記憶にない思い出

戸笠耕一

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 逃げ延びた沙良は追手が来ないことか確認する。ホッとつかの間、仲間の一部は捕まってしまった。

 今回の一件で、沙良は確実に指名手配されるだろう。まあ、どうでもいい。

 沙良は誰かに追われる身になったが、これまたどうでもいい。

 隠れる場所はどこにでもあるし、準備は整っていた。

 ただ最後に会うべき人物がいたので、目的の場所に向かう。時間までわずかだった。

 目的の場所まで遠くない。このゴタゴタを想定して定めた場所なのだろう。沙良は記憶を取り戻したら伯父と伯母を殺しに向かう。

 沙良は待った。ただ待つだけでいい。風が涼しい。

 待ち合わせの場所に人物はやってきた。

「やあ、すっかり元気そうじゃないか?」

「そろそろ来る頃かと思っていたけど、相変わらずどこから来るか分からない人ね。読めないのは、気に入らないわ」

 語り掛けてきたのは以前沙良が記憶をなくしていたとき、尾坂理佐だったときの男。すっかり記憶を取り戻した沙良にとって、なじみの顔だ。

新井傑。組織のもう一人のボスにして創立者。沙良を覆う闇を作ったのは彼である。

傑の名前ははっきりと覚えている。その名を記憶したのは10年も前。仇の名前。どんな人間も沙良の読み通りに動く。人の行動にはパターンがあり、頭にパターンを入れてしまえば何も怖くない。

 唯一の例外が沙良の目の前でニヒルに笑っている男。

 新井傑も沙良と同じ。人の行動を読むことができる。

 仇は想像以上に手ごわいし、殺せる人間がいるとしたら沙良しかいない。傑と10年近く会っていなかったから、どれほど傑の先読みがどこまで進歩しているかだ。

「おかげさまでね。でも色々道草を食ってしまったわ」

 沙良はホッとため息をついた。

「命を狙われていたのは想定していたが、記憶を失うのは想定外だったわけだ。記憶も取り戻したみたいだが、色々動きすぎじゃないか?」

「あなたこそ、私の記憶を取り戻す手伝いをするなんてどういう風の吹き回しかしら?」

「沙良、君に残念なお知らせをしなくちゃいけないよ。明日から君の手配書が全国に張り出される」

「気にする必要はないわ。いずれ別に隠れる必要もなくなるし、今は清々しているのよ。邪魔者が消えてね」

 沙良にとっては正彦と佳子はただただ目の上のたん瘤だった。裏家業にミスは許されないといって置きながら警察に目を付けられる、雇った殺し屋はヘマをするし、尻ぬぐいをさせられてきた。

 仕事でミスをした者やターゲットへ数字の八に縦線を引いたマークが送り付けられる。これは組織の名前だった。傑のイニシャルSと沙良のイニシャルSを重ね合わせたマークで、送りつけられた者は例外なく組織から消される。

「身内なんて何のあてにもならない」

「そろそろ本題に入らせてくれ」

 傑は饒舌な口ぶりを一瞬だけ閉ざし、またほほ笑んだ。

「本気で世界をひっくり返すつもりかい?」

「もちろん。ここまで組織を大きくしたのよ。傑さんのただの暇つぶしが膨れ上がりここまで。すごいことじゃない?」

「くどいようだが、はっきり言っておこう。僕と本気で戦わないほうがいいと思うがね」

 傑はもう笑っていなかった。

「あなたこそ、残り僅かな人生をせいぜい楽しむことね」

 男は腕を組んで考えていた。

「僕への君の恨みは根深いものだ。しかし、君の両親を僕が直接殺したわけじゃないし、何より両親が死んで君自身が一番喜んでいるはずじゃないのかい?」

「そうね。両親は私に出来のいい娘でいるよう強いた。今思えばしんどかった」

 沙良は言葉とは裏腹にどこか懐かしんでいるようだ。

「両親を殺したあなたの父も乗っていたトラックで死んでしまったし、トラックに細工したあなたの母も愛人も自殺してしまった」

「僕にどんな罪があるのかね?」

「確かにあなたにたどり着く証拠はない。でも、あなたが裏で操っていたのは、あなたが教えてくれたのよ。仇の名前は新井傑って」

「だからといってどうにもなる話ではないよ。君はもっと自分の才能を有効に生かすべきだ。実らない復讐計画などに時間をかけるのではなく」

「あなたは私が殺す。それができるのはこの私だけよ。この世でね」

「いいかい、最適解が何かを話をしているのさ。若さに任せて身の丈に合わない事なんて言わないほうがいいぞ。君じゃ僕は殺せない。10年間、君は僕を横で見ていただろう? 冷静に考えてみてはどうだい?」

「人は理屈では動かないものよ。人を殺してはいけないなんていうのも理屈じゃなくて反射よ」

「反射するのがただの光ならいいが、人が生の感情をぶつけ合うのはどうかと思うが? いい加減、君も組織の長だからわかるだろう。人間は管理されなければならない」

 沙良は男の御託を聞くのが嫌になった。新井傑は常に人を教え説こうとする。沙良が袂を分かったのはそういうところがある。

 尾坂家からくすねてきた煙草を沙良はつまんだ。やめられない中毒性がスティック状の白い棒にはある。

「煙草を吸うとは思わなかった。においがしたから気にはなっていたけど」

「はいはい。話はもういいわ。私が勝てば世界は獣の楽園になる。あなたが勝てば完璧に統一された社会秩序が維持される。ただそれだけのことよ」

「分からないね。でも君が望んだことなら仕方あるまい」

「最後に聞くけど、覚悟は出来たのかしら?」

「その言葉、そっくりお返ししようか」

 2人は互いの顔を見て笑い合うが、これが最後になる。どちらかは死ぬのだから。

「楽しい日々だったわ。次が最後だから。思い出に一本あなたも」

 沙良は煙草を一本差し出した。

「光栄だね。君の成長を心から嬉しく思うよ。そうだ僕からのプレゼントだ」

「何かしら?」

 傑が胸ポケットから渡したのは小型のプラスチック製の入れ物で、中を開けると耳栓が入っていた。

「君には必要だろう? ないと集中力が三割落ちるだろ?」

「ありがとう。全力であなたを殺せるわ」

 愛用の耳栓は事故に遭った日に燃え尽きてしまった。どこかで仕入れようと思っていたが、手間が省けた。

 2人は煙草を吸った。シュと音を立てて、青白い火柱が立ち込んだ。2人は互いの顔を見て笑い合った。昔から仲が良かった。だからこそ殺し合う。

 互いに記憶の中の思い出をまた1つ増やした。
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