゼントのつもり?」

 私はヒスイでできたペンダントを鞄の中に閉まっていた箱から取り出す。

「中に大事なものが入っている。君が僕に協力するというならあげる。決して無くさないでくれると信じている」

「なにそれ。怖いんだけど?」

「信じて頼んでいるんだ」

 ニイナが里親の監視を離れること。同居してしまえばどうにでもなる。復讐だって、何だって叶うはずだ。

 私は復讐とは別の感情で支配されていた。青少年なら必ず味わうものだ。

 頃合いだろう。

 最悪にして最後の記憶を語ろう。

 記録五
 日付:二〇〇九年六月十七日。
 時刻:午後十八時三〇分
 場所:東京都目黒区大岡山一‐二十三‐四 喫茶店「barrow」 
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